雨宮処凛がゆく!

 「アメリカと経団連にコントロールされた政治はやめろ! 組織票が欲しいか? ポジションが欲しいか? 誰のための政治をやってる? 外の声が聞こえないか? その声が聞こえないんだったら、政治家なんて辞めた方がいいだろう! 違憲立法してまで自分が議員でいたいか? みんなでこの国変えましょうよ。いつまで植民地でいるんですか? 本気出しましょうよ!」

 9月18日の深夜2時過ぎ。参議院・本会議場に山本太郎議員の「魂の叫び」が響いた。騒然とする議場。野次。怒号。傍聴席からその様子を見ていた私は、涙を堪えることができなかった。

 それから数分後、安保関連法案は可決された。傍聴席に、啜り泣きの音が響いた。本会議場から外に出ると、参議院議員会館前に集まった人々の「廃案!」という叫び声は一層大きくなっていた。長くて熱い、戦後70年の夏が終わった。だけど、不思議と悲壮感はまったくなかった。ここから、この夏に繋がった人たちとまた始めればいいのだ。それはものすごく簡単なことで、私は春よりも、ずっとずっとたくさんのものを手にしていることに気がついた。

 それにしても、怒濤の日々だった。

 7月15日、衆議院での強行採決。それからすぐ、「山本太郎安保特別委員会対策チーム」が結成され、私もイラク問題を中心に、本当に微力ながら質問作りに関わらせて頂いた。連日のように委員会質問を傍聴し、国会前などでスピーチし、デモに繰り出し、打ち合わせなどに明け暮れる日々。気がつけばこの間の私の記憶はほとんどすっ飛んでいて、自分がいつどこで何をしていたのか、面白いくらいに思い出せない。そうして毎日のように全国でデモが開催され、連日、SEALDsに背中を押されるようにして新たなグループが立ち上がり、いろんな人のスピーチに何度も泣いて、8月30日には国会に12万人が押し寄せた。

 いよいよ参議院での強行採決が迫った9月16日からは、ほとんど「現場」にいた。午後に開催された地方公聴会に傍聴に行くと、会場の新横浜プリンスホテル周辺には、びっくりするほどたくさんの人が集まり、「強行採決反対!」と声を上げていた。公聴会の席で、公述人の一人・弁護士の水上貴央氏は、この日の18時からとりまとめの審議・そして強行採決という流れになっていることに対して釘を刺した。

 「公聴会が採決のための単なるセレモニーに過ぎず、茶番であるならば、私はあえて申し上げるべき意見を持ち合わせておりません。委員長、公述の前提としておうかがいしたいのですが、この横浜地方公聴会は、慎重で十分な審議をするための会ですか? それとも採決のための単なるセレモニーですか?」。これに対して鴻池委員長は「この件につきましては、各政党の理事間協議において本日の横浜の地方公聴会が決まったわけです。その前段、その後段についてはいまだに協議は整っておりません」と回答。しかし、この公聴会、結局「派遣報告」も何もなされず「アリバイ」作りのためのものでしかなかったことは、今は誰もが知る通りだ。

 そうしてこの日、18時から委員会が開催される予定だったものの、ご存知の通り野党議員がスクラムを組み、鴻池委員長を理事会室から出さないという戦術に。野党議員が汗だくでピケを張っている頃、国会周辺では雨でずぶ濡れになりながら数万人が「野党はがんばれ!」と声を上げていた。

 「大変だと思いますが、外ではみんな雨の中、声を張り上げてますよ!」

 体当たりの作戦に疲れた様子の野党議員何人かにそう伝えると、「自分たちはもっともっと頑張らないと!」と奮い立つように答える姿が印象的だった。Twitterでも、野党議員と外のデモ隊との連帯を確認し合うような書き込みは多く見られた。みんなの声が、確実に野党議員たちを励まし、動かし、後に引けない状態にしている。結局この日、委員会は開催されず、翌日に持ち越されたのだった。

 しかし、翌17日、委員会で大混乱の中、なりふり構わぬ「強行採決」がなされてしまったことは周知の通りだ。これを受けて、この日の夜から国会で本会議が続いた。野党が抵抗のため、問責決議案を連発したからだ。

 結果的に、私は17日午後から18日深夜の採決までのすべての本会議を傍聴したのだが、思い出したのは13年12月の「特定秘密保護法」の強行採決だ。あの時も、私は採決とその前のかなりの本会議を傍聴した。その時もやはり、野党による問責決議案が連発されていたのだが、あまりの既視感に目眩を覚えるほどに、まったく同じことがあった。

 それは、野党が委員会での強行採決を「無効」と主張し、議事録には「議場騒然、聴取不能」という記載しかないと強調した部分。あの時も、そうだった。委員会の議事録には一言も「採決」なんて書いていないのだ。なんの記録にも残っていないのに、ああやってなされてしまう採決。そして更に今回は「開会宣言」すらなく、野党議員は質問権も討論権も票決権も奪われた。「丸裸の暴力」。何人もの野党議員が本会議の討論で使った言葉だ。あまりにも、汚いやり方である。しかし、これが通ってしまうのだ。憲法違反の法律が、あんな暴力的な方法で通ってしまうのが今の日本の現状なのだ。あまりにも空しい「数」の力である。

