8月29日、国連は日本政府に対し、ヘイトスピーチに関して法律で規制するよう勧告する「最終見解」を公表した。
その前日、自民党の高市早苗議員は、ヘイトスピーチへの対応を検討するプロジェクトチームの会合で、なんと「国会周辺でのデモ」などの規制強化を求めた。
やっぱりこう来たか…と忸怩たる思いを噛み締めたのは私だけではないはずだ。もちろん、ヘイトスピーチは決して「野放し」にされていいはずがない。しかし、それを法規制するのであれば、よほど注意しなければこうして「全体の表現規制」「政府に都合が悪い活動のすべてが取り締まり対象になる」ような事態になるのでは――。多くの人の最悪の予想が、高市氏の発言によって裏付けられる結果になってしまった。
もちろん、この発言は問題となり、多くの批判の声が上がった。9月1日、そんな動きを受けて高市氏は「デモに新たな厳しい規制を設ける法的措置は考えていない」という談話を発表したものの、高市氏の「国会デモ規制発言」の本音は、「自らに都合の悪いことをガタガタいう奴らの口を封じたい」ということに尽きるのではないだろうか。
そんな思惑がダダ漏れになってしまう人物は、その2日後、内閣改造で入閣。安倍政権の「表現」や「権利」に関するスタンスがまたひとつ、明確になった人事だった。
といっても、「デモ」を「テロ」呼ばわりする人が力を持っている政権である。今さら驚くこともないのかもしれない。
昨年末、秘密保護法が成立し、年内にも施行される見通しだ。
政府に都合の悪いことを言う奴は黙ってろ――。
そんな社会になりつつあるのをひしひしと感じている。
しかも2006年から「デモジャンキー」である私は、政権によって「デモ規制」「デモの自由度」が如実に変わるのを嫌というほど経験してきた。
麻生政権の時の「麻生邸ツアー」逮捕事件や脱原発デモでの大量逮捕。運動に対する圧力は、その時の権力の姿勢がある意味非常によく表れているように思うのだ。
さて、そんな「デモ規制」の話が持ち上がり、暗澹たる気分でいた頃、嬉しいブログの記事を発見した。それは私も組合員であり、3・11以前から最先端デモを担ってきたデモマニアがたくさんいるフリーター労組のブログ。
タイトルは「デモ申請書は郵送しよう」。
私自身、デモ申請に警察署に行ったことはなく、そのことをなんとなく「デモジャンキーとしてあるまじきことなのでは…」と自らの経験不足を恥じていた。が、そんな私でも開き直れる秘策を彼らは編み出したのだ。
それが、郵送。
今まではわざわざ警察署に出向き、何時間も警察署でデモコースを詰めるなど「半日仕事」だった申請が、郵送しただけでOKだというのだ!
詳しくはブログを読んでほしいが、必要なのは申請書だけ。かかるお金は「特定記録」の郵便代だけで246円。
で、フリーター労組はこの方法で8月31日、デモを無事に成し遂げたのである!!
「デモ」というとハードルが高い人はまだまだ多い。しかもそれが「警察署に行って申請」などとなると、「なんだかヤバいのでは…」なんて腰が引けてしまう人もいるかもしれない。が、こうして「郵送」でデモ申請ができることが証明されたのだ。朗報である。
ちなみに、あまり知られていないことだが、デモは誰でもいつでも申請さえすればできる。デモの72時間前までに申請書を警察署を経由して公安委員会に出せばいいだけの話だ。もちろん、お金などはかからない。申請が受理されなかったというケースも、私自身は聞いたことがない。憲法で保障されている「表現の自由」は、具体的にこうして「使える」ものなのである。
私には常々、思っていることがある。それは「今ある権利は使わないとなくなってしまう」ということだ。以前、「デモ研究」をしている人に聞いたことがある。確か1969年だったと思うが、この年、日本でデモがなかった日は1日しかなかったのだという。翻って今はどうか。3・11以降増えたわけだが、まだまだ「当たり前に誰もが使える権利」として理解されているとは言い難い。そんなふうだからこそ、高市議員のような発言も出てくるわけである。
ちなみに私はドイツで、「ベルリンでは毎日8つくらいのデモがある」と聞いたことがある。また、フランスでは労働問題などで、100万人規模のデモが当たり前に起きる。最近では、ガザへの攻撃を反対する数百万人レベルのデモが世界中で起きたことも記憶に新しい。
デモは、私たちの当然の意思表示の権利である。
その辺りのことと「ヘイトスピーチ規制」について、意図的な混同に気をつけながら丁寧な議論を積み上げていくことが、今、とても大切なことだと思うのだ。
なんと、郵送でデモ申請が! そういえば、まだ3・11以前の記事ですが、「素人の乱」の松本哉さんが、警察署でのデモ申請の様子をリアルレポートしてくれたことが…(あんまり一般的な申請の様子ではありませんでしたが)。こうして「申請」自体を楽しんじゃうのもアリだし、郵送でスマートに済ませるのも一手。ともかく重要なのは、(デモ以外のやり方も含めて)「声をあげ続ける」ことでしょう。「黙ってろ」の圧力が強まっているからこそ、本当に「黙って」しまうわけにはいかないのです。
