伊藤塾・明日の法律家講座レポート

2014年6月14日@渋谷校

「けんぽう手習い塾」でおなじみの伊藤真さんが主宰する、資格試験学校の伊藤塾では、
法律家・行政官を目指す塾生向けの公開講演会を定期的に実施しています。
弁護士、裁判官、ジャーナリスト、NGO活動家など
さまざまな分野で活躍中の人を講師に招いて行われている
「明日の法律家講座」を、随時レポートしていきます。
なおこの講演会は、一般にも無料で公開されています。

【講師】
瀬木 比呂志 氏
(明治大学法科大学院教授、元裁判官)

●講師プロフィール
名古屋市出身。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。1979年以降、裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務。並行して研究、執筆や学会報告を行う。2012年、明治大学法科大学院専任教授に就任。民事訴訟法、同演習、民事執行・保全法等を担当。
●著書
研究の総論『民事訴訟の本質と諸相』、体系書『民事保全法〔新訂版〕』(以上日本評論社)等多数。特に2014年2月発刊の日本の裁判所・裁判官制度の包括的批判をした『絶望の裁判所』(講談社現代新書)は、司法界に大きな問題提起を行った。多くのメディアでも取り上げられ、いち早く韓国版が刊行され、アメリカ等海外からの反響も高まっている。

はじめに

 瀬木比呂志さんは、33年間民事系の裁判官を務め、うち20年余りについては、並行して研究、執筆にも携わってこられました。2012年からは明治大学に籍を移し、研究に専念されています。2014年2月には、裁判官時代に体験したことを含めて、日本の裁判所、裁判官が抱えるさまざまな問題を指摘した書籍『絶望の裁判所』(講談社現代新書)を出版。司法、法律系の書籍としては初めてといってよいほどの大きな反響を呼びました。今回は、その『絶望の裁判所』で書かれた内容を元に、すべての日本人にとって他人事ではない数々の問題を抱える司法の現状や今後の展望についてお話しいただきました。

私が裁判官をやめた理由

 私が書いた『絶望の裁判所』という本には、司法をテーマにした本にしては珍しく、法律家以外の方々からも大きな反響がありました。その背景には、司法に対する市井の人々の不満が鬱積していたという事情があると思っています。
 2000年に行われた調査によれば、民事裁判を利用した人々が訴訟制度に対して満足していると答えた割合は18.6%で、利用しやすいと答えた人も22.4%しかいませんでした。日本では、訴訟を経験した人の方がそうでない人よりも、司法に対する評価がかなり低いのです。もしあなたが紛争に巻き込まれ、やむをえず裁判所に訴えて正義を実現してもらおうとしても、残念ながら、今の日本の裁判所と裁判官の実態は、国民の期待に応えられるようなものではありません。1割程度はその期待に応えられる裁判官もいるのですが、彼らはマイノリティーで、その人たちが裁判所の実態を変えられる可能性は皆無に等しい状況です。
 一般市民である当事者は、多くの裁判官にとっては訴訟記録の片隅に記載されるだけの「記号」にすぎません。その人にとって切実な運命も、本当のことを言えば、裁判官にとってはどうでもいいことなのです。日本の裁判官の関心は、とにかく早く、そつなく「事件を処理」することです。そこではえん罪事件などいくらかあっても別にどうということはなく、全体としての秩序維持、社会防衛のほうが大切にされます。基本的には権力者の意向に添った判決しか出しません。そうした裁判所は、大局的に見て「国民、市民支配のための道具、装置」の役割を担っているのです。とくに2000年代以降はその傾向は顕著で、裁判官の官僚化が進んできました。私は、そのような裁判所に失望し、裁判官をやめて学者になりました。そして、一般の人々に裁判所に実態を知っていただこうと、本書を執筆したのです。

「檻」の中の裁判官たち

 日本の裁判所のシステムは、閉鎖型の中央集権主義で、まるで中世のようだと言われています。それを象徴しているのが裁判官の管理服務規律です。日本の裁判官は、24時間拘束されることになっていますが、このような規定は他の先進国ではありません。この規定は明治20年にできたものをそのまま使っていて、なぜこれが変わらないのかが昔から謎とされているのです。私は、裁判官を管理する上で、この規定があった方が都合が良いからだと思っています。裁判官のほとんどは、狭い世界に閉じ込められているので、こうした閉塞した全体的な状況を明確に意識することはあまりありません。しかし、いったん自らの信じる所に従って裁判や研究を行おうとすると、鉄格子のようなものにぶつかります。そのような状況を指して、私は「『檻』の中の裁判官」「精神的『収容所群島』の囚人」と呼んでいます。
 裁判官は、相撲の番付表のように並べられた細かいヒエラルキーで管理されています。そのヒエラルキーの人事権を握り管理しているのが、最高裁判所の事務総局です。日本では転勤システムが全国にまたがっているので、何か事務総局の意にそぐわないことがあれば転々と飛ばされることになります。昔は事務総局もそうした強い権限をもっていることに意識的だっただけに、あまり下のレベルにまでその意向を貫徹することはありませんでした。しかし、今では裁判長レベルの人事にまで口を出すようになっています。地方裁判所の所長というと、一般の方は大変な権限を持っていると思うかもしれませんが、実際には大きな権限はありません。そのため裁判官は、常に事務総局を気にしながら判決を出すシステムになっています。そういう上ばかり気にする「ヒラメ裁判官」が増えているというわけです。こんなことは世界ではあり得ません。例えばアメリカだったら、裁判官が自分の勤め先から動くことなんてないのです。

