雨宮処凛がゆく!

 「アラブの春」
 今、この言葉を耳にすると、どんな思いが込み上げるだろうか。

 東日本大震災が起きた2011年の年明け、この言葉は「希望」に満ちていた。タハリール広場に集う人、人、人。若者たちの熱気。チュニジアの貧しい青年が焼身自殺したことから始まった「アラブの春」は瞬く間に近隣国に広がり、そうしていくつかの独裁政権が倒された。

 その年の3月、日本では震災と原発事故が起き、この国の人々は人類が経験したことのないような危機の中にいた。しかし、混乱が続く中、春頃から「脱原発デモ」のうねりが始まった。突然「原発事故の当事者」となったこの国の人々は、「経済か、命か」という究極の問いを突きつけられ、今までの沈黙の時間を取り戻すかのように街頭で叫び始めた。ある韓国人ジャーナリストは、11年を日本の「市民デモ元年」と呼んだ。欧米メディアもデモが頻発する状況を受け、「日本がやっと『普通の国』になった」と書いた。

 その年の9月には「我々は99%だ」という合い言葉のもと、ニューヨーク・ウォール街の公園が占拠された。「オキュパイ」も瞬く間に世界中に広がり、「これほど世界的に人々が街頭に出るのは、68年以来ではないのか」という声をあちこちで聞いた。同時多発的に、「何か」があの頃、起きていた。アラブでも、日本でも、ニューヨークでも。街頭で人々が自由や民主主義を口にし、未来を語り、何かが変わる予感に胸を高鳴らせていた。

 あれから、3年。私たちは、何を得て、何を失ったのだろう。

 そんなことを改めて問い返したくなったのは、田原牧さんの『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が変えたもの』(集英社)を読んだからだ。
 著者の田原氏は、現在、東京新聞特別報道部デスク。80年代なかばに初めてアラブの土を踏んだ氏は、それから30年、アラブ世界を見続けてきた。カイロの大学に留学し、記者となってからはカイロ支局勤務経験もあるという人だ。
 そこまで聞くと、「アラブ専門家による『アラブの春』入門書?」と思う人もいるかもしれない。もちろん、そういう側面もある。ある程度アラブ情勢に詳しい人だったら、より深く「アラブの春」の実態がわかるだろう。が、私はど素人。おそらくあと数回は読み直さないと「アラブの春」の内実と現状について、きちんと理解したと言える状態にはならないはずだ。しかし、「全然その辺りのこと詳しくないんだけど」という人にとっても、本書は非常に興味深いものとなるだろう。なぜなら、この本には「人はどうやって政治にかかわるのか」「人間にとって政治とは何か」「革命とは何か」という、実に深い(そして時にいい意味で「青臭い」)問いに溢れているからだ。

 何しろ、読み進めれば読み進めるほど、著者の「こじらせ方」(もちろんいい意味で)になんだか嬉しくなってしまう。62年生まれの著者は、まえがきで自らを「中途半端な世代の一人」と書く。高校1年生の時から関わっていたという「新左翼系の運動」は「周回遅れの学生運動」。運動の盛りを過ぎた当時、新左翼運動は先鋭化した爆弾テロや内ゲバに明け暮れていたという。そこで氏も対立に巻き込まれ、運動から離脱。そうして向かった先が、アラブ。「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」のパンフレットをたまたま見て旅立ったという、ここまでの経緯だけで私は田原氏を勝手に信頼してしまう。

 そうして日本に帰国して十数年。そんな氏が「エジプトで革命が起きそうだ」と知った時の興奮は察するにあまりある。
 「なにせ初めてデモに出かけた15歳の冬から、日本で腐るほど革命という単語を耳にしてきたし、自らも口にしてきたが、実際に革命の瞬間を見たことはなかった。革命は自分にとって、誰ひとり実物を見たことがない中国神話の麒麟のようなものだった。その実物がようやく見られるかもしれないと考えると、いてもたってもいられなくなっていたのだ」
 そうして氏は止める上司を説き伏せて、自費で現地へ。すぐに向かったタハリール広場に広がる光景は、祝祭のようだった。

 「政治集会の人だかりが点在する中、手をつないで合唱を繰り返し、ときには踊っている集団もあった。祝祭が開かれていた。汎アラブ紙のルポには、駈けっこや馬跳びに興じている若者たちの写真が掲載されていた。わざわざ、この広場で結婚式を挙げるカップルまで登場した。
 エジプトはアラブの巨象である。周辺国ではしばしば、戦争や民衆蜂起が繰り返されてきたが、それまでの数十年間、エジプトだけはずっと眠っていた。そこで起きた未曾有の反政府行動の背景について、海外メディアは新自由主義政策による格差と貧困、警察の腐敗と横暴、非民主的な政治体制など、なるほどと万人が納得できそうな理由を挙げていた。そのどれもが外れてはいなかった。しかし、そのいずれもが、いまに始まったことでもなかった。
 タハリール広場の『革命』空間を切り拓いた青年たちは、自分たちの存在証明を取り戻そうとあがいていた。青年たちにとって、大統領は生まれた時からムバーラクであり、その祝祭の時点でもムバーラクだった。そして近い将来、ムバーラクの息子にその椅子が禅譲されることを彼らは知っていた。
 なにひとつ変わらず、これからも変わらないであろう政治の風景は、これからも変えようのない自分たちの未来を示唆していた。自分の意思とは無関係に、生まれてから死ぬまでのレールがすでに敷かれている人生。青年たちは自分たちの人生を自分で決めたかったのだ。おそらく、彼らが『革命』に決起した最大の理由は、そうした社会の閉塞感に風穴を開けたいという欲求にあった」

