伊藤塾・明日の法律家講座レポート

2015年4月25日@東京校

「けんぽう手習い塾」でおなじみの伊藤真さんが主宰する、資格試験学校の伊藤塾では、
法律家・行政官を目指す塾生向けの公開講演会を定期的に実施しています。
弁護士、裁判官、ジャーナリスト、NGO活動家など
さまざまな分野で活躍中の人を講師に招いて行われている
「明日の法律家講座」を、随時レポートしていきます。
なおこの講演会は、一般にも無料で公開されています。

【講師】
宇都宮健児 氏
(弁護士、元日本弁護士連合会会長)

●講師の主なプロフィール:
1946年愛媛県生まれ、1969年東京大学法学部中退、司法研修所入所、1971年弁護士登録、東京弁護士会所属、地下鉄サリン事件被害対策弁護団団長、年越し派遣村名誉村長、日本弁護士連合会会長などを歴任。2012年12月と2014年2月の東京都知事選に出馬。弁護士として、クレジット・サラ金問題に早くから取り組み、多重債務に苦しむ多くの人を助ける。現在、全国クレサラ・生活再建問題対策協議会副代表幹事、全国ヤミ金融・悪質金融対策会議代表幹事などをつとめる。また、反貧困ネットワーク代表世話人として、貧困問題の解決に向けた運動にも取り組む。

◆主な著書:『消費者金融 実態と救済』(岩波新書)、『大丈夫、人生はやり直せる-サラ金・ヤミ金・貧困との闘い』(新日本出版社)、『反貧困-半生の記』(花伝社)、『「悪」と闘う』(朝日新書)、『自己責任論の嘘』(ベスト新書)、『秘密保護法―社会はどう変わるのか』(共著・集英社新書)など多数。

はじめに

 宇都宮健児先生は、当時は誰もやりたがらなかったサラ金事件を手がけたことをきっかけに、サラ金問題・多重債務問題に本格的に取り組むようになります。はじめは個別のサラ金被害者の救済をしていましたが、サラ金被害者・多重債務者が大量に存在することを知り、そのような人々を救済するために、サラ金三悪(高金利・過剰融資・苛酷な取り立て)を規制する立法運動に取り組みました。
 それらに関連する法律の制定後は、多重債務問題の背後にあった貧困問題に取り組むようになります。貧困問題の取り組みとしては、2007年に「反貧困ネットワーク」を結成し、2008年末からは「年越し派遣村」の取り組みをされました。
 そして、弁護士として取り組んできたサラ金被害者救済運動や反貧困運動の延長として、日弁連会長選挙や東京都知事選挙に挑むことになります。今回は、何よりも弱者の人権救済を大事にしてきた先生の弁護士人生を振り返り、「今こそ伝えておきたい」ということをお話しいただきました。

自分だけが金持ちになっていいのか?

 私は愛媛県の漁村で生まれました。私が小学校3年生の夏、一家そろって大分県の国東半島に開拓農家として入植することになります。戦争で足を負傷した父親は、そこで山林の開拓を行いました。クワで地面を掘り起こして、硬い岩盤に立ち向かうのです。文句も言わずに黙々と作業をしていましたが、冬になると手の平がひび割れて裂けてきます。そんな親の姿を見ていたので、お金を儲けて、早く親に楽をさせたいという気持ちが強くなりました。そして勉学で身を立てようと、東京大学に入ったのです。
 当時は東大法学部を出たら、官僚や大企業の社員になるのが普通で、法律家になる人はほとんどいませんでした。そもそも私は、弁護士という職業があることも知らなかったのです。
 しかし、たまたま出会った2冊の本で人生が変わります。1冊は部落問題研究会というサークルで貸してもらった、『わたしゃそれでも生きてきた―部落からの告発』(部落問題研究所出版部)という、12人の部落出身の女性の手記です。部落差別があったことは聞いていましたが、まだ差別が続いていることは知りませんでした。手記を書いた一人に、52歳の女性がいました。その方はあまりに貧乏で、学校にも行けず、字を知らずに育ちました。同和教育によって52歳になって「あいうえお」を習い、初めて書いたのがこの手記だったのです。こんな現実があるのかと大変驚きました。 
 もう一冊は、炭坑で働く人たちが暮らす地域の学校の先生が、子どもに書かせた作文や詩を集めた本でした。そこでは親から「イモを盗んでこい」と言われる子どもの苦しみなど、貧困に起因した境遇が子どもの素直な文章で綴られていました。私も出身は貧しかったので、自分の境遇と思いを重ねました。
 私はこのまま官庁や大企業に勤めて、自分の家族だけが貧困から抜け出すことに後ろめたさを感じました。他の貧しい人たちの状況は何ら変わらないからです。そのとき寮で、「自分は弁護士になる」と語る先輩がいました。自由な職業だし、場合によっては人助けもできると聞き、私も弁護士を目指すようになったのです。そして大学3年の秋から猛烈に勉強して、司法試験に合格しました。