誰のため、何のための裁判?

 裁判の目的とはいったい何でしょうか? 私は、ひと言でいえば、「大きな正義」と「ささやかな正義」の双方を実現することだと考えています。「大きな正義」とは三権分立等に関わることで、行政などの権力に問題があった場合にストップをかける機能です。「ささやかな正義」とは、小さな事件であったとしても、司法のルールに則って、当事者の納得いくような正義を実現していくことです。しかし現実の裁判所では、そのどちらもがおざなりにされ、早くそつなく事件を処理することが優先されています。
 そうした事例は数多くありますが、例えば「和解の強要と押しつけ」は日本の民事裁判に特徴的な問題になっています。日本の裁判所では当事者が交互に裁判官と面接し、かなりの日数を和解のために重ねますが、これは国際標準ではありません。多くの国では和解は必ず当事者双方の対席で行われるし、裁判官が長時間かけて当事者を説得するなどといったこともないのです。裁判官が和解に固執する背景には、二つの理由があります。一つは、早く事件を「処理」したい、終わらせたいからです。裁判官の事件処理件数はデータ化されているので、いわゆる未済事件が増えれば「赤字」になって「事件処理能力」が問われるし、手持ち件数も増えて負担が大きくなります。そのため、当事者の意向とは関係なく、裁判官としてはできるだけ早く終わらせたいと思っているのです。
 もう一つの理由は、判決を書きたくないからです。これには、困難な判断を回避したいという場合もありますが、単に判決を書くのが面倒だという心理も働いています。また、判決を書くことで所長や高裁の裁判長によって評価され、場合によっては失点にもつながることを避けたいという気持ちもあります。
 私も裁判の迅速化には異論ありませんが、内容を無視して急げば良いというものではありません。当事者には、判決を求める自由と権利、そして判決が間違っていると思えば最後まで争う自由と権利があります。しかし、当事者の意向を無視して、裁判官の都合で和解が強要されているのが現実なのです。最近は事件の受件数が減少しているにもかかわらず、和解の強要傾向はまったく改善されていません。
 

今こそ司法を国民、市民のものに

 初めに申し上げたように、今でもきちんと裁判をしようという勇気ある裁判官も1割程度はいます。例えば、袴田事件でも再審開始にとどまらず即日釈放まで踏み切ったというのは勇気あることでした。しかし、そうした思い切った判断は、定年退官あるいは自主的な退官が視野に入ってきているような人しか出しにくい、というのが今の日本の裁判所の状況なのです。
 根本的に非民主的な日本の司法システムが、今後も民主制の下で永久に持ちこたえるとは私には思えません。このシステムは、やがて実質的に崩壊するでしょう。その崩壊は、裁判官の能力とモラルの地滑り的な低下、裁判、和解、訴訟指揮の質の低下といった形をとって、すぐに結果が見えるという形ではなく進行していきます。
 私は、この司法システムは根本的に改革する必要があると考えています。その一つが法曹一元化(※)の採用と導入です。また、諸悪の根源である最高裁判所事務総局を基本的には解体し、人事は真に開かれた透明なシステムで行われるようにする必要もあります。
 「法曹一元化など、現実的にはありえない」と言う人がいますが、私は「弁護士の中のすぐれた人々が裁判官になることを可能にする条件さえ整えれば、十分に可能である」と思っています。日本の弁護士層の厚みは、すでに法曹一元制度を支えるに足りるものになっているのです。現在のキャリアシステムにはもはや自浄能力はありません。日本の裁判を、国民、市民のための裁判に、つまり当事者のことを第一に考える裁判にしていくために、また、三権分立の要として行政や立法を適切にチェックする機能を果たすような裁判所とするために、早急に改革を行うことが必要になっています。
 現在、一般の方の司法への期待度は20%程度しかありません。今のままでは、国民から信頼されなくなった裁判所とともに、弁護士会も共倒れになるのではないかとも思います。これから法律家をめざすみなさんは、このような状況で自分はどうするのかについて直視してほしいと思っています。
 