 広場の描写を呼んで思い出したのは、12年6月から7月にかけて、官邸前に数万~10万人が押し寄せた「紫陽花革命」の光景である。どこまでも果てしなく続く「再稼働反対」を叫ぶ人、人、人。
 やはり本書でも、このことが触れられている。なんといっても第二章のタイトルが「ジャスミンと紫陽花」だ。アラブの春と日本の脱原発運動の似ている部分と、違う部分。最大の違いに、読んでいて身震いがした。それは、タハリール広場の上空には、最終局面を迎えるまで、「軍の戦闘機が威嚇飛行していた」ということ。

 「それが広場の民衆に無差別射撃を加えないという保証はどこにもなかった。参加者たちも撃たれることを心のどこかで覚悟して参加していた」

 あれから、3年。本書は、「革命は徒労だったのか?」という問いとともに進められていく。「アラブの春」の詳しい背景について、そしてシリアの状況やその後のイスラム国の台頭についても多くのページが割かれている。
 しかし、文章の端々からは、逆にこの国のありようが浮かび上がってくる。

 「ユーチューブで、過激派と称される『イスラーム国』の勧誘動画を眺めた。イスラーム圏からの移民の末裔たちだけではなく、欧米から多くの白人の若者までもが、こうした動画に誘われて『イスラーム国』に渡っていくと聞く。
 似ていると直感する。確認しようと、別の動画をクリックする。日本のヘイトスピーチの『戦果』を誇る動画だ。動画は双方の当事者にとって重要な勧誘装置のひとつだ。主張も、規模も、掲げる旗も違う。でも、惹き寄せられる若者の心象風景はきっと重なっているに違いないと想像する」

 アラブのことはよく知らないまま、「イスラム国」に戦闘員として参加しようとするこの国の若者がいる。そんな北大生の報道があってから、「もうイスラム国に行くしかない」という冗談混じりの言葉を、至るところで困窮した人々から聞くようにもなった最近だ。

 アラブの春から3年。そして3・11から3年。

 田原氏は、「アラブでも日本でも熱狂の舞台はすっかり暗転し、反動の嵐が吹きすんでいる」と書く。
 その通りだと思う。だけど、悲観はしていない。
 なぜなら、「アラブの春」を経験した人々は、みんな「革命はすばらしかった」と答えているのだ。「後悔している」と答える人はほとんどいない。
 「私たちはこの3年で、人として強くなったと思う」
 田原氏のエジプトの恩師もこう呟く。

 3・11から3年半以上。
 私たちも、当時と比べて大分強くなったのではないか。『ジャスミンの残り香』を読んで、そんなことを思った。

『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が変えたもの』
(田原牧/集英社)

 

  

※コメントは承認制です。
第318回 『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が変えたもの』を読んで。 の巻」 に3件のコメント

  1. magazine9 より:

    「なにひとつ変わらず、これからも変わらないであろう政治の風景」、まるでいまの日本のことのようです。閉塞的な社会に置かれた若者の心情に、遠い存在だったアラブ世界が急に身近に思えてきました。「アラブの春」のその後はどうなっていったのか、そこに日本について考えるヒントはあるのか、私たちは本当に強くなったのか、、、さっそく『ジャスミンの残り香』を手にとってみようと思います。

  2. イスラム国って、日本の中世の一向一揆とか浄土真宗の石山本願寺の乱みたいなもんだと思いますよ。「なにひとつ変わらず、これからも変わらないであろう政治の風景」が行き着くところまで行ってしまい、現世に何ひとつ希望が持てない状況になって、南無阿弥陀仏ならぬ「アッラーの他に神はなし」とか唱えながら、戦闘で死ねば、極楽浄土に生まれ変われるんじゃないかな〜といったもの。大きく考えれば、近現代の資本主義の成長社会が限界に近くなって、新しい中世が始まりつつあるともいえる。日本でも雨宮さんがかかわってる底辺の社会で、そんな感じの動きあるでしょう。

  3. 多賀恭一 より:

    イスラム国に行く前に、
    まず選挙に行け!
    お前たちは何やってるんだ!
    市場は安倍内閣の勝利を予想して円安に動いている。
    1ドル150円になったら、ガソリンも小麦も30%値上げだ。
    つまり、すべての物価が上がるんだぞ。

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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