雨宮処凛がゆく!

 なんと!!

 この連載が!!

 300回目を迎えてしまった!!!!!

 めでたい!!

 ということで、今、一人祝杯を上げたい気分なのだが、状況は祝杯どころではなく、この連載を続けてきて8年間でもっとも「最悪」である。

 それはもちろん、「集団的自衛権」。

 軍事的な難しいことは、はっきり言って私にはよくわからない。だけど、この行使が容認されれば、「なんでもアリ」のような恐ろしいことになるのは子どもだってわかるはずだ。

 そんな「この国の形が根底から変わる」ようなことが勝手に進められている今月はじめ、ある新聞社の取材で沖縄に行ってきた。

 ちなみにこの原稿を書いている今は6月23日。69年前、沖縄で「組織的抵抗」が終わった日である。

 沖縄で開催されている戦没者追悼式には、現在「集団的自衛権行使」に向けて暴走している安倍首相も出席しているという。このことに、やりきれない思いを抱えるのは私だけではないだろう。

 さて、今回の沖縄行きは、「沖縄について、私はほとんど知らなかったのだ」ということを痛感した取材旅行だった。

 頭上を当たり前に飛んでいくオスプレイの不気味な重低音。住宅街のど真ん中の基地。米軍のヘリコプターの爆音。その音にも、数時間もすると慣れている自分がいる。

 そしてショックだったのは、「ひめゆり」学徒隊が自決した場所や彼女たちが働いていた「ガマ」(洞窟)を訪れた取材だった。

 「ひめゆり」について、私たちは小さな頃から「戦争の悲劇の象徴」として、知っている。というか、知った気になっている。学校で教えられるから。子どもの頃から、「戦争はいけない」という言葉とセットで語られる悲劇だから。

 しかし、大人になってから改めて出会い直した「ひめゆり」は、想像を遥かに超える壮絶さだった。

 「一週間で帰れる」と思っていた女学生たち。勉強道具も持っていったのに、駆り出されたのは最前線。負傷した兵隊の身体にわくウジをとり、また、彼らの手足を切断する手術の際はその身体を必死で押さえる。精神的におかしくなっていく兵隊や仲間たち。血と排泄物の匂いにまみれた真っ暗なガマ。だけどそこを一歩出れば、砲撃が続いている。そんな地獄のような日々の中、突然「解散命令」が出され、「あとは勝手にして」と放置されてしまうのだ。

 結局、動員された生徒・教師240人のうち、半数以上が死亡。

 「軍隊は住民を助けない」

 住民が多く巻き込まれた地上戦によって、4人に1人が亡くなったと言われる沖縄で、何度も何度もその言葉を聞いた。沖縄戦の犠牲者は、実に20万人以上。

 6月の沖縄で、自分の立っている場所が69年前には死体の山だったことを改めて実感し、時々、立っていられないほどの恐怖に包まれた。

 そうしてショックだったのは、「私たちは、戦争がどんなものかまったく知らなかった」という、ひめゆりの生き残りの人の言葉だ。私はこれまで、戦争体験者は「戦争」がどういうものか、経験する前にある程度知っていたのだと勝手に思っていた。しかし、彼女たちは、まったく知らされていなかったのだ。逆に当時の情報統制を思うと、「美化」された物語として吹き込まれていた部分も多大にあるだろう。とにかく、彼女たちは知らなかった。だからこそ、一週間で帰れると思ったのだろう。勉強道具を持参したのだろう。しかし、一緒に行った友人たちの半数以上は、あまりにも惨たらしく命を奪われた。

 生き残った人たちは、だからこそ、証言しているのだという。

 あの戦争から、69年。

 戦争を経験した人は高齢化し、証言も難しくなってきている。そんな現在、まるでそのことに狙いを定めるかのように、「戦争を知らない」世代の安倍首相は、日本を「戦争ができる国」へと根底から変えようとしている。

 戦争を知らない世代の私たちにできること。それは、真摯に歴史に学ぶことではないのだろうか。辛い経験をした人々の声に耳を傾け、それを「今」、そして「未来」に活かすことではないのだろうか。

 安倍政権は、「忘却」と「無関心」を、最大限、利用しようとしている。

 今、全身全霊で抗わないと、取り返しのつかないことになる。ただその思いだけで、祈るように原稿を書き、さまざまなアクションに参加し続けることしかできない自分が、歯がゆい。