デモ申請に関する上記の記事はあくまで東京都の事例で、実際のデモ申請は各都道府県によって対応が異なります。
> デモは、私たちの当然の意思表示の権利である。
>その辺りのことと「ヘイトスピーチ規制」について、意図的な混同に気をつけ
>ながら丁寧な議論を積み上げていくことが、今、とても大切なことだと思うのだ。
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まずは、「ヘイトスピーチ規制」に大賛成の有田芳生議員のツイートより。
https://twitter.com/aritayoshifu/status/509503227381813248
「自民党ベテラン議員が『米軍にヤンキーゴーホームと叫ぶのもヘイトスピーチ』とある会議で発言した。『ヘイトスピーチ』を規制するプロジェクトチームに関係している議員だから、驚き、しかしこれが現実だと思うしかなかった。国会議員が『アサッテ君』の息子である小学生と同程度の認識とは情けない。」
そして、その『アサッテ君』について、再び有田芳生議員のツイートより。
「東海林さだおさんの『アサッテ君』に『ヘイトスピーチ』。小学生の会話だから正確ではないけれど、世間にこの言葉が広がったことの現れでしょう。」
https://twitter.com/aritayoshifu/status/508448088776646656
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さて、雨宮さんやこのコメントを読まれた方々は、まずは『アサッテ君』を読み、次に有田議員のツイートを読み、最後に有田議員のツイートに寄せられた返信の数々を読んだ後で、「ヘイトスピーチ」というモノをどのように考えられるのでしょうか?
また、仮に規制派の有田議員に直接面会する機会があったとしたら、自身が規制賛成であれ、反対であれ、上記の話題について、どのような言葉で話そうとお考えでしょうか?
これが今回の雨宮さんのテーマに沿った「丁寧な議論」の切り口の一つになると思いますが、いかがでしょうか?
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ちなみに原則論をあえて指摘しますが、「ヘイトスピーチ」を国家権力で規制するという話が出なければ、米軍にヤンキーゴーホームと叫んでも逮捕される危険性は、別に治安維持法的な新法が成立しない限り皆無ですし、東海林さだおさんが「ヘイトスピーチ」を漫画のネタにすることはなかったのです。
そして、気に食わない意見を「情けない」といって切り捨てるのは、「丁寧な議論」から最もかけ離れた態度であるというのは言うまでもありません。
有田さんが、ヘイトスピーチ反対デモやり始めた時から、「権力者の皆様、どうか権力使って規制して下さい」でしょ。こういう結果になるのは最初からわかってたわけでさ〜。
それなら郵便局の「特殊」の人たちと集配が少し頑張ればいいだけですからね
結局、大衆は自らを弾圧する支配者を欲しがるということ。
機械の兵士が量産されて、
人口が国力でなくなる時代が来れば、
大衆の時代からエリートの時代へ移っていくということだ。
果たして『米軍にヤンキーゴーホームと叫ぶのもヘイトスピーチ』なのでしょうか?
ヘイトスピーチとは何か?考えてみる必要があると思います。ー未読ですが師岡康子さんの「ヘイト・スピーチとは何か 」の紹介文にはこうあります。
<ヘイト・スピーチは単なる不快な表現ではなく、国籍、民族、性などの属性を理由に、マイノリティの人間としての尊厳を否定する言葉の暴力であり、差別や暴力を社会に蔓延させる差別煽動であり、歴史的にジェノサイドや戦争を引き起こしてきたのです。>http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1312/sin_k743.html
恐らく『米軍にヤンキーゴーホームと叫ぶのもヘイトスピーチ』というのは、沖縄の米軍基地反対運動の事を指しているのではないかと思うのですが、この言葉は(反対運動に効果的か?適切か?は別として)「米軍は撤退せよ」という意味で使われていて、国籍、民族、性などの属性を理由に使われているものではない、のではないでしょうか?この言葉がジェノサイドに繋がるとは考え難いと思います。
>デモは、私たちの当然の意思表示の権利である。
その辺りのことと「ヘイトスピーチ規制」について、意図的な混同に気をつけながら丁寧な議論を積み上げていくことが、今、とても大切なことだと思うのだ。ーその通りだと思います。
「ヘイトスピーチ」を国家権力で規制すると、米軍にヤンキーゴーホームと叫んでも逮捕される危険性や「国会周辺でのデモ」などの規制強化で逮捕される危険性があるからー表現の自由が脅かされる危険性があるからと言って「うじ虫ゴキブリ朝鮮人」「韓国人は皆殺し」―このようなヘイト・スピーチを表現の自由として保障するのも仕方がないと果たして言えるでしょうか?
