最初に断っておくが、私は捕鯨に賛成である。日本固有の文化と構えるのではなく、純粋にクジラ肉がおいしいからだ。鯨肉を食べてもらおうと普及に取り組む人たちの記事も書いてきた(この手の原稿を出すと、必ず社内から「大丈夫か」といくつも問い合わせが来る。反捕鯨派の抗議が怖いのだ。笑ってしまうが…。ちなみに、抗議は一度として受けたことはない)。
クジラが絶滅の危機に瀕するほど減っているならともかく、そうでないなら、食べたいものを食べる自由はある。食料自給率4割の日本が、タンパク源として、計画的に獲る分には構わないのではないか。誤解を恐れずに言えば、かわいそうだとか、野蛮だとかいう理由で、かつて鯨を乱獲した国々に干渉されるゆえんはない、とは思う。
環境保護団体「グリーンピース・ジャパン」の2人が窃盗と建造物侵入の罪に問われた刑事裁判で、青森地裁は6日、執行猶予の付いた有罪判決を言い渡した。調査捕鯨で獲ったクジラ肉の横領行為を告発するため、運送会社から鯨肉の入った宅配便を持ち去った事件である。
捕鯨に賛成の立場の私からみても、今回の判決、とても残念だ。この事件をめぐる一連の報道は、グリーンピースという反捕鯨団体に対する感情的な反発が先に立っていたが、これは捕鯨の是非に対する司法判断ではない。違法な行為を暴くために、法を侵すことがどこまで許容されるかという点にこそ、注目すべきだった。
グリーンピースが告発した捕鯨船員の「鯨肉横領」は、確かに目に余る。日本を出港する前から、鯨肉持ち帰りの資材を準備し、慣例と称して当たり前のように高価な部位を大量に土産にするのは、許されることではない。市民感覚からすれば、犯罪である。調査捕鯨に多額の国費が投じられていればこそ、疑惑を招かない形で獲ってほしいと切に願う。
被告2人がとった行為が、外形的に窃盗と建造物侵入に当たることに争いはない。しかし、横領疑惑を解明して世間に公表するために、宅配便を入手することは必要だったと思う。船員の自宅に届いてしまってからでは、もはや立証する術がなくなるからだ。ましてや、自分たちが食べたり、他に売ったりするのが目的の「盗み」ではなかった。
それに、調査捕鯨が国策ゆえ、権力側の捜査や調査の腰は極めて重く、マスコミの反応も極めて鈍く、自分たちで証拠を掴むしかなかったという事情は理解できる。判決も「(鯨肉の取り扱いに)一部不明朗な点があったのは確か」「本件の鯨肉の存在を公表したのを契機に、取り扱いが見直された」とまで認定しているのだ。
今回の裁判で、弁護側は「外形的に違法行為であっても、その行為がもたらした公共の利益が違法性と比べて大きい場合には、いくつかの条件下で違法行為を罰しないことが認められる」と主張した。表現の自由や知る権利を根拠に、ヨーロッパ人権裁判所などで積み上げられてきた判例だそうだ(詳しくは『刑罰に脅かされる表現の自由』〈現代人文社〉)。判決では退けられたが、特に権力側の不正が闇に葬られないために、日本でも必要な法理ではないだろうか。
判決翌日の朝日新聞朝刊(9月7日付・社会面)が「『公益のための触法』許される余地は?」と題するサイド記事を載せている(朝日にしては久々に視点の光る好記事)。「司法判断とは角度を変えて」と前置きは付いているが、政治哲学者による「形式的に有罪でも正義にかなう、ということはあり得る」「問題となった行動が本当に正義であれば、起訴をしないという選択肢もある」との問題提起に耳を傾けたい。
事はここにとどまらない。マスコミの調査報道の途上で起きた事件だったら、どうだっただろう? そういえば、40年前には「西山記者事件」もあった。
記者が日常の取材活動で、警察官や役人からネタを取ることだって、厳密に言えば公務員法違反の教唆である。向き合う不正が大きければ大きいほど、多少の「無理」をしなければ暴くことはできないのも事実だ。もちろん、最初からそんな言い訳をしないのがプロではあるのだが、結果として法を踏み越えてしまっていることは、しばしばある。相手が権力者であればなおさら、不正に迫る手段は限られる。
今の時代、権力側はジャーナリズムだからと言って、良くも悪くも特別扱いはしない。自分たちに都合の悪い話を掘ろうとする記者には、あらゆる手段を使って妨害にかかるだろう。今回の判決が応用されれば、取材にあたった記者も皆、有罪である。それで喜ぶのは誰か。マスコミは「自分の問題」として向き合わなければならない。
「捕鯨」の切り口でとらえられがちだった今回の裁判ですが、
実はそこで問われていたのは、
私たちの「知る権利」や「表現の自由」でした。
ちなみに、有罪判決を出した青森地裁の小川賢司裁判長は、
東京・立川市の反戦ビラ配布事件において、
高裁で有罪判決が出された際の裁判官の1人だったとか。
被告2人は、即日で控訴。今後の動きにも注目です。