「法的拘束力」と聞いて、何をイメージするだろうか。
私は、黎明期の住民投票を思い出す。原子力発電所や米軍基地など国策に絡むテーマが投票によって否定されることを恐れた為政者たちが、「法的拘束力はない」と盛んに口にしていた。首長が、さらに政府が、投票結果に縛られる必要はない、という理屈である。沖縄県名護市や神奈川県の旧相模湖町などでは、首長が、示された民意を無視する言動を堂々と取った。
この言葉について考えたのは、官房長官と国土交通相に対する参院の問責決議に法的拘束力がないことを、朝日新聞の社説がことさらに強調していたからだ。曰く、1月7日付では「報復の応酬を超えよう」という見出しで「首相や閣僚に対する問責決議に法的拘束力はない」「問責決議をどう取り扱うべきかは改めて熟慮を要する問題である」と主張。さらに「『問責交代』慣例にするな」と題した1月14日付は、「問責決議に法的拘束力がないことは改めて指摘しておかなければならない」としたうえで、「それが事実上、政治的に閣僚の生殺与奪の権を握るような事態は、衆院の『優越』を定めた憲法の規定を超えている」と説いていた。
いやはや、以前にも当コラムで取り上げたが、これじゃあ菅政権の代弁者だよ。そういえば、1月5日付の社説には「本気ならば応援しよう」なんて間の抜けた見出しが躍り、「政権の真摯な提案には、野党も真摯に応じるべきだ」なぞと書いて平気である。ジャーナリズムの立ち位置として、私だったらこっ恥ずかしいけどな(前回に続いての朝日いじりにお付き合いください)。
読売新聞の社説(1月15日付)が「無論、問責決議に法的拘束力はない。しかし、自民、公明など野党が両氏の更迭を強く要求し、西岡参院議長まで『国を担う資格なし』と仙谷氏の辞任を求めた。24日召集の通常国会が冒頭から動かない事態を避けるには、更迭はやむを得ないだろう」と捉えているのと対照的である。
ところで、住民投票では、条例で首長らに対する「結果の尊重義務」を定めた自治体が多かった。学者の中には、これをもって法的拘束力はあるとする見解も聞かれた。そこまで認めないにしても、少なくとも「政治的な拘束力」があることは間違いない。民主主義は最終的に多数決、というルールからすれば、首長が住民投票の結果に縛られるのは当然の理だ。1996年に原発をテーマに全国最初の住民投票を実施した新潟県巻町(当時)の町長は、「1票でも多い方に従う」と事前に約束し、実際、その通りに行動した。後に続いた自治体でも、ほとんどの首長は住民投票の結果に従っている。
1997年に沖縄・名護市で行われた米軍基地建設を巡る住民投票の直後に、市長が自らの辞職と引き換えに結果を無視して基地受け入れの方針を打ち出した時、朝日新聞はこう書いている。「法的拘束力がないとはいえ、市長に対して『賛否いずれか過半数の意思を尊重する』よう明記した市民投票条例を、みずから否定した。自治体の最高責任者の判断は重い。だが、その重さは、民主主義の適切な手続きを最大限に順守することによってこそ保障されるべきものである」と。法的拘束力があるや否やにかかわらず、何より尊重されるべきは民意だという極めて分かりやすい結論だった。
問責決議も同じことだと思う。たとえ第二院たる参院の決議とはいえ、直近の国政選挙で国民に選ばれた議員の多数意思である。問責決議が法律に基づくものでないにしたって、国民投票が制度化されていない現状においては、イコールそれが民意と認めざるを得ない。政権が尊重するのは当然のことじゃないのか。ちなみに、マスコミが大好きな世論調査をみても、朝日新聞では仙谷官房長官の交代を「評価する」が47%で、「評価しない」の34%を上回っている(読売新聞では「適切だ」が67%、毎日新聞では「評価する」が53%)。
今回の問責決議には、尖閣問題での不適切な対応という、それなりの理由が備わっていた。そもそも、参院の問責決議で大臣を辞任に追い込む手法って、野党時代の民主党が編み出したんでしょ。
問責決議を受けた閣僚を辞めさせるかどうか、責任の取り方にはいろいろあろうが、何らかのけじめをつけるのは当たり前のことだ。結果的に官房長官と国交相を更迭した判断は、至極妥当だったと思う。それにしても、法的拘束力さえなければ多数決=民意を無視し続けてもいいと言っているに等しい朝日新聞の論理って、国民をバカにしていると受けとめられても仕方ないんじゃないかな。
問責決議可決から1カ月半が過ぎ、
1月14日には菅第二次改造内閣が誕生。
たちあがれ日本から転じた与謝野馨経済財政担当相に対し、
野党からは早くも「問責決議を」との声があがっているとも言われます。
皆さんはどう考えますか。