雨宮処凛がゆく!

 怒濤の都知事選が終わった。

 結果はご存知の通り。舛添都知事が誕生してしまった。

 反貧困、脱原発を掲げた宇都宮さんを応援してきた身としては、あまりにも残念な結果だ。

 同じく脱原発を掲げる細川氏を応援してきた人たちにとっても、忸怩たる思いが残る結果だろう。

 そしてもっとも心配なのは、この選挙結果を受けて、「脱原発候補の一本化が実現しなかったからだ」「実現しなかったのは○○さんが悪いのだ」「いや○○さんのせいだ」といった「犯人探し」や、自分とは違う選択をした人たちへの批判が始まることだ。

 もちろん、反省し、総括しなければならない点は山ほどあるはずだ。

 しかし、この結果が脱原発運動や平和を目指す運動、そして反貧困運動などに禍根を残すようなことになるのだけは避けたい。

 そんな思いから、都知事選投開票日の夜、「トーキョー・ノーサイド宣言」をブチ上げた。

 呼びかけ人は香山リカさん、池田香代子さん、そして私。

 以下、呼びかけ文である。


みんなで「ノーサイド」を――都知事選を終えて
トーキョー・ノーサイド! 宣言

 ラグビーでは、試合終了の合図を「ノーサイド」と呼びます。
 試合中は敵と味方として激しく戦い合ったプレーヤーも、試合が終わればお互いの健闘をたたえ合い、同じラグビーを愛する仲間どうしとして友情で結ばれる。これが「ノーサイド」の精神です。
 今回の都知事選では、「脱原発」を強く訴えるふたりの候補者、宇都宮けんじ氏、細川護煕氏が立候補し、この問題が大きな争点となって有権者や全国の人々、マスメディアの大きな関心が集まりました。両候補への支持を表明した人たちは、それぞれの立場で一生懸命、投票を呼びかけ、「脱原発」を訴えました。
 私たちは、その方たちすべてに深く敬意を表します。
 そして、激しい選挙戦は終わり、健闘むなしく両候補とも当選には及びませんでした。とても残念なことに思います。
 しかし、この選挙戦を通して両候補が訴えてきた「脱原発」「平和の発信」「環境重視」「安倍政権暴走へのストップ」などへの取り組みまでが、これで終わったわけではありません。
 今回の選挙で私たちは、東京、いえ全国に、脱原発を願い、協調と平和を愛し、どんな人にとってもやさしい社会を目指したい、と願う人たちが大勢いることを知りました。万が一、今回の選挙でその大きな力が削がれるようなことがあれば、それは選挙結果以上の痛手となりかねません。
 ラグビーの試合終了の合図は、「ノーサイド」。
 私たちもそれぞれが「ノーサイド!」と宣言し、自分をたたえ、仲間をたたえ、相手やその仲間をたたえて再び手を取り合い、前を向いていっしょに歩んで行きましょう。

2014年2月都知事選を終えて
トーキョー・ノーサイド!実行委員会
雨宮処凛
池田香代子
香山リカ

 それぞれの立場から、言いたいことはたくさんあるだろう。

 もちろん、私だってある。

 自分の意図とは違うのに切り取られた言葉だけが一人歩きし、それが誤解をよんで泣きたくなるほどの人格否定も受けた。頭ごなしに私の選択を否定してくる人もいた。これまで8年間、運動にかかわってきて、一番と言っていいくらい、辛い数週間だった。

 だけど、それもみんなの「脱原発」への思い、「安倍政権暴走」への危機感が強いからこそ。本当は、同じ方向を向いている大切な「同志」だ。

 選挙が始まる前から、この「ぎくしゃくした感じ」がこれまで続いてきた脱原発運動を後退させることを危惧していた。だからこそ、なんとかしなければ、と思っていた。選挙前からそんなこんなについて話していた香山リカさんの呼びかけで開かれた会合で、「トーキョー・ノーサイド」の案が出た。

 反省することも、分析することも重要だ。

 だけど、とにかくいったん「ノーサイド」にして、みんなで仲良く前を向いてやっていきたい。そんなの綺麗事、と思う人もいるだろう。だけど、「違いを認め合う」「お互いの意見を尊重する」ことは民主主義の基本だ。

 ノーサイドについて話し合う会合で、ある大物文化人が呟いた言葉が印象に残っている。細川氏支持に回ったことで、「裏切り者」「人でなし」などあらゆる罵詈雑言を浴びせられてきた人だ。彼は今回の都知事選について、「まぁ、交通事故みたいなもんだから」と言ってあっけらかんと笑った。

 交通事故。なんだかその言葉は、妙に腑に落ちるものだった。そうなのだ。いろいろな議論や論争がある中で、決定的に意見が別れて今まで運動にかかわってきた人たちの分断が起きたわけでなく、みんな気がついたらよくわからない災害みたいなものに巻き込まれていて、それぞれが違う場所にいた、というような感覚。しかし、事故に巻き込まれている最中には、意外とそのことに気づかない。あとになって初めて、「あの時は、事故のただなかにいたのだ」と気づく。

 この日は、池田香代子さんにも興味深い話を聞いた。

 どこかのお祭りか何かで、村人が二手に別れて競い合うという儀式があるのだという。競い合った果てに、今度は二手に分かれていた人たちがひとつになるという儀式がある。一度は別れて競い合うことで成長し、ひとつになった時に更に大きな力になる、というような意味が込められているらしい。

 なんだかその話は、私に次のビジョンを見せてくれるものだった。

 一度は別々になって競い合った私たちは、ひとつになったらさらにパワーアップしているはずだ。

 さあ、辛い戦は終わった。

 そしてこの戦の果てに、私たちの前には今、敵が更に強大になって立ちはだかっている。

 仲間割れしている暇はない。

 またみんなで、前を向いてやっていこう。

選挙中。宇都宮さんの街宣には、SUGIZOさんも来て下さいました!!