大事なのは(再度、上記紹介文から)<日本はこれまでヘイト・スピーチをはじめとする差別の問題に正面から取り組んで来ず、野放しにしてきました。ヘイト・スピーチの放置は、自死に至るほどのマイノリティの苦しみを放置することです。「表現の自由か法規制か」という100かゼロかの議論から、日本社会が差別とどう向き合い、差別をなくすために何をすべきか>考える事だと思います。私もこれから考えていきたいと思っています。
失業率+インフレ=悲惨指数
悲惨指数の上昇は政府への支持率を引き下げ、デモを多発させる。
消費税の増税による失業率上昇+アベノミクスによるインフレ
=デモ多発
安倍内閣のおかげでデモの多かった時代に入りそうだ。
「ヤンキー・ゴーホーム」はアメリカ人差別に等しいのでしょうか? 前提からして間違っています。
>この言葉(ヤンキーゴーホーム)がジェノサイドに繋がるとは考え難いと思います。
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そうですかな?
「かつて日本人は『鬼畜米英』という言葉で白人を侮蔑した。そして実際に『九州大学生体解剖事件』のようなジェノサイドを犯した過去がある。過去にその様な罪を犯した民族が、将来、同じような罪を犯さないとは誰が保証できるのだ!」と糾弾されたら、そういう人に対して反論のしようがないのではないでしょうか?
結局は「ヤンキーゴーホーム」がジェノサイドに繋がるか繋がらないかは、それを聞く人の主観の問題です。
「うじ虫ゴキブリ朝鮮人」「韓国人は皆殺し」から関東大震災時の朝鮮人虐殺を連想し、そのような主張をする人間をヘイトスピーチとして日本社会から排除するのも、「ヤンキーゴーホーム」から九州大学生体解剖事件を連想し、そのような主張をする人間をヘイトスピーチとして日本社会から排除するのも、所詮はそういった主張をする人間を「獣」と見做す人間の主観であり、日本社会がジェノサイドを避けるべく最大限の努力を果たそうとするならば、「うじ虫ゴキブリ朝鮮人」「韓国人は皆殺し」と罵る人間も、「ヤンキーゴーホーム」と罵る人間も、すべて日本社会から排除すればもっとも安全であるという結論になると思いますが、いかがでしょうか?
さらに言うならば、誰を「獣」扱いすることによって、ヘイトスピーチか否かは決定されるのではないでしょうか?
「うじ虫ゴキブリ朝鮮人」「韓国人は皆殺し」と主張する人間を、獣ではなく人間として接し、対話を通じて問題の根本を解決しようとする意志があれば、ヘイトスピーチ表現者が殺人や傷害などの実質的な罪を犯さない限り、別に彼らを犯罪者扱いする必要は無いのです。
もし、殺人や傷害などの犯罪を犯していない日本のヘイトスピーチ表現者が罪人として裁かれるのは当然するならば、殺人や傷害などの犯罪を犯し続け、人権活動家を殺害してネットで放映するというジェノサイドを実行する「イスラム国」を、軍事力で殲滅するのは当然という結論になるでしょう。
要するに、誰かを「獣」と見做す自身の主観を是正する立場の人間は、他者が誰かも「獣」と見做す他者の主観を否定する資格を、「権威」や「数の力」で押し切るならばともかく、論理的には確実に失うことを指摘します。
注文してた師岡康子さんの「ヘイト・スピーチとは何か 」が届き、その中に米兵に対する非難についての記述があり、わかりやすいので少しだけ紹介しておきます。<このような定義(マイノリティの定義)から、例えば日本における米兵は、②の要件(非支配的立場にあり)を満たさないのでマイノリティとはいえず、米兵に対する非難はヘイト・スピーチにはあたらない。>※()内は文の意味を判るようにする為、私が入れました。
やはりこの引用だけでは判り難いので、前の文章も引用しておきます。<なお、「マイノリティ」の国際人権法上確立した定義はないが、国連人権小委員会に任命された特別報告官のカポトルティが一九七七年に提出した報告書「民族的、宗教的、言語的マイノリティに属する者の権利に関する研究」の次の定義が議論の土台となっている。①一国においてその他の住民より数的に劣勢な集団で、②非支配的な立場にあり、③その構成員は当該国の国民であるが、④国民の残りの人たちと異なった民族的、宗教的または言語的特徴を有し、かつ、⑤自己の文化、伝統、宗教または言語を保持することに対して、連帯意識を黙示的であるにせよ示しているもの、である。これらの五つの要素のうち、②が最も重要な要素とされ、③の国籍については、一九九四年の自由権規約委員会の一般的意見二三などにより不要とされている。①の要否については争いがあるが,必要とするのが通説で、日本語では、「少数者集団」とも表現される。本書では原則として①②④⑤の要素をもってマイノリティとする。なお、マイノリティの定義については、各国がその実情に合わせて定義し、また公的に認定している。>
