雨宮処凛がゆく!

「生活苦しいヤツ声上げろ!」
「貧困知らない政治家いらない!」
「片山さつきは議員をやめろ!」
「貧困叩きは今すぐやめろ!」
 
 8月27日、新宿の街に、そんなコールが響き渡った。
 この日開催されたのは、「生活苦しいヤツは声上げろ 貧困叩きに抗議する新宿緊急デモ」。主催は最低賃金1500円を求めて活動を展開するAEQUITAS(エキタス)。前回の原稿で書いた、NHKニュースの「子どもの貧困」に登場した高校生へのバッシングに抗うため、この日、緊急にデモを企画してくれたのである。

 集合時間の19時少し前にアルタ前に行くと、雨だというのに多くの人が集まっていた。
 出発前集会で、AEQUITASの栗原氏は、なぜこのデモを企画したかについて話した。

 「権力を持った政治家が貧困を訴えた人に対して、金の使い方に文句をつける、これは人権問題だと思います。貧困は恥ずかしいことだ、そういう風潮を更に強め、当たり前の権利を訴えることを更に困難にする行為です。それは生死につながる行為です」

 「生活に困ってたら、ライブや映画に行っちゃいけないのでしょうか。友達と飲みに行ってはいけないのでしょうか。そんなことはないはずです。生活に困ってたって、いや、困ってるからこそ、明日なんとか生きていくための糧を得たい。そう思うのは自然なことでしょう。そのささやかな余裕は人間らしい生活に不可欠な当たり前のものなはずです」

 「貧困を訴えた高校生は今どんな気持ちでいるでしょうか。僕にはわかりませんが、とにかくあなたは何も間違っていない。間違っているのは片山さつきと、そして一緒になってあなたを叩く人たちだと伝えたいです」
 
 デモ前集会では、ジャーナリストの安田浩一氏、社民党の福島みずほ氏もスピーチ。私も少しお話しさせて頂いた。そうして19時15分、デモ隊はアルタ前を出発!
 この日はAEQUITAS初めてのドラムデモ。横断幕を先頭に、「怒りのドラム隊」が迫力のドラムを打ち鳴らす。先頭では、AEQUITAS名物コーラーのこばしゅん氏が「貧困叩く政治家いらない!」などとリズムに合わせてコール。デモ隊も声を張り上げる。雨天の中、決行されたデモは1時間かけて新宿の街を周り、解散地点についた時には参加者は500人に膨れ上がっていたのだった。

デモには福島みずほさんも参加。

左から、安田浩一さん、エキタス藤川さん、みずほさん、エキタス栗原さん

ドラム隊が大活躍!

 たった数日の告知期間だったのに、これだけの人数が集まったデモに大きな勇気を貰ったわけだが、デモに参加して、改めて思い出した言葉がある。
 それは「犠牲の累進性」という言葉。
 私が社会学者の入江公康氏からその言葉を聞いたのは、もう10年も前のことだ。

 この連載でも何度か書いてきたが、どういう意味かというと、以下のような時に使われる。
 例えばこの国の正社員が長時間労働で過労死しそうで大変だったとする。が、「大変だ」と言った途端に「低賃金で不安定な非正規労働者の方が大変だ」と言われる。一方で非正規の人が非正規ゆえの苦労を口にすると、「ホームレスの方が大変だ」などと言われる。しかし、ホームレス状態にある人がその状況の過酷さを口にしたところで、「もっと貧しい国の餓死寸前の人の方が大変だ」「紛争から逃げている難民の方が大変だ」なんて言われてしまう。結局、そうやって「より過酷な状況に置かれている人」と比較することで「お前の苦しみなんて大したものではない、甘えるな」と口を封じていくようなやり方。これを「犠牲の累進性」と呼ぶのである。

 今回の高校生バッシングも、悲しいくらいに同じ構図だ。映画を観ている、外食している、アニメグッズを持っている。だから「お前なんて大変じゃない」「甘えるな」とバッシングする。しかし、そんなことをやっていると、一応先進国であるこの国で「貧困問題について発言する権利がある当事者」はおそらく一人もいなくなってしまうだろう。

