6月9日、芦屋でイベント&デモに参加しました。
6月8日、野田首相が大飯原発を再稼働するとおぬかしになった。
なんでも「国民の生活を守るため」だという。会見の言葉を聞きながら、その「国民の生活を守る」という言葉の意味がまったくわからず、自分は馬鹿なのだろうか? と一瞬本気で悩み、そして彼の言う「国民」や「生活を守る」という言葉が、どう考えても言葉通りの意味ではないことに気がついた。
経済のためには原発が必要だ、という人は少なくない。そのたびに、私は思う。福島第一原発の事故で避難している人たちの前で「日本経済のためには原発が必要なのでいろいろ諦めて下さい」と言えるのだろうか、と。一方、野田首相が言っていることを直訳すると、「あなたたち以外の国民を守るために必要なので犠牲になって下さい」と一部の人に言っているように聞こえるのだ。「国民の生活を守る」ために、「非・国民」とされる人たち。「守る」対象には、最初から含まれない人たち。「国民の生活を守る」という言い訳によって、徹底的に排除され、なんの落ち度もないのに人生を台無しにされ、国の無策の尻拭いをさせられる人たち。そういった大矛盾の上に成り立つ原発の再稼働。
野田首相が再稼働を明言したことには、多くの人が怒りの声を上げている。そして今現在、様々なやり方で抵抗しようといたるところで作戦が練られている。私も積極的にかかわり、そして野田首相に「再稼働なんて馬鹿なこと言うんじゃなかった・・・」と存分に後悔して頂きたいと思っている。いろいろ決まったらまた告知するので待っていてほしい。
ということで、その前日の7日には、厚生労働省で記者会見を開催。「餓死・孤立死問題と生活保護バッシング(扶養義務強化等)に関する記者会見」だ。主催は「全国『餓死』『孤立死』問題調査団」と「生活保護問題対策全国会議」。
私も発言させてもらったのだが、この会見では、芸能人家族の生活保護問題で出てきた「扶養義務」について多くの時間が割かれた。というのも、芸能人の極端なケースから、小宮山厚生労働大臣が「(親族が)扶養できない場合はそれを証明する義務を課す方針」を打ち出しているからである。「扶養義務」が壁となって25年前に餓死事件が起きたことは前々回に書いた通りだ。また、2000年代に入ってから北九州市では餓死や自殺が続いたわけだが、その中にも、「子どもに面倒を見てもらえ」と突き放されていたケースがあった。
しかし、親子関係は複雑だったようで、扶養してもらえることなく、餓死。実際、生活保護を受けるまでに困窮に至る人の中には、家族関係が切れていたり、ものすごく複雑だったり、虐待があったりするケースが少なくない。だからこそ、「扶養照会のために親・子に連絡が行く」と言うだけで「だったら生活保護は受けません」となり、過酷な路上生活に滞留せざるを得ない人もいる。最後の最後のセーフティネットに、そういった事情でひっかかれなくなっている人たちが今だってたくさんいるのに、「扶養できないことを家族に証明してもらえ」というのは実態を無視しているとしか思えない。
厚生労働省での記者会見の模様
ちなみに、そもそも生活保護法上、扶養義務者の扶養は「要件」ではない。また強い扶養義務があるのは、夫婦と未成熟の子に対する親だけ。国際的に見ても、イギリスは「配偶者間と16歳未満の子に対する親」、スウェーデンは「配偶者間と18歳未満の子に対する親」、フランスは「夫婦間と25歳未満の子どもに対する親」と、年齢にばらつきはあるものの「夫婦間と子どもがいる親」くらいが国際基準なのだ。
この日は福祉事務所の元ケースワーカーの人も会見で発言した。印象に残っているのは、「扶養できないことを証明しろ」ということになると、結局は「証明しない限り保護しない」という究極の水際作戦が可能になってしまうということだ。例えば現在、親に毎月数万円の仕送りをしていた人がいるとしよう。その人に「どうしてもっと仕送りを増やせないのか」と問い、当人が「できない理由」を「証明」するのは至難の技ではないだろうか。一体誰が、どういう基準で判断するのか。そしてもしあなたの家族が生活保護を申請した場合、あなたは「扶養できない理由」を役所に対して証明できるだろうか。それは自らの収入や暮らしぶりを丸裸にされるという、非常に屈辱を伴うことでもあるだろう。その上疎遠になっている家族のせいでそんな目に遭うのであれば、それをきっかけに「家族の縁を切る」なんてことに発展するかもしれないし、私だったら面倒で「証明」を放置してしまうかもしれない。そして放置している限り、当人の窮状も放置されるのだ。最悪、野垂れ死にしてしまうだろう。
この日の会見では、尾藤廣喜弁護士の発言も印象に残っている。そもそも、ここまで雇用が崩壊したのに、失業保険のカバー率が20%と以前と変わらない水準で、年金などの社会保障制度も極めて脆弱であること。民主党は年次計画を立てて貧困対策をすると言っていたのに実行していないこと。貧困が生み出される原因がわかっているのに対策がされていないから今の状況があること。なぜ生活保護受給者が多くなっているのか、そこから考えなければいけないこと。
まったくその通りで、そうして改めて思うのは、これまで雇用や生活を破壊してきた自民党の責任だ。今回の騒動の発端となったのは自民党の生活保護プロジェクトチーム(代表は世耕弘成氏、メンバーには片山さつき氏がいる)だが、自民党議員である彼らは、そのことについてはどう考えているのだろうか。私には、「生活保護を叩いて存在感をアピールし、返り咲こう」という意図があるようにしか見えない。
会見の日、生活保護を受給している当事者の声が資料として配布された。その中には、一連のバッシング報道に「いっそのことこの世界から消えてしまいたい」と思ったという切実な声や、子どもがマスコミの街頭インタビューに答える大人たちを見て、「生活保護を受けてるやつは、悪いんだ。だからいじめてもいいんだ」という形で、生活保護を受けている家庭の子どもがいじめられないかを心配する声などが寄せられていた。支援団体などには、当事者から「死にたい」という声が絶えず、既に私自身、このバッシング報道を受けての自殺未遂の話を何件か耳にしている。前々回の原稿で、生活保護受給者の自殺率が高いことに触れたが、具体的には一般の人の2倍、20代に限ると6倍である。
「生活保護を受けることが恥ずかしいと思わなくなったことが問題だ」などと語る国会議員やタレントがメディアに登場しているが、一体どれほどの人がその「恥」という言葉によって受給を控えて取り返しのつかないことになり、どれほどの人が傷ついているか、なぜ、顧みられることがないのだろう。
「生活保護バッシング」は、政治家にとってはものすごく楽に、あり得ないほど手っ取り早く支持を得られる麻薬のようなものなのかもしれない。
だけど、その影で多くの人が傷ついている。
「どうか人気取りの為に私達から生存権を奪わないで下さい。私を殺さないで下さい」
「当事者の声」の中にはこんな言葉もあった。
声なき声を、耳を澄まさないと決して聞こえない声を、おそらく一生知ることのない人たちが、最後のセーフティネットを切り崩そうとしている。
佐高信さんと対談した時の写真です。
この会見の2日後、全国生活保護問題対策会議などが主宰する、「生活保護”緊急”相談ダイヤル」が全国各地で開催されました。
そこにも、「このまま制度が悪くなっていくのでは」「テレビを見るのが怖い」など、現在の「バッシング」状況に強い不安や恐怖を感じている人たちの声が、多数寄せられたのだそう。
政治家の「人気取り」しか思えない発言が、いったいどれほどの人たちを追いつめているのか? と、怒りがこみ上げます。