2014年4月19日@高田馬場校
「けんぽう手習い塾」でおなじみの伊藤真さんが主宰する、資格試験学校の伊藤塾では、
法律家・行政官を目指す塾生向けの公開講演会を定期的に実施しています。
弁護士、裁判官、ジャーナリスト、NGO活動家など
さまざまな分野で活躍中の人を講師に招いて行われている
「明日の法律家講座」を、随時レポートしていきます。
なおこの講演会は、一般にも無料で公開されています。
【講師】
村松 昭夫氏(左)
(弁護士、「大川・村松・坂本法律事務所」所属、大阪・泉南アスベスト弁護団副団長)
澤田 慎一郎氏(右)
(千葉大学人文社会科学研究科修士課程在籍)
●講師プロフィール
村松 昭夫氏:1979年司法試験合格、1982年弁護士登録。現在、大川・村松・坂本法律事務所所属弁護士。役職に元日弁連公害対策・環境保全委員会委員長、前全国公害弁護団連絡会議幹事長、財団法人公害地域再生センター理事長、日本環境会議副理事長など。
澤田 慎一郎氏:2007年、泉南地域のアスベスト問題に大学の卒業研究として取り組み始める。2009年、京都精華大学人文学部卒業。2012年、千葉大学人文社会科学研究科入学。全国労働安全衛生センター連絡会議事務局次長、泉南アスベスト国賠勝たせる会事務局。
はじめに
かつて「魔法の鉱物」ともてはやされたアスベスト(石綿)は、日本では過去約1,000万トンが輸入され、建材を中心に3,000種類もの用途に用いられました。その多くは、今もビルなどに残っているのです。
現在、そのアスベストを原因とする中皮腫、肺がん、石綿肺などの病気が、毎年数千人規模で発生しています。アスベスト被害は、採掘、運搬、加工、使用、廃棄の経済活動の全ての過程で発生するとされ、今後も数万人規模での被害発生が予測されているとのこと。まさに、史上最悪の公害と言えます。
今回は、大阪・泉南地域でそのアスベスト被害への救済を求める訴訟(泉南アスベスト国賠訴訟)に携わってきた村松昭夫弁護士と澤田慎一郎氏のお二人から、被害の掘り起こし、裁判提起、法廷活動、法廷外での運動など、これまでの取り組みと思いを語っていただきました。
泉南アスベスト訴訟とは(村松)
大阪府南西部にあたる泉南地域には、20世紀初めから小規模零細の石綿紡織工場が集中的に立地し、戦前は軍艦製造などの軍需産業を、戦後は造船や自動車などの基幹産業を下支えしてきました。
泉南アスベスト国賠訴訟は、そうした泉南地域のアスベスト被害に対する国の責任を問う裁判です。裁判は、2陣にわたって争われています。第1陣の地裁では勝利しましたが、高裁では敗訴。第2陣は地裁、高裁と勝利を重ねました。現在1陣、2陣ともに最高裁に係属中で、いずれも今年中に結論が出ると思われます。
私自身はこれまでにも、弁護士として公害問題などを多く手がけてきましたが、アスベスト問題の重要性を認識したのは、2005年に「クボタショック」(※1)が大きく報道されるようになってからです。
当時の政府は、2006年にアスベスト新法(※2)をつくって救済の対応を始めましたが、これは補償額が低くて不十分なものでした。このままで良いのかという声があがる中で、訴訟が始まったのです。私たち弁護団は、まず被害を把握するところからはじめようと、泉南地域で相談会やお医者さんによる検診を実施しましたが、石綿肺などの患者さんが大勢いることがわかってきました。患者さんの内訳は、工場で働いている人だけでなく、工場が近所にある人、あるいは工場の敷地内にある社宅に住んでいた従業員の家族もいました。
しかし、2006年に始まった第1陣の訴訟では、はじめは、原告は被害者8名のみでした。国が相手の裁判では勝てるかどうか分かりませんし、周囲からは「金が欲しいためにやっているんだろう」と言われるので、なかなか提訴しづらいという状況がありました。
通常、公害裁判の多くでは訴える相手は加害企業です。でも、泉南のアスベスト裁判では国の責任を追及しました。なぜかと言えば、泉南の石綿工場は、従業員5人くらいの、本当に小さな町工場でした。それら小さな企業はのちに次々とつぶれたり、廃業したりして、裁判を起こすときにはほとんど残っていませんでした。また、そういう企業では雇い主自身が工場に出て、一番危険な作業をしていました。その人たちは、経営者であると同時に被害者でもあったのです。一番悪いのは、危険性を知りながら、規制や対策をしなかった国でしたので、国を訴えることにしたのです。
アスベストの危険性については、すでに戦前の1937年から、国の保険院が労働実態調査を行い警告していました。このときの調査では、「石綿肺」という肺の病気に、石綿工場で10年以上働いている人は50%、20年以上なら100%の確率でなるという結果が出ていました。戦後の調査でも同様の結果が繰り返し出ていました。ところが、国は、経済発展と石綿の有用性を優先して、残念ながら規制や対策はとりませんでした。