 この日のデモ前集会で、安田浩一氏がスピーチしたことが印象に残っている。安田氏は、週刊誌で片山さつき氏と対談した時のことに触れ、言った。

 「その時、生活保護に関する話をしました。片山さんなんとおっしゃったかと言うと、『最近ね、生活保護の申請にくる女性の中にアクセサリーをしている女性がいるのよ』と」
 
 さて、この片山氏の発言について、あなたはどう思うだろうか。「なんだと、アクセサリーなんてけしからん!」と思った人、その理由を論理的に説明できるだろうか。アクセサリーをつけているという事実は、どの法律のどの部分に抵触するのだろう?
 もちろん、どこにも抵触しない。なのに、私たちの中には「生活保護を申請する人がアクセサリーをつけている」=「贅沢」と思ってしまうような思考回路がいつの間にか刷り込まれていないだろうか。おそらく、今の日本は、普通に生きているだけでそんな思考回路が条件反射的に染み付いてしまうほどに異常な社会なのだと思う。
 だからこそ、そんな「条件反射」に自覚的になるべく努力していないと、たちまち人権侵害に加担してしまうおそれがある。もちろん、自分自身も含めてだ。

 例えばアクセサリーを問題にするなら、化粧は? 髪を染めていることは? 飲酒や喫煙は? 古着屋で安く買った服を自分なりにコーディネートすることは?
 そんなことをいちいち問題にする社会は、突き詰めると「見るからにズタボロの身なり」をしている人しか生活保護の申請すらできないということになってしまわないだろうか。その次に待っているのは、その服装が「どれくらいボロボロか」がいちいち評価の対象となる社会だ。
 
 そんな社会は、病んでいると私は思う。
 
 これまで貧困問題を追ってきた身として思うのは、格差や貧困が深刻化すると、貧困バッシングも深刻化するという事実だ。そして、手を替え品を替え様々な言葉でなされる貧困バッシングを直訳すると、ただ一言、「黙ってろ」という言葉になる。
 しかし、「黙れ」「お前の苦しみなど大したことがない」と当事者の口を塞ぐことによって、結果的に得をするのは誰なのか。そういった世論が作られることによって、メリットがあるのは誰なのか。国であり、貧困対策をしたくない一部の国会議員であることは間違いないだろう。

 そして複雑なのは、貧困バッシングをしている人の一部が、貧困当事者であるということだ。ライブなんて、映画なんて贅沢、とバッシングする人々の言い分を見ていると、ギリギリの収入で、本当に文化的なものから切り離された生活を送っている層の悲鳴に聞こえてくる。結局、貧しい人が「自分よりマシに見える人」を叩くことによって、貧困対策をしたくない政治家を利するような状況を作り出しているという「ねじれ」。こんなことが、もう10年間も続いているのである。

 だからこそ、貧困バッシングをする人の気持ちがどこかわかる、という人に対して、言いたい。
 あなたが条件反射的に、「なにが貧困? ムキーッ」となったその3段階、5段階先に起きることはなんなのかを、想像してみてほしい。それは結果的に、自分の首を締め、権利を切り崩すものにならないのか。時には5年後、10年後に起きうることまで想像してみてほしいのだ。これは私自身が、常に自分を戒めるために自らに課していることでもある。

 同時に、「犠牲の累進性」という言葉も思い出してほしい。

 「もっと大変な人がいる」と誰かの口を塞いだ果てに起きることはなんなのか。誰かの苦しみを、私たちは勝手に低く見積もることはできないし、自分の苦しみも誰かに「大したことない」なんて言われたくない。「甘えるな」。よく言われる言葉だが、その言葉は、貧困対策をせず、安易にバッシングに走って問題をすり替えている政治家にこそ向けられるべきものではないのか。

 それにしても、十数年前までは、「バッシング」の対象は、もっと強くて、権力性を帯びているものだったように思う。もっと見るからに「得」をしていて、「利権」や何かが絡んでいるようなものだったように思う。
 それなのに、生活保護受給者ですらない高校生の女の子をよってたかってバッシングする社会。
 そう思うと、この社会の底の抜け具合に、「ここまで来たか」と言葉を失ってしまうのだ。

 

  

※コメントは承認制です。
第387回すべての貧困バッシングは、通訳すると「黙れ」ということ〜「犠牲の累進性」という言葉で対抗しよう〜の巻」 に9件のコメント

  1. magazine9 より:

