いわゆる「従軍慰安婦」の問題について、「強制だったという証拠はない」とした安倍首相の発言に、国内外から数多くの批判が集まりました。この問題が持つ意味の大きさを、改めて考えてみます。
歴史的事実は、
判断する人によって異なるもの
安倍総理の発言から、従軍慰安婦問題が再燃しています。マスコミなどでも、急に「従軍慰安婦」という言葉を使わなくなり、単に「慰安婦」とだけ言い始めたところもあるようです。その日和見主義はさておいて、国や軍がどれほど関与したかは、裁判所による事実認定でも明らかになっていることなので、ここで蒸し返すことはしません。
また、たとえアメリカの特定の議員が人気取りのために提出した謝罪決議だと思うことがあったとしても、それにうまく対処していくのが外交です。日本政府も今後、アメリカ民主党ともうまくやっていかなければならないことは明らかなはずです。そうした政治的な当不当の問題もありますが、今回は2点ほど指摘しておきたいと思います。
ひとつめは、歴史的事実や証拠は判断する人によって、なんとでもいえるということです。
歴史的事実は真実として一つであり、そんなもの議論になるのがおかしいと思う人がいるかもしれません。しかし、歴史上の事実は裁判における事実と同じで、そこには判断する人の価値観が反映されてしまうのです。
歴史上の事実も裁判上の事実も、過去の事実です。そしてそれを認定するのは現在の人間です。たとえ証拠に基づいて判断するとしても、その証拠をどう評価するか、その判断は人によって異なってきます。つまり、判断する人によって、過去の事実をどう見るか、つまり事実認定も価値判断が含まれるため人によって異なってくるのです。
たとえば、裁判という場における事実認定を考えてみましょう。真実は一つだと思うかもしれません。ですが、問題となっている事実は、過去の事実です。それを現在の時点で裁判官が判断します。どうやって判断するかというと、証拠によって判断します。過去の事実が、証拠に一定の痕跡を残します。その残された痕跡を現在の裁判官が見て判断するわけです。
殺人という事実があったとして、その事実が、現場に残された指紋や目撃証人の記憶という形で痕跡を残します。それが時を越えて現在まで保存され、それを法廷で認識した裁判官が過去の事実を推論していくのです。これが事実認定です。
目撃証人の記憶という痕跡もあれば、アリバイ証人の記憶という痕跡もあり、こうした矛盾する証言をどう評価するのかは裁判官の仕事です。どちらかの証人がウソをついているかもしれませんし、記憶違いかもしれません。現場の指紋が被告人のものと一致したという事実をどう評価するかも人によって違います。指紋など転写される可能性もありますし、自白供述も強制された可能性もあります。
こうした可能性をどこまで考慮して判断するかは、裁判官の自由です。これを法律用語で、自由心証主義といいます。つまり、裁判官の事実認定は裁判官が自らの責任で、自分の自由な価値観に基づく心証形成によっておこなっているのです。
過去の歴史的事実も同様です。過去の出来事を現在の人間が評価するのですから、いくら証拠が出てきても、そんなものは信用できない、確実な証拠などとないといくらでもいうことはできます。被害者がどんなに主張してもそんな被害者の発言は信用できない。たった十数人の年寄りの証言にどんな価値があるのか、そんなもの信じないと声高に主張することは可能なのです。
「無罪の推定」の理論は、国家には適用されない
無罪の推定や「疑わしきは被告人の利益に」という原則があるのだから、国家の戦争責任などについても、明確な証拠がない限りなかったことにするべきだという人がいるかもしれません。しかし、残念ながらこれは、無罪の推定を理解できていない人の発言と言わざるを得ません。個人の人権を守るための無罪の推定と、戦争責任のような国家の責任を追及する際の視点との違いをしっかりと理解しておかなければなりません。
そもそも無罪の推定とは、国家によって被告人とされた個人の人権を守るための理論です。国家と個人とが対立したときに、個人を守るための理論に他なりません。国家が何か不正を働いた疑いがあるときに、その国家の責任を免責するというような国家に都合のいい理論ではないのです。
国家賠償請求訴訟において、国の故意・過失を被害者の側が立証できなかったときに、国家賠償を求めている原告が負けるとしても、それは単なる訴訟法上の証明責任の分配の問題にすぎません。あくまでも法律制度上の理由に基づくものであり、無罪の推定のような憲法上の理由に基づくものではありません。
無罪の推定は個人の尊重という憲法価値に基づく原則です。
裁判の場では、本当に被告人が真犯人なのか無実なのか裁判官にもわからないことがあります。そのときにどう行動するかを予め決めておけば判断に迷うこともなく、悩むこともありません。それが無罪の推定です。裁判官も人間ですから、判断を誤ることがあります。そのときに私たちがどのような過ちなら受け入れることができるかを予め決めておくのです。