つまり、国はかなり以前からアスベストが危険であり、発がん性もあると知っていたわけです。またそれを防ぐことは、法的にも技術的にも可能でした。局所排気装置という装置を設置すれば、粉塵による被害はかなりの程度防ぐことができました。これはシンプルな技術で、ドイツやアメリカ、イギリスなどでは、早くから設置が義務づけられていました。しかし日本政府はそれを行わず、さらには粉塵濃度についても非常に緩い規制しか設けないなど、さまざまな問題を放置したままにしていたのです。
アスベストは、吸い込んでから病気が発症するまで20年から50年かかるので、普通に生活していたら気がつきません。そんなに危険だとわかっていたらその工場では働かなかったという人が多いのですが、国は危険性に関する情報も労働者や国民に知らせてきませんでした。
第1陣の地裁や第2陣の地裁、高裁のように、裁判官が国の責任を認める判決を書くというのは大変なことです。国が負けるということは、賠償を税金で行うことを意味しています。そのため、結果を世間に納得してもらわないといけません。それは、裁判官にとって非常に責任の重いことなのです。
ですから、このような裁判で被害者側が勝つためには、事実関係をきちんと明らかにすることはもちろん、裁判官の決断を支持する世論をつくることが欠かせません。そういった意味でも、みなさんもぜひこの裁判に関心を持っていただけたらと思っています。
※1クボタショック
大手機械メーカー「クボタ」の石綿工場(兵庫県尼崎市)で働いていた従業員および周辺の住人がアスベストにより肺がんや中皮腫などを患っていることが明らかになった事件。工場労働者だけではなく、付近の住民にも命に関わる重大な疾患が出ていたことが、世間に衝撃を与えた。
※2アスベスト(石綿)新法
2006年3月に施行された、アスベスト被害者を救済する法律。被害者への支給金額は最高300万円で、低額であるとともに、申請しても認定されない件数も多数に上っている。
この問題の解決とは何か?(澤田)
アスベスト問題は日本だけでなく、世界中で進行している問題です。また、日本の救済補償はアジアの中では進歩的なので、この問題をめぐる日本の動きが、裁判も含めて他のアジア諸国に影響を及ぼすことは認識しておく必要があります。日本で法律ができると、それをコピーしたような法律が韓国でできたりすることもよくあるのです。
さまざまな論点がある中で、私からは、なぜ泉南地域のアスベスト被害を防ぐことができなかったのか? そしてこの問題の解決とは何だろうか? ということについて述べたいと思います。
アスベストの被害は、労働を通じて広がりました。こうした危険と分かっていながら働くような状況というのは、例えば今の福島原発の被曝労働についても言えるわけです。現実に命の危険がある中で働かざるを得ない方たちの存在を、私たちの社会が抱え込んでいるという一面があることは事実です。
では、実際に働いていた人たちはその危険をどれくらい知っていたのでしょうか。村松先生もおっしゃられたように、警鐘は早い段階から鳴らされていました。例えば1940年に当時の内務省の保険院が出した、泉南地域の石綿肺についての健康被害の調査報告書です。ここでは、「その症状ははなはだ深刻」で、「すみやかに予防と治療をすべき」と書かれています。また、マスコミ報道にもたびたび出ており、例えば1970年に朝日新聞が「石綿工場で肺がん」という記事を出しました。しかし、こうした報道をきっかけに、アスベスト業界団体のネットワークが反対キャンペーンをはじめます。業界紙を中心に「がんとアスベストは関係ない」というキャンペーンが行われてきたという経緯は、現在の原発の問題とそっくりです。
さらに1987年にNHKが、泉南アスベスト被害について大阪の労働局に問い合わせたとき、厚生省(当時)が労働局に「この情報を出すのはまずいから隠すよう頑張ってください」と指導していたたことが、のちに情報公開された資料の中から出てきました。また、被害者である労働者の方もさまざまな形でコメントを出しています。こういった声から、私たちはいろいろなものを汲み取ることができたはずなのです。そういった声が届かず、被害が拡大してしまったことが残念です。
つまり、もちろん国の責任は大きいのですが、それだけが問題なのかということを、私たちの社会が全体で考える必要があるのではないでしょうか?
裁判をやっていると、個人と社会との関係が見えなくなってしまうことがあります。「国が悪い」とだけ考えてしまうと、本来は私も国の一員であるはずなのに、国とはまったく切り離された形になってしまうのです。でも、本当の解決というのは個人と社会を結びつけた形で考えなければならないと思います。多くの人が、自分自身に何が出来るのかという視点でものを考えるようにならなければ、今後も同様の問題が起きてしまう可能性があるのです。
泉南アスベスト問題では、個人の声が被害を防止することには結びつきませんでした。しかし、だからといって個人が無力とは言えません。2005年の「クボタショック」では、アスベスト被害で夫を亡くされた女性が、被害者の支援活動の中で突き止めた事実を公表してメディアに大きく注目されるきっかけをつくりました。一人一人の力は弱くても、個人の行動力が大きなうねりをつくってきたのもまた事実なのです。これは他のさまざまな問題にも共通しているように感じています。