雨宮処凛がゆく!

 戦後71年目の夏だ。
 しかし、テレビをつければオリンピックとSMAP解散ばかりが繰り返されている。「終戦」や「戦争」というキーワードに密接な関係があるはずの安保法制や憲法改正などの言葉は聞こえてこず、はたまた沖縄・高江でのヘリパッド建設を巡る住民の人々の抵抗や、今月に入って再稼働された伊方原発について報じるメディアは悲しいほどに少ない。自衛隊が派遣されている南スーダンの状況についてももっと知りたいのに、詳しい状況はなかなか伝わってこない。
 
 そんな戦後71年の夏、文藝春秋に掲載された「戦前生まれ115人の遺言」をぱらぱらとめくっていると、あるタイトルが目に飛び込んで来た。
「1939年との類似点」というタイトルだ。
 この文章を書いたのは、国際オリンピック委員会名誉委員の岡野俊一郎氏。1931年生まれ。
 氏が小学校に上がる前年の37年に日中戦争が始まり、4年生の頃に開戦。終戦の年の8月1日からは、米軍の戦車の下に機雷を持って飛び込む「1人10殺」の訓練を受けたという。その頃、中学2年生。戦争が終わったのは、それからすぐのことだった。
「戦争を知る世代」である岡野氏は、以下のように書いている。
「そんな僕が現在の世相を見ると1939年頃と全く同じなのだ。即ち仮想敵国を作り、危機感を演出し、戦争への道を準備する世論を形成しようとしているように感じるのだ」

 1939年と言えば、真珠湾攻撃の2年前。
 同じ特集で、1936年生まれの音楽評論家・湯川れい子氏は以下のように書いている。
「いまの若い人は、戦争なんてそう簡単には起こらないと考えているかもしれませんが、真珠湾攻撃は突然に始まりました。私の十八歳上の長兄はその一ヶ月前までアメリカ映画を見ていたのに、たった一枚の赤紙で召集され、終戦の年にフィリピンのルソン島で戦死しました。ジャズを口ずさむモダンな兄が、自分の愛した映画や音楽の担い手たちと殺し合いをしなければならなかった。その無念さはいかばかりであったか。いまも考えると涙がこぼれます」
 また、「青春をもろに戦争の中に生きて」いた瀬戸内寂聴氏(1922年生まれ)も、「戦後、七十年過ぎ、日本は今や七十年前の戦前の日本に妙に似てきている」と書いている。

 あの戦争が終わってから71年が経ち、今やこの国の8割が戦後生まれとなった。「戦前と妙に似ている」。それは、この1〜2年でよく耳にするようになった言葉だ。だけど、戦後生まれの私は「あの頃の空気」を知らない。
 ちなみに私は1975年生まれ。ということは、戦後30年で生まれたことになる。今よりもずっと、戦争との距離が近かった時代。戦争の傷が生々しかった時代。そして戦地に赴き、また日本にいながら空襲などを経験した世代が現役だった時代。しかし、物心ついた時から「戦争」は私にとって学校で教わったり映画や漫画の中にあるもので、そこにリアリティを感じたことなどなかった。
 
 そんな私が「戦争」について突然目を開かされたのは、忘れもしない戦後50年の95年の夏。その頃、私は20歳。当時の私は、ドキドキワクワクなことが起こりそうな「20歳の夏」というキーワードから一億光年ほど離れた日々を送っていた。フリーターでど貧乏で友達もなく、行くところもないので同世代が「海」だ「バーベキュー」だとリア充っぽいイベントをしているのを尻目に、家でテレビばっかり見ていたのだ。幸い、しょっちゅう止まる電気は止まっていなかった。
 そうして見ていたテレビは、季節柄、そして「戦後50年」という節目の年という事情もあり、戦争絡みのものばかりだった。別に戦争になんて興味なくてもそれしかやっていなかったのだ。そうして連日のように原爆や特攻隊、焼け野原と化したこの国の風景や沖縄戦などを浴びるように見続けた結果として、その2年後に私は右翼団体に入ることとなる。特攻隊や戦死した人々への罪悪感に取り憑かれ、原爆投下などの映像によって突如芽生えた「反米」の思い。私が入った右翼団体は「反米」を思い切り掲げていたのだ。

