夏の高校野球が、ようやく終わった。7月からの2カ月間、全国紙の、特に地方版を見る気にならない読者も多かったのではないか。
スポーツ面ならともかく、地方版であれだけ高校野球の記事を垂れ流され、その分、身近なニュースを切り捨てられたら、そう感じるのは仕方ない。高校野球に興味のある読者ばかりではあるまいし、むしろ、問題意識のかけらもない紙面を、よく我慢して購読していただいていると思う。
全国紙の地方版の高校野球報道は、ここ数年、ますます幅を利かせている。そこには、今の経済情勢の下で、全国紙が抱える事情が反映している。
根本的な原因は、記者の採用抑制である。会社によっては、この1、2年だけみても半減だ。採用数がほぼ一定だった頃は、新人記者と入れ替わりに、入社から5、6年間を地方で過ごした若手を本社に異動させることができた。しかし、これだけ減るとそうはいかない。
ある新聞社は、40代以上のベテランに白羽の矢を立てた。新人が減った分、この年代が地方に行くのだ。本社のリストラで人員が余るからちょうど良い、という側面もあるらしい。同社記者から聞いた話だと、大都市の生活に慣れると転勤をしたがらない記者が多いので、「定年までに通算10年以上を地方で勤務する」なんてルールまで作ったという。もっとも、例外がいろいろあって、不満も出ているらしいけど。
それはさておき、地方にベテランが増えると、全般に取材の機動力や瞬発力が落ちるのは必然である。デスクからしても年長だから、20代の新人に対するように「何でもかんでも取材してこい」というような指示は出せない。しかし、紙面の面積は減らない。記者の人数も増えることはない。何とかして、記事の量を確保しなければ。
そこで、高校野球が重宝されるわけだ。試合さえあれば、あれやこれやで記事はいろいろと書ける。写真も大ぶりに扱える。何人かの担当記者を配置するだけで、社会の動きが鈍って記事が薄くなりがちな夏場を乗り切れるのだ。地区大会の間はもちろん、甲子園に舞台が移ってからも地元代表校の記事である限りは、立派な「地元ニュース」である。これはありがたい。大政翼賛的な高校野球礼賛報道でも、背に腹は代えられない……。
高校野球だけではない。前出の記者によると、この新聞社では各県の地方版で記事の「乗り入れ」を進めているという。例えば、秋田版に載った、少しでも東京の地名が出てくるような記事を、東京版でも使う、といった具合だ。
それもこれも「省力化」のためである。記事乗り入れ専従の部長まで置いてピント外れのアイデアを繰り出しているそうで、現場は従わざるを得ない仕組みらしい。そういえば、最近、この新聞の東京版で東北の観光PRみたいな記事を何度か見かけ、強い違和感を抱いたことを思い出した。
そもそも、全国紙の地方版って何のためにあるんだろうか。地元紙には書けない、良い意味でのヨソ者の視点で、その地域のおかしなことを指摘したり、市民の取り組みを応援したりするため、なんじゃないんだろうか。それから、きめ細かい生活情報だ。育児休業に入ったキャリア女性から「地方版のありがたみを初めて実感した」と聞いたことがある。
深刻なのは、全国紙が目下の状況を読者に対してきちんと説明せず、いい加減な「地元ニュース」でごまかそうとしていることだ。自前で十分な取材網を確保できないのなら、紙面の量を減らしたうえで、増えたベテラン記者を活用し、深みやこだわりのある記事で勝負するのも一案だろう。生活情報の量を確保するのなら、地方紙と提携するとか、毎日新聞のように通信社に加盟するとか、工夫の余地はあるはずだ。高校野球や観光PRの記事で紙面を「埋める」なんていうのは本末転倒、読者をバカにした話である。
沖縄では、全国紙は「本土紙」と呼ばれる。沖縄の地方版のページがなく、東京や福岡の紙面を運んで配っているだけだからだ。本土でも、いっそ「大都市圏紙」と開き直ってはどうか。どうせ地方に十分な態勢構築や目配りができないのだから、その方がよほどすっきりする。
地元の選手たちの活躍ぶりが知れるのは嬉しい、という人も、
もちろんたくさんいることでしょう。
しかし、それが他の重要なニュースを犠牲にした、
「省力化」のための記事だとしたなら…。
新聞は、メディアは何のためにあるのか。
原点に立ち返って考えるべきでは?