    条件反射的なバッシングがSNSを通じて拡散する一方で、そもそも人権や生活保障とは何か、どうあるべきなのかといったまともな議論はほとんど聞かれません。「甘えるな」の言葉によって、相手や社会に自分は何を求めているのかと、立ち止まって考えてみることが必要ではないでしょうか。また、貧困をなくすべき議員がこうした発言をすることが、大きな批判を浴びることなく「スルー」されてしまうことにも、この社会の問題を感じます。

  2. 鳴井 勝敏 より:

    >この社会の底抜け具合に、「ここまできたか」という言葉を失ってしまうのだ。
     「日本人の精神的特徴は自己批判を知らないということである。あるのは自己愛、つまりナルシズムだけである」。これは外国の著名な方が述べたものだ。自己愛は本能に由来する。隣人愛は理性に由来する、という。とすれば、日本人は退化し、動物化が進んでいるということだろうか。低流はマウンティングと合流、深い水流を作って流れ続け始めたのかもしれない。
     「国や権力は批判の対象であり、そうでなければ民主主義は成り立ちません。しかし、人間は信頼の対象です」。これは伊藤塾塾長伊藤真が常日頃述べているものだ。とすれば深い水脈は民主主義を破壊するマグマでもある。
     そこで、HOWではなく、WHYを多用することで理性を維持したいものだ。「WHY」を「こんにちは」ぐらいに使いこなしたとき,日本を覆っている閉塞感は開放感に変わることだろう。

  3. kimura kazuaki より:

    社長のが年収は二千万円なのに、従業員の時給は910円と言う状況を止めさせる必要があると思います。

  4. asa より:

    WHYということは、何故?という意味として捉えれば、発想の転換により、自らの自己実現に繋がる目標と手段に対する目的と根拠とすれば、この手段によるメリットとデメリットというものを、そっと静かに分析し、自らのメリットが周りにとってのデメリットになるか、周りにとってのメリットが、自らのデメリットになるのであれば、自らのメリットが、同時に周りにとってのメリットにも繋がることが出来る様に見直していくことにすれば、これこそが「公共の利益」としてわかちあいながら、共に幸せに暮らすことが出来る様になるきっかけとなるかもしれませんね。

    これとは逆に、自らのデメリットが周りにとってのデメリットにもなるだけのことであれば、これこそが「公共の迷惑」だということで、そっと静かに目を瞑って、歴史の闇の中に、葬り捨ててしまうことにすれば、これだけでも、「お互いにとっては何のデメリットにもならなければ、これをごまかそうとしたところで、どんどん涙を流し続けながら、どんどん一人負けをして、どんどん歴史の闇の中で、ひっそりと泣き寝入りしながらも、そっと静かに幸せに暮らしていくことが出来る様に、天皇陛下と共に、そっと静かに暖かく見守っていくことにするだけでも、お互いにとってのメリットにもなり「公共の利益」となるのならば、これもまた、一つのロールモデルとして、国境の乗り越えて、国際社会にも、どんどん良いロールモデルとして見せつけていくことにより、全人類からのご褒美として、「憲法9条にノーベル平和賞のお墨付きが賜る」という発想と同じ意味を持つものであれば、これらも全ては偶然が齎した出来事であり、私たち日本人としての、これまでの民族的な伝統文化により培われたものによる歴史的な転機となる出来事に対する選択の繰り返しそのものでもあるのだとするならば、これがプライベートのことであれば、こうした歴史的な伝統文化の中で培われた教訓というものの中から個人主義のベースとなるものが、今度は日本社会を大きく変えていくきっかけとなることは言うまでもありませんし、同時に、全体主義そのものの全ての終わりに繋がるのだとするならば、この全体主義による罪悪感や、公共の迷惑になるだけのものだけを、歴史考古館や民族博物館、あるいは、靖国神社の中の遊就館をはじめ、全国各地に点在する戦争博物館や特攻隊資料館などに、そっと静かに大切に保存しておくことで、これらも外国人観光客向けの貴重な観光資源として活用することが出来れば、これもまた「公共の利益」に繋がることになるのならば、大いに結構なことかも知れませんね。

