横浜弁護士会主催のシンポジウムの報告から
6月28日に行われた横浜弁護士会主催のシンポジウム「いま基地の街では~岐路に立つ住民の安全と地方自治~」にパネラーとして出席してきました。
第1部では厚木基地爆音訴訟や米兵による強盗殺人事件の当事者の方からの報告、自衛隊内部のいじめ自殺事件のお話も伺いました。殺人集団としての軍隊の本質や自衛隊の陰湿さを再認識するとともに、こうした理不尽によって苦しんでいる国民のために、日本の政府は何もしてくれないという現実を思い知らされました。
横須賀で原子力空母配備への反対運動をしている呉東正彦弁護士の講演からは、住民投票を求める運動を通じて、市民の意識が高まっていく様子を伺いました。そして、原因不明の火災を起こした原子力空母が首都の間近に配備されることの危険性について、政府も自治体も住民の立場にたって本気で考えてなどいないことがよくわかりました。
米軍が安全だというから政府は安全だといい、政府が安全だというから市長は安全だというだけなのです。自らの責任で調査・検証して安全性を確認しているわけでもなんでもないのです。まさに米軍のいいなりです。
第2部では、岩国と沖縄からの報告がありました。岩国の井原勝介前市長が、あまりにも一方的で理不尽なやり方に納得できないと艦載機の受け入れに反対し、住民投票を実施した経緯などについて講演されました。住民投票は住民が直接、自分たちの未来を選択できる大切な機会であり、基地の問題についてもものを言うことができるんだと市民が認識し、民主主義を深化させるために重要だったと評価されていた点が印象的でした。
補助金カットなどの国の圧力やいやがらせに地域住民が屈してしまうことを責めることはできません。こうした露骨なアメとムチによる負担の押しつけは憲法の保障する地方自治の考え方に反しています。憲法は、たとえ中央の多数意思によっても、地方自治の本質を侵してはならないという意味で、明治憲法には規定がなかった地方自治を独立の章を設けてまで保障したのです。
地方財政の悪化につけこんで、再編交付金などのお金をちらつかせて地方に基地負担を押しつけていくようなやり方は、国による地方の自律性の侵害であり、団体自治という地方自治の本旨(憲法92条)を侵害していると考えます。
軍隊の進出に不可分な
「地位協定」という不平等条約を考える
沖縄の新垣勉弁護士からは、基地があるがゆえの人権侵害や生活妨害、そして年間1800件に及ぶ事件事故がこの国のどこかで起こっているという現実を指摘していただきました。米軍兵士を守るための地位協定という不平等条約によって、日本の独立国家としての主権が侵害されているさまもよくわかりました。
この地位協定は軍隊の進出と不可分のものであり、軍隊を守るために相手国との間で取り交わされる条約です。米軍は日本の刑事司法がお粗末であり、米軍兵士を日本の遅れた刑事司法手続きで取り調べさせることはできないという理由で、この不平等条約を押しつけています。
日本の刑事司法手続きが一刻も早く先進国並になることが、日米地位協定という不平等条約を改定させるには必要だということです。そして、もうひとつ、新垣弁護士から、自衛隊がイラクに派遣されているが、この自衛隊のイラクでの法的地位を明確にするための地位協定も必要となることの指摘がありました。
自衛隊員がイラクで罪を犯したときに、イラクの法律で裁かれることがないように、自衛隊員を守るための地位協定です。つまり、日米地位協定の問題は、自衛隊の海外活動において、そのまま日本にも跳ね返ってくる問題なのです。この点は、次回、もう少し深めたいと思っています。
6月26日の普天間基地爆音訴訟那覇地裁判決では、深夜早朝の飛行訓練の差止は認められませんでした。日本政府は米軍をコントロールできる立場にないという理由です。そして、日本政府には米軍の違法な爆音被害を予防する義務がないと言い切ったのです。
他方、米国を被告とした横田基地訴訟では裁判権が及ばないという理由で差止請求は却下されています。つまり、日本政府を訴えても、米国政府を訴えても、爆音被害をまき散らす違法な飛行訓練の差止は認められないのです。日本の空で米軍はやりたい放題というわけです。ちなみに米軍機による爆音被害で日本政府が住民に支払う損害賠償金も地位協定上は米国が支払うべきものですが、これまでのものも米国は事実上支払いを拒否しており、私たちの税金が使われています。
米国の前では、
主権国家としての主体性がない日本
このシンポジウムでよくわかったことは、繰り返される米兵による凶悪犯罪を自由に捜査することも許さない地位協定も、原子力空母の安全性についても、そして岩国の艦載機の移転や全国の爆音被害についても、日本政府は米国の言いなりで主権国家としての主体性がまったくないということです。米国からもらったデータをそのまま鵜呑みにして主張するだけで、当事者として交渉できるだけの能力がありません。
明治時代の日本政府は列強諸国から押し付けられた不平等条約を恥じました。そして条約改正のために懸命に努力し、粘り強く交渉を続けました。屈辱的なほどの対米従属を続ける今の日本の姿は当時の政治家や外交官の目にどう写るのでしょうか。
米国の前では「最高独立性としての主権」はかすんでしまいます。ですが、それは私たち国民が「国政の最高決定権としての主権」を主体的に行使していないからに他なりません。米国に従属する政府、政府に従属する地方自治体、その地方自治の議会や首長に従属する市民。結局は私たち自身の主体性の問題なのです。
再編交付金を自治体にちらつかせて米軍再編に従わせる政府に、自治体はしっかりと対峙して住民の権利と安全を守らなければなりません。そして自治体が中央に抗い、しっかりとその存在意義を示すためには、住民がはっきりとその意思を示す必要があります。主権者たる市民にはそうした力があるはずです。
韓国のキャンドルデモで遭遇した
「主権は私たち国民にあり」
先週、私の主宰する伊藤塾恒例の韓国スタディツアーに行ってきました。いわゆる「従軍慰安婦」のおばあちゃんたちに会ってお話を伺ったり、南北の鉄道がつながり統一の象徴であるトラサン駅に行ったりして、過去と現在の日韓関係を再考するよい機会となりました。ですが、私にとってもっとも衝撃的だったのは、キャンドルデモでした。
当初はキャンドルを持った数人の高校生による米国牛輸入反対集会から始まったものが数万人規模に膨れ上がり、連日、市庁舎前の広場や大統領府へ続く道路を市民が埋め尽くしていました。
大韓民国憲法1条(「大韓民国は民主共和国である。大韓民国の主権は国民にあり、すべての権力は国民から生まれる。」)の歌を歌い、自分たちの主張を堂々と表現する若者たちが数万人も街にくり出しているのです。そして、そうした表現活動を許す政府がすぐ隣の国なのです。単なる民族性の違いでは片付けることのできない民主主義の成熟度の違いを見せつけられた思いでした。
日本も民主主義国であり、主権は国民にあるはずです。そして日本は独立主権国家であり、たとえ米国相手であっても堂々と自国民のために言うべきことは言えるはずです。基地の問題でも、米軍のいいなりになって、米軍にとって居心地のよい日本であってはならないのです。物言う市民、物言う自治体、物言う日本であるべきなのです。それが民主主義に他なりません。
人権は主張してこそ、意味があります。不断の努力によって保持しなければなりません(憲法12条)。主権も同様に私たちが主張しなければ、錆びついてしまい、ただの飾り物になってしまいます。