「よりによってなんで右翼に?」と今も聞かれるが、その極端な選択の背景には、バブル崩壊後の不況によって人生の土台が不安定化していたことや、「お前らは政治的なことなんか一切考えずに消費と恋愛だけしてろ」的な世間の圧力、「終わりなき日常」を生きる才能が私にはまったく欠如していたこと、ブルセラブームとか怖かったこと(当時の私の脳内ではその正反対に特攻隊的なものが位置していた)などがあったのだと思う。今思えば。
 ちなみに「夏の戦争報道で覚醒」というケースは結構よくあるらしく、数年ほど前まで私のもとにはお盆休み辺りに必ず誰かから「テレビで戦争の映像を見て、どうしていいかわからなくなって、とりあえず右翼に入ろうかと思ってる」といった内容の連絡が入ったものだった。私にとって、夏の風物詩のひとつである。

 ということで、「私と戦争」は、そこから「右翼と左翼と北朝鮮と小林よしのりのごった煮」的なことになっていく。右翼団体で「東京裁判史観打倒」などという言葉を学びつつ、赤軍派関係の人々との付き合いもあったので北朝鮮に渡航。一週間弱の滞在なのにみっちり「北朝鮮からの歴史認識」を叩き込まれるような旅で、おまけに朝鮮労働党の人からは「日本は資本主義でみんな金の奴隷で可哀想」という同情までされる。それと前後して日本では小林よしのりの『戦争論』がベストセラーとなり、一時は心酔するものの、だんだん疑問を抱くようになっていく。そんな頃『ゆきゆきて、神軍』を見て「戦争犯罪」に真っ正面から体当たりする奥崎謙三の存在にただただビビり、また湾岸戦争から8年後のイラクに行き、劣化ウラン弾被害と思われるガンや白血病に苦しむ子どもたちの存在に衝撃を受け、イラクの人々の反米の思いに触れ、なぜか大統領宮殿に招待されてフセイン大統領の長男、ウダイ・フセインと会談までし――。
 と、こういうことが20代前半のわずか2、3年の間に起きていたのだ。「戦後50年の衝撃」は、それほどに私に「戦争を巡る旅」をさせたわけである。

 この頃、ものすごく極端で稚拙なやり方だけど、私は「戦争」をほんの少し、自分にたぐり寄せたと思う。戦争は教科書に載っているものではなく、のちに「会った人が死んだり、難民化するもの」になった。最初のイラク行きから4年後、イラク戦争が始まったからだ。ウダイ氏との対面から4年後、私はネットに晒されたウダイ氏の無残な遺体写真を目にし、そしてイラクで会った人々が難民となったことを知った。

 戦後71年。

 戦後生まれが8割となり、18歳選挙権も導入されたことなどから「いかに若者に戦争を伝えるか」が話題となっている。が、「戦争とか政治とか、本当にまったく関心がなかった若者」だった私は、「戦争のことを考えろ」という言葉が「勉強しろ」と同じように聞こえて嫌だった。お前に関係あることなのだ、と言われても、何をどうしてどうやったら関係があるかなんてさっぱりわからなかった。だけど、ある時気付いたのだ。この国で生きていたら、本気で戦争や政治のことなんて考えずに無関心でも意外と問題なく生きていけて、とりあえずお金さえ稼いでれば「大人」と認められてしまうという事実に。
 なんだかそれは、私の思う「大人」とは随分かけ離れていた。少なくとも、「なりたい大人」ではなかった。自分だって関心ないのに、周りの無関心な若者たちが嫌だった。そして戦争について、読書感想文くらいのことしか言えない自分も嫌だった。
 戦争について考えること、社会や政治について考えること。それぞれに、思いがけないきっかけが、ある日突然、訪れるのだと思う。