  5. James Hopkins「反戦ネットワーク(2002/08)」賛同 より:

    まづ、”AEQUITAS”の街頭行動にあいさつと敬意をおくりたい。
    さて、ここでふれられている参議院議員片山さつき君の言動そのものについて詳細は確認していないが、おもふに、苟も”良識の府”を期待される参議院の議員でありながら、その志気のむかうところがまるで筋違いで、いわば貧相に過ぎるといふほかないのではないだろふか。
    この度のTV報道の件は、ここ10年来で蔓延し深刻化している”子どもの貧困”状況をトピックし啓蒙する自治体のプロジェクトに参加した高校生の発言行動をとりあげたものであろふ。この高校生の発言意見表明については、すでに議会国会で批准した「子どもの権利に関する条約」の条項第12条「意見表明権」でその権利の確保が明示されてある。併せてまた第16条は「プラィヴァシィ・通信・名誉の保護」を規定している。これらのことをみれば、参議院議員片山さつき君の言動は、”その私生活への恣意的若しくは不当(不法)な干渉ないし攻撃”に類し連なるにものに該当するのではないだろふか。
    もとよりわれら日本国人民は、1947年制教育基本法ですでに”良識ある市民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない”(第8条/政治教育)としている。この条文規定は基本法改定後も継承しているとおもふ。このことをみても、高校生が自治体のプロジェクトに参加し発言することは尊重されなければならない。その発言当事者の暮らし向きおよび私生活に係わりなされたらしい当該議員の言動は、発言行為当事者への婉曲な迫害ないし脅迫といふべきものだろふ。不当な干渉といふ意味では厳然たるハラスメントともいふことができる。自らのその国会参議院議員としての遵法義務を違犯した言動行為といふほかない。
    弾劾されて然るべきであろふ。

  6. 労働者 1 より:

    貧乏がいやなら額に汗して働けばいい。創業者はみなそうして働いて会社をデカくした。金儲けが悪いなんてそもそも大間違いだ。

  7. なでしこ より:

    貧困問題ではなく意思疎通の問題です

    日本人の貧困に対するイメージは絶対的貧困です
    そこに相対的貧困という新しい概念を付け足したからバッシングにあったのです
    それに日本には昔から相対的貧困を顕す貧乏という言葉があります

    なので貧困と言われると自然に貧乏よりも酷い状態を連想するのです
    もし平均所得の半分という意味の相対的貧困という意味を伝えるなら
    決して貧困と略してはいけません

    必ず言葉のニュアンスから反発する人が出てきます
    言葉の意味を正確に伝えることこそが無用な反発を防ぎ議論を建設的なものにするのです
    相対的貧困という言い回しが面倒などと横着して貧困と言えば議論が逆に遠回りするだけなのです

  8. ゴミ国家の被害者 より:

    こんな人権後進国で

    デモを行う人々には拍手を送りたい。

    しかし

    もっと大きい規模で国会を取り囲んで暴動起こすか

    政治家官僚役人皆殺しする位しないと

    日本は変わらない。

    貧民には人権がないと国は言うのだ。

    人権ないなら人間じゃない。

    人間じゃないんだから

    法律に縛られる必要もない。

    怒りをぶつけるべき敵はゴミ国家であって

    不遇な子供なんかじゃない。

    政治家が国民しかも未成年の子供を

    責め立てるなんて

    このゴミ国家はゴミの中のゴミだ。

    政治家官僚役人はゴミにたかる害虫だ。

    弱い者がさらに弱い者を叩いて

    なにが変わるというのか。

  9. まお より:

    「生活に困ってたら、ライブや映画に行っちゃいけないのでしょうか。友達と飲みに行ってはいけないのでしょうか。そんなことはないはずです。。。。

    生活に困っていても、ライブや映画に行ってもいいけど、自分のお金ならね・・・。

    だって、みんな、一部の贅沢のためには、他の何処かで我慢するでしょ?

    お金がないなら、いろんなこと我慢してるよ・・・。

    生活するお金は援助してもらうけど、ライブや映画やランチやアクセサリーなんかにも我慢しないでお金使っちゃうよ!ってのは、なんだか納得行かない・・・。

    援助してもらっているうちは、そこは我慢してお金貯めようよ。
    そして、援助してもらわなくても済むようになったら、自分のお金で楽しんで!

    わたしは、映画やライブやそういうものを我慢して税金をしっかり払っています!

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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