サラ金事件との出会い

 弁護士になると普通は、最初の3~4年は弁護士事務所に所属して働き、自分のお客さんがつくようになると独立します。ところが私には営業センスがなく、いつまでたっても独立することができませんでした。当時、大きな社会問題になっていたのがサラ金の多重債務の問題です。普通の弁護士は、サラ金を規制する法律もなく、バックに暴力団がついているのではないかと思われるような事件を引き受けたがりませんでした。そこで仕事のなかった自分に、弁護士会からサラ金事件が回ってきたのです。
 引き受けたのはよいものの、サラ金事件に詳しい弁護士はまわりに誰もいませんでした。債務者一人につき、だいたい20ヶ所くらいのサラ金業者からお金を借りているので、1軒ずつ回って、「自分が代理人になったから、本人への取り立てをやめて欲しい」と依頼しました。でも話になりません。翌日からは私の事務所に「ボケ! カス! コノヤロウ、宇都宮おるか!」「代理人なら早く金払え!」といったおどしの電話が相次ぐようになりました。これは大変な事件を受けたなと思いました。
 でも弁護士が入ることで、債務者への対応は以前よりはましになりました。相談に来る人は早朝から深夜までめちゃくちゃに追い立てられて精神的に追い込まれていました。自殺未遂をおこした人もいましたが、弁護士に相談に乗ってもらい、取り立てに対しても「弁護士から払うなと言われている」と言い逃れができるようになったことで、みるみる健康を回復していきました。私はやりがいを感じるようになりました。
 そういう私を見た弁護士会は、「これはよい弁護士を見つけた」と思ったのでしょう。どんどんサラ金事件を回してきました。もちろんすぐに一人の手には負えなくなりました。私は弁護士会全体で対応すべきだと提案し、1980年2月に東京弁護士会にサラ金専門の相談窓口を作りました。ところがそれでも手が回らなくなります。相談者が津波のようにやってきて、あるときは弁護士会の窓口から何百人もの行列ができるようになりました。予約制にしたら、今度は3ヶ月待ちという状態になりました。でも3ヶ月先に予約した人たちは、予約の日になっても来ませんでした。弁護士がつかずに何ヶ月も取り立てられているので、耐えられずに蒸発してしまうのです。 

サラ金規制法の立法運動に取り組む

 私は、弁護士会や弁護士事務所にたどり着けないサラ金被害者を救済しなくてはと考えました。サラ金をめぐっては、高金利、過剰融資、苛酷な取り立てという3つの大きな問題が野放しにされてきました。当時は金利を年100%で設定しているサラ金業者も多く、50万円を借りると1年後に倍の100万円になるのです。そうした高金利を規制する法律を作る必要がありました。また、当時はサラ金業者に登録は不要だったので、暴力団が営業をすることもありました。それも登録制にして、暴力的な取り立てを規制する必要がありました。
 私は、全国サラ金問題対策協議会(現在の「全国クレサラ・生活再建問題対策協議会」)に参加して立法運動に取り組み、国会議員に対するロビー活動も行いました。それで1983年に出資法改正法と、貸金業規制法からなる、いわゆる「サラ金規制法」が成立したのです。
 法律が施行されたのは11月1日からでした。10月31日までは、サラ金業者から暴力的な電話がかかってきていたのですが、11月1日になって急にサラ金業者の電話の態度もコロッと変わって丁寧になりました。暴力的な取り立ても、弁護士が受任通知書を1通出すだけで止まるようになりました。そのとき私は、法律の力を実感したのです。
 その後も何回かにわたり、サラ金など貸金業者の規制を強化する法律を作りました。そして2006年12月には、金利規制と過剰融資規制を抜本的に強化する改正貸金業法(貸金業規正法・出資法・利息制限法の改正法)が成立しました。それによる効果としては、まず貸金業者が激減しました。1980年代は47,000の業者がいたのですが、現在は2,000業者くらいになっています。その中で、暴力団がバックについている闇金も減りました。個人の自己破産申立件数は、2003年をピークに減少してきています。また借金苦を理由とした自殺者数も、2009年をピークに減少してきています。多重債務の相談自体も激減しました。