 私にいろいろなきっかけをもたらした戦後50年の夏から、21年が経った。
 21年前より、この国と戦争の距離は、ぐっと近くなった気がする。そして今、世界には難民が溢れ、連日のようにテロ事件が報じられ、様々な「危機感」が煽られる。
 その中で、歴史から学び、戦争を経験した世代の言葉に耳を澄ますこと。そんなことの重要性を、今、再確認している。

 この機会に「私と戦争」について、あなたもぜひ、考えてみてほしい。

 

  

※コメントは承認制です。
第385回戦後71年に考える「私と戦争」〜惨めすぎた20歳の夏が、戦争との出会いだった〜の巻」 に4件のコメント

  1. magazine9 より:

    戦後71年目の夏。「あの戦争」を体験した人の声を聞ける時間がどんどん少なくなっていく一方で、世界ではまた新たな「戦争」が生み出され、多くの人の命が奪われ続けています。その現実を、どうやって自分に「たぐり寄せる」のか。単なるお題目ではない「平和」を、どう訴えていくのか。それぞれが、それぞれのやり方を見つけていくしかないのだと思います。

  2. とんび より:

    私が小学校に入学したのは昭和25年。学校行事で映画館に引率されていき、映画「ひめゆりの塔、原爆の子、山椒大夫」などを見ました。一つの席に二人掛けで見たのです。その映像が戦争の恐ろしさを知る最初でした。まだ1,2年生でしたが、まだ感受性が柔らかいときに戦争の実体と人間の悲しい現実を知ったことは、とても有難いことでした。学校教育でそういう授業が受けられたのです。以来、戦争はイヤ!というのが私の信念になっています。平和であればこそ、それぞれの人生を生きていけるし、オリンピックも開けるのです。あの国はまともではないという言葉が語られるときこそ、自分たちこそが正義のように思わされるとき。戦争はいつもそうして引き起こされるのです。危機なのです。

  3. asa より:

    真珠湾攻撃に至った背景として、フーバー回顧録で、当時のルーズベルト大統領が、戦前の日本を戦争に引きずり込むために、意図的にやらせたのではないかというのが、アメリカにとっての本質的な見立てそのものであるとするならば、戦前の日本からして、国際社会の中で、どんどん孤立化して、戦争への道に突き進み、これが南京大虐殺などの前科を引き起こしておきながら、アメリカと戦争しても負けると分かっていながら、こうした前科がバレることがないように、ごまかそうとしたことが、結局のところは、山本五十六連合艦隊司令長官による早期講和論こそが、無謀なものであり、何度も否決されたところで、山本五十六連合艦隊司令長官としては、単なる時間稼ぎの口実として、アメリカとの戦争にならないようにするための秘策の一つとして、これを利用することがないように、そっと静かにしまっておくべき策であったものが、このルーズベルト大統領による、戦争に引きずり込もうとする策略に利用され、致し方なく真珠湾攻撃に行く羽目になってしまったのではないかということが、戦前の日本にとっての本質的な見立てではないかと見透かせば、ミッドウェー海戦もまた、戦前の日本にとっての一つの転機とするならば、アメリカにしてみれば、これをナチスドイツとの戦争の転機として、史上最大の作戦という映画にもなった、ノルマンディー上陸作戦に活かしたのではないかということも、ある意味で合理的推論に基づく歴史的根拠として、想定されるところではないでしょうか?

  4. AS より:

    まさにゲーリングの有名な言葉「国民は戦争を望まないが、決めるのは国の指導者。仮想敵国を作り危機感を煽り、平和主義者を名指しで国賊だと非難すればいい。実に簡単で、しかもどんな体制でも有効」のとおり。
    しかも時代に関係ないんですね。

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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