※②の要件(非支配的立場にあり)を満たさないものに、アパルトヘイト下の南アフリカ共和国での白人がこれに当たるのだと思います。
↓ヘイトスピーチ規制に反対が多い場合、こうなります。
ヘイトスピーチ規制強化に慎重=松島法相
>松島みどり法相は26日午後、東京都内の日本外国特派員協会で会見し、人種や国籍などの差別をあおるヘイトスピーチ(憎悪表現)への対応について、「今の法律の枠組みでも、民法の不法行為に該当する場合は損害賠償責任が発生するし、刑法の侮辱罪、業務妨害罪が成立し得る」と指摘し、法規制の強化には慎重な姿勢を示した。
>法相は「(憎悪表現は)あってはならない。人権擁護の観点に立って啓発活動を行う」とも述べ、国民への啓発拡充に努める考えを示した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140926-00000140-jij-pol
>結局は「ヤンキーゴーホーム」がジェノサイドに繋がるか繋がらないかは、それを聞く人の主観の問題です。
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そうでしょうか?
どうも誤解がある様に思うのですが、
私は「米軍にヤンキーゴーホームと叫ぶ」のは、「米軍は撤退せよ」という意味で使われているから、この言葉はジェノサイドに繋がるとは考え難いと書いています。
>「かつて日本人は『鬼畜米英』という言葉で白人を侮蔑した。そして実際に『九州大学生体解剖事件』のようなジェノサイドを犯した過去がある。
〇九州大学生体解剖事件(きゅうしゅうだいがくせいたいかいぼうじけん)は、1945年に福岡県福岡市の九州帝国大学(現九州大学)医学部の敷地内においてアメリカ軍捕虜に対する生体解剖実験が行われた事件。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%94%9F%E4%BD%93%E8%A7%A3%E5%89%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6
〇ジェノサイド(英: genocide)は、1944年、ユダヤ系ポーランド人法律家のラファエル・レムキン(英語版)によって創られた造語であり(後述)、一つの人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する抹消行為をさす。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89
・『鬼畜米英』→『九州大学生体解剖事件』(ジェノサイド?)〜この事件を『鬼畜米英』というヘイトスピーチ?が原因で起きたジェノサイド?と定義出来るでしょうか?
この理屈は、無理がなく理解できるのではないでしょうか?
「うじ虫ゴキブリ朝鮮人」「韓国人は皆殺し」が関東大震災時の朝鮮人虐殺を連想させ、「ヤンキーゴーホーム」から九州大学生体解剖事件を連想?させるので、「うじ虫ゴキブリ朝鮮人」「韓国人は皆殺し」も「ヤンキーゴーホーム」も同質のものとしてしまうのは無理があると思います。
又、京都朝鮮学校襲撃事件の民事事件判決では、差別街宣、すなわちヘイトスピーチが人種差別撤廃条約二条一項dの「個人、集団又は団体による人種差別」にあたると認定し、締結国が「禁止し、終了させる」義務を負っていることが明記され、朝鮮人一般に対する差別街宣などの不特定の集団全体に対するヘイトスピーチについては現行法では規制できないと指摘して、現行法の限界が示されました。他にも、最近の広島での豪雨土砂災害では、ツイッターなどで朝鮮人が空き巣をしている。というデマや自警団を作り武装して見回りをしている。というコメントまで流れ騒ぎになりました。他にもどの様な差別があるのか、現状を把握していく事が先ずは大事だと思います。
「ヤンキーゴーホーム」がジェノサイドに繋がるか繋がらないかは、それを聞く人の主観の問題では無く、誰に向けられている言葉なのかの問題ではないでしょうか?