背景にある貧困問題

 2007年には、私たちは自殺の名所と言われた富士山麓の青木ヶ原樹海に、「借金の解決は必ず出来ます!」と書いた看板を設置しました。看板には被害者団体の電話番号も書いておきました。樹海で死のうと思い、看板が目に入って電話をかけてきた人は、2015年3月末までに184人にも上っています。また、この活動がメディアに掲載されたことで、2015年3月末までに3万2344件の相談が寄せられています。
 それでも、サラ金からお金を借りる人はいなくなりません。なぜ高利だとわかっていてもサラ金から借りるのでしょうか? 私は、その背景にある生活苦・低所得・失業などの貧困問題を何とかしなければならないと考えるようになりました。
 そこで2007年に、当時路上生活者の支援活動をしていた湯浅誠さんらと「反貧困ネットワーク」を作りました。また、2008年にはリーマンショックでどんどん派遣労働者が解雇されるという事態が起こります。解雇された派遣労働者の中には、ネットカフェにもいられなくなって、野宿を余儀なくされる人が多数出てきました。年末年始は自治体の業務もストップしてしまう。そこで、年越し派遣村を実施すると、大反響がありました。派遣村に入村したほとんどの人は、全財産である100円玉を握りしめてやってくるような状態だったのです。日本は「経済大国」と言われてきたのですが、仕事を失っただけで住まいも失うような人が、大量にいることがこれでわかりました。これは、国がなんとかしなければならない問題です。

日弁連会長と東京都知事選

 私は、2010年に行われた日本弁護士連合会(日弁連)の会長選挙の候補者の一人に推されました。サラ金・クレジット問題や貧困問題の取り組みを一緒にやってきた仲間が全国にいたので、皆さんの支援で2010年の会長選挙で当選し、会長となりました。私が、日弁連会長になって最初に作った対策本部が、貧困問題対策本部でした。
 そして会長になった翌年に東日本大震災と原発事故が起きました。そこで避難所や仮設住宅に弁護士を派遣して無料法律相談を行ったり、原発ADR(原子力損害賠償紛争解決センター)を設置して、少しでも被災者・被害者の人権が守られるよう日弁連として努力しました。 
 会長を辞めたら今度は都知事選挙に出馬して欲しいと要請されました。当時の都知事だった石原さんは福祉の予算を削り、貧困対策を何もしませんでした。東京は世界の大都市ですが、貧困に苦しむ人たちが増えていたのです。それで2012年と2014年の都知事選挙に出馬することにしました。残念ながら選挙では敗れましたが、「負けたら終わり」にはなっていません。都知事選には2,000人を超える若いボランティアが集まってくれました。ボランティアの皆さんと一緒にいろいろな市民運動・社会運動をしたり、今回(2015年4月26日)の統一地方選挙にも、ボランティアの中からたくさん立候補したりしています。その方たちを私も応援しているのです。

法曹をめざす人に伝えたいこと

 法曹の役割とは何でしょうか? 私は、まず第一に国民・市民の基本的人権を守ることと社会正義を実現することだと思います。弁護士法第一条には、このことが弁護士の使命であると定められていますが、裁判官や検察官も同じ使命をもっていると考えています。
 三権分立体制下での司法の主要な役割は、憲法が保障する国民・市民の基本的人権を守るという視点から、立法・行政をチェックするところにあります。これまで日本の裁判所はこの役割を十分果たしてきませんでした。
 法曹の役割の第二は、立法にもっと関与することです。個別事件の解決で満足せず、私がサラ金三悪(高金利・過剰融資・苛酷な取り立て)を規制する立法運動に取り組んだように、問題全体を解決するために立法活動をもっと積極的に行うべきです。
 法曹の役割の第三は、政治にもっと関与することです。弁護士が取り組んでいるさまざまな人権課題を解決するためには、さまざまな立法・法改正が求められています。さまざまな立法や法改正を行うためには、立法や法改正を行う国会議員に対するロビー活動が必要ですが、自らが国会議員になって立法や法改正を行うことも積極的に考えるべきだと思っています。

 

  

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