ものごとを無理に進めようとすれば、必ず反動が来る。世の理である。菅さんという前の総理大臣が意欲を燃やした脱原発政策(正確には「減原発」でしたか…)は、その典型になってしまった。
新しい首相に決まった野田佳彦さんなるお方、菅さんの路線を覆すのが当然とばかりに「原発容認」である。菅さんが7月に脱原発を高らかにうたった直後に、こう語っている。
「完全に原発をゼロにするのは個人の夢としてはあるかもしれないが、政府として前提にするのはそう簡単ではない」「当面の電力不足を考えた場合、安全性を確認しながらどうやって原発を稼働してもらうか、地方の皆さんに頭を下げてお願いすることもあるかもしれない」(朝日新聞・7月16日夕刊)。「電力不足が経済の足を引っ張ってはいけない」との考えから、という。民主党代表選でも、原発問題に対する野田さんの主張は「安全を確認した原発の活用」だった。
マスコミも「原発容認」を既定路線とみているようだ。野田さんが代表に選出された後の記者会見での質問は人事と大連立ばかりで、原発政策には誰も触れなかった。記者の問題意識のなさには今さらあきれもしないけれど、「野田さんが首相になれば脱原発政策は止まる」という前提が定着していることは想像に難くない。
定期検査で停まっている原発の再稼働は、もはや時間の問題だろう。ここまで順調にウイングを広げてきた脱原発派にとって、いばらの道が始まりそうな気配である。
それにしても、と考えてしまう。脱原発を訴える人たちは、どうして菅さんを真剣に支えようとしなかったのだろうか、と。
読売新聞が8月5~7日に実施した世論調査によると、菅首相の「脱原発依存」の方針について、「賛成」は67%、「反対」は21%だった。一方で、菅内閣の支持率は18%、不支持率は72%。菅首相に「すぐに退陣してほしい」と思う人は32%で、「今の国会が終わる8月末まで」の36%を合わせると、8月中の退陣を求める人が68%にも上っていた(8月8日付朝刊)。要するに、「脱原発」に賛同する人の多くが、提唱者である菅さんの即時辞任を求めていたわけだ。
これって、大きな矛盾である。だって、菅さんが退任すれば、後継と目される人の中に脱原発派が見当たらないことは、その時点で自明の理だったのだから。実際に浜岡原発を停め、停止中の原発の再稼働に厳しい条件を課し、再生可能エネルギー特別措置法の成立に執着し、経済産業省に立ち向かい、首相として初めて脱原発に言及した菅さんに頼るほかはなかったはずだから。
私は菅さんのやり方を「独裁者気取りだ」と厳しく批判し、場当たり的に長続きがしない手法を取ってしまったことで「脱原発宣言が逆効果になってしまった」と指摘した(第55回)。今でも、そう思っている。しかし、脱原発の人たちが本気で菅さんの主張に賛同していたのであれば、たとえば国民投票や総選挙を求めるなりして、後づけながらでも国民全体の意思であることを証明していくことはできたのではないか。
菅さん、辞任表明の記者会見で、浜岡原発の停止を要請してから「厳しい状況が強まったことは、私自身ひしひしと感じている」と述べている。民主党内からも閣内からも官僚からも経済界からも反発されて、最後の頼みの国民の支持も受けられなかった。もちろん、脱原発には国民の厚い支持があると示し得なかった菅さんが一番悪いのだけれど、脱原発派が本気で支えなかったから「国民の脱原発意識なんてその程度だ」と原発容認派に足元を見られてしまったというのも一面の真理だと思う。
ところで、脱原発の方向が「徐々に減らす」に収斂されつつあることは、新聞社の世論調査からもうかがえる。
前述した読売新聞の世論調査では、今後の国内の原発について「減らすべきだ」が49%で一番多く、2番目は「現状を維持すべきだ」の25%、「すべてなくすべきだ」は21%だった。毎日新聞の8月20、21日の世論調査では、「時間をかけて減らすべきだ」が74%で最多。「今すぐ廃止すべきだ」(11%)は、「減らす必要はない」(13%)より少なかった。同紙は「再生可能エネルギー推進策の先行きは不透明。全国規模で広がった電力不足を受け、社会・経済活動への不安も反映し、段階的な原発削減を求めた」と分析している(8月22日付朝刊)。
停止している原発の再稼働については、日本経済新聞の7月末の世論調査で、「定期検査を終えた原発から再稼働すべきだ」との回答が53%になり、「再稼働すべきではない」の38%を上回った(8月1日付朝刊)。同紙は「(6月の)前回調査で『対策は不十分で運転再開すべきではない』との回答が69%だったことを考慮すると、一定の安全性が確保されれば再稼働を容認する声が増えつつあるともとれる」と書いている。
一言で「脱原発」と言ったって、その中身には温度差があり、わかりにくい。「脱原発」が具体的に何を指すのか、脱原発派は、今の段階で広く一致して主張できることを明確にするべきだと思う。すべての原発の即時停止・廃炉なのか、当面は老朽化したものや耐震性に疑問があるものだけを停止するのか。原発の再稼働にはすべて反対なのか、それとも条件付きで認めるのか。時間をかけて廃止していくのなら何年後になくすのか、等々。浜岡、大間といった個別の原発の今後とともに、目指す具体的な将来像を行程案にまとめてほしい。でないと、賛成できるかどうか判断できない。
そして、それをどうやって国民に訴え共感を求めていくのか、しっかり考えた方がいい。原発容認派が政権や国会の主流となれば国民投票には乗ってこないだろうし、野田・新首相は早期の総選挙に否定的な考えを示しているから、国民が直接、原発について意思表示できる機会は当面なさそうである。デモも運動のひとつの形として重要だろうけれど、内輪の団結をかためるには有用でも、それだけでは一般に浸透しないと思う。これまでのような「ムード頼み」ではダメだ。
6月にアップした拙稿「残念ながら、危険と訴えるだけじゃ原発はなくならないと思う」で、「『脱原発』って、経済的、心理的な面も含めて、これまでの社会の構造を根本から転換する営みなんだと思う」と書いた。「多くの庶民にとっては、慣れ親しんだ生活からの脱却に踏み切るだけでも相当な覚悟がいるのに、行き着く先で自分の生活がどうなるか分からない、もしかすると今の生活基盤を失う可能性もあるなんて考えれば、原発がなくなった社会への不安は増すばかりなのだ」とも。
庶民の生活感に根差した脱原発論を展開できるかどうか。今後、逆風の中で脱原発の輪を広げられるかどうかのカギである。
「これからの脱原発の運動は、いばらの道」。まさにそうでしょう。
事故から半年が経て未だ事故は収束していないけれど、
「放射能汚染がこわい」「地震が起きるかもしれないから危ない」だけでは、
この国のエネルギー政策も、多くの人の「でも原発がないと暮らしが不安だよね」という考えも、
変わらないのだということがわかりました。
二項対立になることなく、脱原発派が原発容認派もとりこみつつ、
新しい社会をどう作っていくか。これからが正念場です。