「真犯人を取り逃がす過ち」と「無実の人を処罰してしまう過ち」と、社会はどちらを受け入れることができるか。憲法は前者を選択しました。一人一人がかけがえのない命を持っていて、社会のためにそれを犠牲にすることは許されないからです。残念ながらまだ日本の社会が真犯人を取り逃がす不都合の方がまだましだという感覚をもっていないため、無罪判決を下す裁判官には相当な勇気が必要なことがあります。
しかし、仮に疑わしきは罰するという判断基準の下で失敗したら、取り返しがつきません。特に日本には死刑制度がありますから、ここでの失敗は修復不可能です。真犯人を取り逃がす失敗があっても、その先に考えられる社会の不利益は現実のものではなく可能性にすぎません。他の方法による社会防衛の余地は残っています。修復可能な不都合の方を受け入れるべきだというのが憲法の選択です。
判断の分かれる「事実」を、国家がどう受け止めるか
さて、こうした無罪の推定という人権の問題と、国家の戦争責任の際の判断はまったく別物であることをしっかりと認識しておかなければなりません。ただ、歴史上の事実の認定も裁判同様に判断が分かれることが多々あります。それは先に述べたように事実の認定自体が、裁判と同じように分かれることもあれば、その事実の評価が立場によって分かれてしまうこともあるからです。
問題は、こうした歴史的事実をどう受け止めようとするのか、その態度です。国家が直接、間接に関わったかどうかわからない、だから国家として謝罪は不要というのか、日本が起こした戦争の被害によって現在でも苦しんでいる人がいる、国家として二度とこうした過ちを犯さないために永久に忘れない、その証として謝罪し続けるというスタンスをとるのかという選択の問題です。
そして、どのような歴史的事実であっても、どこかで選択し決着をつけなければいけないことがあります。もちろん、裁判に再審があるように、歴史的事実も後に書き換えられることはあるでしょう。しかし、それは歴史研究者の仕事であって、政治家の仕事ではありません。
ある時点で、決着をつけた問題に対してあとから、個人的価値観や歴史観に基づいて、責任ある立場の者がそれを覆すような発言をすることは、国家としての一貫性がないと判断されてしまいます。政治家が個人としてどのような信念や価値観をもっていようがそれは個人の自由です。しかし、ひとたび公職についた者は、その地位に伴う責任が生じるはずです。
人権感覚とは、「弱い立場の人への配慮」のこと
もうひとつ指摘しておきたいことは、こうした発言が国際社会においてどう受け止められるかという点です。「国家として認めた」と少なくとも外国からは見られている事実を、証拠がないと言って覆そうとすることは、どう考えても得策とはいえません。それは、単に過去の歴史に対しての向き合い方を批判されるだけでなく、今回のような人道や人権に関する事柄の場合には、人権に対するスタンスを見透かされてしまうから、大きく問題となってしまうのです。
一般に親日と言われる台湾や、アメリカを始めとした西欧諸国からの批判は、この問題の根の深さを示しています。日本国民が考えている以上に、外国からは、こうした問題を通じて、日本の政治家の「人権に無頓着な態度」が問われているのだと考えます。
柳沢厚生労働大臣の「女性は子どもを産む機械」発言のときもそうでした。なぜ外国がそれほどまでにこの問題を取り上げて報道するのだろうか、別に大した問題ではないのにと思われた方もいたかもしれません。ですが、外国メディアはこうした問題に敏感に反応します。それは人権問題だからです。
もちろん、アメリカがイラクを始め世界各地でやっていること、中国のチベット問題などに比べればかわいいもんだと言いたい人もいることでしょう。しかし、だからといって、日本の政治家に人権感覚がなくていいわけがありません。
人権は確かに西欧近代諸国の価値観であり、普遍的なものでもなんでもないという人もいます。事実としてそのとおりであったとしても、今日の国際社会は人権を人類普遍の価値としようという方向で進んでいます。日本だけ逆行するわけにはいかないのです。
人権感覚とは、弱い者への配慮の気持ちのことです。子どもを生みたくても生めない人もいるのではないか、育てたくても育てることができない人がいるのではないかという弱い立場、少数派への配慮こそが、人権感覚に他なりません。柳沢発言はそうした感覚の欠如を露呈してしまいました。
従軍慰安婦問題であっても、旧日本軍遺棄毒ガス訴訟、強制連行訴訟などであっても同じです。今、目の前に理不尽に苦しんでいる人がいる、なんとかしなければという気持ちを持てるかなのです。ことは外国人への態度だけではありません。さまざまな薬害訴訟や原爆症の患者さんへの国の対応、拉致問題へのこれまでの国の対応、そして昨今の格差社会や医療・社会福祉への取り組みなど、すべてに共通します。裁判所を含めて、この国は人に優しい国とはとても思えません。
相手の立場に立ってものを考える。あくまでも弱い立場の目線でものを考える。それが政治のあるべき姿のはずです。多数派や強者の陰に隠れてしまう少数派や弱者に光をあてていく。これこそが人権感覚であり、憲法の存在意義であることを忘れてはなりません。
弱い者への配慮を欠いた政治家の発言が、
以前にも増して目立っている気のする昨今。
そうした「人権感覚のなさ」へも、
常に厳しいチェックの目を向けておきたいものです。