※法曹一元化…法律家の養成を一元的に行い、弁護士その他の法律家として相当期間経験を積んだ者から裁判官を選任する、イギリスやアメリカで用いられている制度。現在の日本では、裁判官は最初から裁判官として採用され、裁判所内部での訓練・養成を経て、上級職に昇進するキャリアシステムがとられている。

 

  

※コメントは承認制です。
今こそ司法を国民、市民の手に!
~元裁判官からの提言

瀬木比呂志氏
」 に4件のコメント

  1. 島 憲治 より:

    違憲状態で選出された国会議員で組織する国会。その国会の議決で撰ぶ内閣総理大臣。その内閣総理大臣が国務大臣を任命する。つまり、国会も内閣も違憲状態で正当性がないのだ。
     では、三権分立で人権最後の砦である裁判所はどうか。瀬木比呂志さんは「今の日本の裁判所と裁判官の実態は、国民の期待に応えられるようなものではありません。1割程度はその期待に応えられる裁判官もいるのですが、彼らはマイノリティで、」と指摘する。これが事実とすれば司法に対する国民の信頼が大きく揺らぐ。延いては、司法の存在を揺るがしかねない。

    又、「思い切った判断は、定年退官あるいは自主的な退官が視野に入って来ているような人しか出しにくい、というのが今の日本の裁判所の状況なのです。」とも指摘する。だとすれば、そのとばっちりは全て国民に跳ね返ってくるのだ。

      憲法76条3項は 「すべて裁判官は、その良心に従え独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律ににのみ拘束される」と定める。もし、裁判所組織が裁判官の職権の独立に実質的に立ちはだかっているとすれば憲法違反と言われても仕方があるまい。

     現状は私には、中国、あるいは北朝鮮の脅威論に目を奪われ、その間に足下の国の骨格、つまり、立法、行政、司法が音を立てて崩れている様に映るのだ。その脅威が現実化する前に自国が先に崩壊するのではないか、と危惧する。
                                                                            

  2. 林 哲男 より:

    私も、民事訴訟をして大企業に負けました。納得ゆかない。何年も苦労して、私が代表者なので全て悪意があると主張しても、曖昧な律証しか出来無い大企業に負けました。その時に事実を知っているのは原告の私なのに何故負けたのかわからない。絶望している。控訴しても同じでしょう。下請法違反で行政監督庁に通知したほうが良いでしょうか。

  3. 大井嗣三 より:

    お話の最後に「三権分立の要として行政や立法を適切にチェックする機能を果たすような裁判所」が早急に必要だとおっしゃっています。しかし、どうしても判らないのです。合憲か違憲かを判断するのは裁判所の究極の責務だと思うのですが、集団的自衛権を合憲とする憲法解釈の権限は内閣にあるという現状は本当に三権分立と言えるのでしょうか。明らかに行政による違憲醸成行動が暴走していると思うのですが、司法関係者からの声はほとんど聞きません。事件が発生するまで傍観することが三権分立の本当の姿なのでしょうか。それとも「三権分立」という憲法の根本理念は司法関係者を具体的な行動に駆り立てる魅力が全くないないお題目に過ぎないのでしょうか。米国なら、基本理念こそ己の行動の拠って立つ第一のベースになるのではないかと思うのですが・・。

  4. 栗原敏勝 より:

    裁判傍聴者を募ります。当日、会場にどうぞ!

    事件番号 平成27年(ネ)第416号 損害賠償、反訴請求控訴事件

     郵便100-8933
     東京都千代田区霞が関1-1-1 東京高等裁判所第10民事部ロハ2係
     裁判所書記官 千葉文彦
     電話 03-3581-2021 FAX 03-3692-0854

    期日 平成27年4月16日(木) 午後2時00分

    口頭弁論期日 出頭場所 825号法定(8階)

    初めから結論ありきの裁判官が勝たせようと決めた方が勝つ陥穽裁判です。
    (自由心証主義)
    民事訴訟法第二百四十七条  裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を真実と認めるべきか否かを判断する。一般社会の通常人であれば、容易に知り得たことも乖離していた判断をしています。
    「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる」と規定、自由心証主義とは、証拠能力のある証拠の証明力評価について、中立・公正な観察者・判断者であるべき裁判官の理性を信頼する主義である。どんな証拠立証しても、法律に違反していても裁判官が認めたことはなんでもありの恣意的判断が横行しても誰も、意見を述べられない。
    裁判を経験して、初めて知った民事訴訟ではどんな確実な証拠があっても、何の役にもたたないのである。

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