 しかし、今回、秘密保護法と違っている部分もあった。あの時も、国会には一万人以上が集まり、声を上げていた。本会議でそのことに触れる野党議員もたくさんいたが、今回は、もっともっと「集まっている人たちの声」を掬い上げ、安倍政権に直接ぶつけていた。討論に立った野党議員のほとんどが、今この瞬間も大勢の人たちが集まっていることに触れ、そして時にSEALDsのコールを引用し、彼らのスピーチの言葉を読み上げた。その光景は、国会前の人たちが議員に乗り移っているようで、秘密保護法の時と比べて、私たちの声はずっとずっと「中」に届くようになったのだ、と胸が熱くなった。

 この日、傍聴を終えて午前2時過ぎに外に出ると、議員会館前には冷たい雨の中、傘をさして座り込んでいる人たちが大勢いた。また、胸が熱くなった。

 そうして、18日午後2時過ぎ。この日も本会議を傍聴していると、山本太郎議員が突然「ひとり牛歩」を開始! 誰一人続く人のいない牛歩は計5回なされ、最後、安保法案へ反対する投票をする直前に叫ばれたのが、冒頭の「魂の叫び」だ。

 このひとり牛歩については、いろんな意見があると思う。しかし、私はたった一人、あの空気の中で牛歩をやり遂げた山本議員に、心からの拍手を送りたい。外で連日声を張り上げる人々を思うと、いても立ってもいられなくなったのだろう。

 5回の牛歩は、傍聴席から見ると残酷と言っていい光景だった。自民党席からの激しい野次、怒号。「そこまでして目立ちたいのかよ!」「お前いい加減にしろよ!」などの罵声。牛歩をしている山本議員の後ろから、「邪魔!」とばかりにわざとぶつかってくる自民党の女性議員もいた。そんな時は、自民党席からワーッという歓声が起きる。対して山本議員には、野党からの拍手もなく、応援の言葉もほとんどない。ただ、時々牛歩をする山本議員の背中や肩を「頑張れよ」というふうに叩いていく野党議員はいて、そんな時だけ、ほっとする。だけど、本当に本当に「ザ・針のむしろ」な空気感。あれをできる人は、この国に何人くらいいるだろう。しかし、ひとり牛歩する山本議員の後ろには、国会前や全国で声を上げている無数の人々の切実な思いがあるのだ。それを背負っての、牛歩なのだ。

 のちに聞くと、山本議員は最後に演説をしようと決めていたわけではないという。「人々の声を聞け!」の一言くらいは言おうと思っていたそうだが、最後の牛歩の際、山本議員に声をかける人がいたそうだ。それは社民党の又市征治議員。「山本さん、上で演説すればいいじゃない」という言葉に「そうだ」と思い、議長が宣告した残り時間を計算して、早めに上に上がったという。そこでまったくのアドリブでぶちかましたのがあの言葉だったというわけだ。

 戦後70年の終戦記念日の翌月、この国は、根底から大きく変わってしまった。
 しかし、それを押し返す力を、今の私たちは既に持っている。

 その力を、次の闘いで存分に発揮すればいいだけなのだ。

 

  

※コメントは承認制です。
第351回 戦争法案可決。あの日、傍聴席から見えたすべて。の巻」 に4件のコメント

  1. 鳴井 勝敏 より:

    安倍・自民党は主権者に闘いを挑んできた。憲法の紙を燃やしてしまっのだ。 でも、アメリカ従属法、他衛の「安保法」を多くの国民が支持している。その背景に一体どんな光景が広がっているのだろうか。まさか思考停状態の風景が広がって訳でもあるまい。では何の予兆だろうか。 鍵を握るのは「沈黙する善良な市民」と見る。 今まさに、所得格差が教育格差へ。さらには徴兵格差へ拡散しようとしている。立憲主義・法の支配に魂を入れるため、若者のエネルギーとシニア層の知見を結びつける手段はないものだろうか。

  2. ホタル より:

    鳴井様  慄然とすることですが、「思考停止の風景が広がっている」可能性は高いです。今回は日本全国に反対運動が起こっているとは言え、地方では特に、冷・暖・熱で分けるなら冷に見えます。自分は地方に住んでいますが、割と若者の多い職場で私は日々慄然としています。原因は複数でしょうが、自ら疑問を持って考えることに力を入れて来なかった40年間に渡る無難な教育の付けが回って来たのではないかと考えています。今のままであったら、18歳から選挙権を持つようになって、これからどうなるのだろうかと、私は大変恐れています。

  3. 多賀恭一 より:

    2014年12月14日の衆議院選挙で、投票率が52%だった時、日本の民主主義は終わっていたんだよ。
    しかし私は、日本人を諦めることはあっても、民主主義を諦めるつもりはない。

  4. Matsuda Yoshiro より:

    友人のメイルでこの報告のアドレスを読みました。
    岸を倒せのデモのころは、心身健康で夜を通して、国会周辺のデモに参加していた一人です。
    今、孫の安倍内閣の手で法治国家の基本的な約束が消え去っています。
    80歳の老翁が病床からこの文を読んでいます。もう少し健康だったらこの列の加われたのにと・・
    戦争法案が対峙すべきものは確かに、覇権主義の中華人民民主主義共和国(なんと美しい名前のl国でしょう)の軍隊と朝鮮民主主義共和国の軍隊です。いづれもかってのソ連邦と同様、人民の名前を詐称する国家群です。さて我が国憲法の第9条はこの世界の現実にどう対峙すべきでしょうか?

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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