 

  

※コメントは承認制です。
第286回 トーキョー・ノーサイド宣言!!の巻」 に8件のコメント

  1. magazine9 より:

    とてもとても残念な結果に終わった都知事選。だからこそ「仲間割れしている暇はない」。この一言に尽きる気がします。振り返りや反省は必要だけれど、「次」につながるものでなければ。雨宮さんたちの素早い行動に、感謝。

  2. TK より:

    舛添さんとはノーサイドではないの?田母神さんとはノーサイドではないの?

  3. 賛同します。さすがです。

  4. ピースメーカー より:

    ある大物文化人は周りを気遣って「交通事故」と言ったのでしょうが、それを天災に遭遇して起きた事故だと自己完結して、人が起こした「事件」だと認識して原因を究明する事なく「ノーサイド」を宣言する姿勢には反対します。
    なぜなら、例えば癌患者にモルヒネを打って疼痛を緩和し、完治したと見せかける様な処置に見えるからです。
    そもそも、「ノーサイド」とは双方がルールとスポーツマンシップがあってこそ成立するものではないでしょうか?
    しかし、雨宮さんの「泣きたくなるほどの人格否定」という言葉の裏には、激情と非情、先鋭化と排他性という宿痾が透けて見えます。 何故、この様になったのかは私を含む少なくない一般庶民は感覚的に推察できますが、こういった事象を精神科医であり『ぷちナショナリズム症候群—-若者たちのニッポン主義』を執筆した香山リカさんこそが科学的手法を用いて検証し、今後は二度と同様の事態を引き起こさない様にすべきなのが先決でしょう。
    こういった仕事はいくら論理的かつ客観性に富んでいたとしても、ノンポリや右側の知識人がしても感情的に反発されるからこそ、「九条の会・医療者の会」に参加し、「マガジン9条」発起人である香山さんこそがすべきでしょう。
    精神医学を日本社会の事象に当てはめる手法は、今回の事件に応用させても通用すると私は思います。
    ところでTKさんも指摘している事ですが、雨宮さんは舛添さんやその支持者と「ノーサイド」にできないのですか?
    それこそがまさしくアルファにしてオメガだと思いますが、雨宮さんとしては如何お考えでしょうか?

  5. アンコウ より:

    TKさん、揚げ足とるのはやめましょうね、それとも本気? だとしたら、長文読解力を鍛え直した方が良いよ。

  6. ohoi より:

    >私たちの前には今、敵が更に強大になって立ちはだかっている。

    敬愛する雨宮さん、いまごろ「ノーサイド」はおかしいですよ。
    わかっていたことではないのですか。

  7. あっチャン より:

    選挙前から、選挙中から、反原発の運動をしてきた人たちが、とても高いレベルの、統一、共同への意志を持っているのを、感心して見ていました。
    宇都宮さんが、我々弱い者が分裂していてはいけない、と言ったことも印象的でした。
    戦後の色々な運動が、分裂のために痛手を受けて来ましたが、新しい運動の担い手たちは、それを乗り越える新しい知恵、文化を持っているのを、頼もしく思います。
    妙な敗北感などは無い感じで、嬉しいです。
    これからの、運動への意欲がわきます。
    長い道のりを乗り越えて行く力を感じます。
    雨宮処凜さんは、すごい。

  8. 林 敏夫 より:

    ノーサイドという言葉は、余韻の残る中、政治の場で使われると勝者の臭気がある、
    敗者にはその思いがあっても、すぐにはそうは言えない複雑な心情がある。
    確かに銀メダルは銅メダルに対しては勝者だが、金メダルには厳然たる同一の敗者に過ぎない。
    この先、勝者のある種の驕りと敗者の気怠い失望感〈怨念も含む〉を融合させていくのは、
    その経緯により事前の作業よりも、時間と感情の消化、そして人が必要とされる茨がある。
    我が国のような未成熟な民主主義国家国民においては、なおさらのことであろうか。
    愚かな政治とは愚かな国民のことであり、とりもなおさず残念ながら愚かな私に他ならない。
    先の所謂一本化の議論の時、何が話され何が話されなかったのか、
    何が一致し何が一致しなかったのか、議論・ペーパー等の全てを公開して、
    前車の轍を踏まないよう、次の第一歩とすべきではなかろうか。
    事実は消せないし水に流す類のものではないが、
    それに纏わる感情は、個々の良心と理性・知性で乗り越えていくしかない。
    安倍一党のカルト的紐帯を思えば、私たちは幾重にも試され、試され続けていくだろう。

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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