 だけどとにかく、抵抗し続けよう。諦めた瞬間、私たちは、「未来」を手放すのだと思う。

 

  

※コメントは承認制です。
第300回 沖縄で考えた「戦争」。の巻」 に6件のコメント

  1. magazine9 より:

    300回目の雨宮さんのコラムは、慰霊の日を迎えた沖縄について。過去に戦争を体験した人たちもまた、今の私たちと同じように「戦争がどんなものか、知らなかった」のだ、という指摘、たしかにそのとおり。知らないうちに、気づかないうちに、再び私たちのそばに「戦争」がやってきていた――。そうならないために今、「抵抗し続ける」ことが必要なのだと思います。
    東京・東中野の映画館、ポレポレ東中野では27日まで、「ひめゆり学徒隊」の生存者たちの生の声を記録したドキュメンタリー映画『ひめゆり』を上映中です。この映画、監督及び出演者の意向で、TV放映やDVD化はされない予定とのこと。可能な方はぜひ、足を運ぶことをおすすめします。

  2. KR より:

    沖縄戦から69年目の「慰霊の日」。

    「平和宣言」で仲井真知事は「県外移設」の嘘の上塗り。安倍は去年の挨拶の原稿の使い回し。

    沖縄は「平和憲法下の日本への復帰」を望んで、1972年にこの国に復帰したのに、戻ったところはやはり米国の植民地だった。そして日本の施政権下に入ると同時に日米安保が適用されることになり、再びヤマト防衛のために自衛隊が配備されることになった。また「日本軍」がやってきたのだ。
    復帰後は、それまでの米軍政下の排他的支配体制から日本の下請けとして、つまり宗主国米国の孫請けとして、米軍基地の74%を押し付けられたのだ。
    そしていま普天間基地を人質にとって、新たな恒久的基地として辺野古米軍基地をつくろうとしている。
    いつまで沖縄を捨て石にすればいいのか。
    67年間「平和憲法」の「保護」を受けてきたはずのやまとんちゅは、沖縄の犠牲をこれ以上許してはならない。

  3. 伊東秀武 より:

    失望する必要は有りませんよ。今日元気づけられてきました。
    本日、衆議院第二会館で、柳澤協二さんの講演が有りました。防衛省官僚から官邸にはいり小泉さんから4人の首相に仕え、自衛隊イラク派遣の実務を努め内情を熟知した人物。当時としてはギリギリの決断だった言われていた。しかし、今の安倍さんのやり方はいくら何でも無茶苦茶だと思い、防衛省関係者からは裏切り者と言われても、集団的自衛権のまやかしを論破し続けている。実にわかりやすく、合点のいく話でした。戦争もあまり戦線を伸ばすと補給が出来ずに敗戦に至る、という話に例え安倍さんもあまりにも戦線を伸ばしすぎていて、いずれ破綻に至るのではないかと暗示されていた。例え閣議決定しても、その後法制化する厳しい国会論戦も有るので、失望せず粘り強く運動することが大切ではないかと言っておられた。今回の集団的自衛権については、外務省が主犯だと言っていたのが、物陰に隠れていたのが暴露されたようで、納得がいった。100名ほどの参加者が熱心に聞き入っていた。

  4. 軍隊は国民を守らない、というのはよく言うが、正しくは、敗軍は国民を守れない、だろう。沖縄の日本軍が好き好んで住民を殺していたと思っているのだろうか?

  5. 多賀恭一 より:

    一般には勘違いされているが、
    本文にも書かれている通り、
    軍隊は国民を守る組織ではなく、敵を殺す組織である。
    国民を傷つける者を、やられる前にやる組織である。
    炎と同じように、必要だが使い道の難しいモノだ。
    火遊びの好きな政治家に自由にさせて良いものではない。

  6. さき より:

    「好き好んで」住民を殺していた、とは(雨宮さんも)誰も言わないでしょう。ただ「ガマに逃げ込んでいたところを日本兵に追い出された」といった証言はたくさんあるわけで、「敗軍だから」それが正当化されるわけでもない。兵士1人ひとりを責めているのでも、日本軍だからそうなったというのでもなく、軍隊とは本質的にそういうものだ、ということだと思うのですが。

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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