芳地隆之(ほうち たかゆき)1962年東京生まれ。大学卒業後、会社勤めを経て、東ベルリン(当時)に留学。東欧の激変、ベルリンの壁崩壊、ソ連解体などに遭遇する。 帰国後はシンクタンクの調査マン。 著書に『ぼくたちは革命の中にいた』(朝日新聞社) 『ハルビン学院と満洲国』(新潮社)、『満州の情報基地ハルビン学院』(新潮社)など。
●大国でないことのメリット
「戦時中、ケーニヒスベルクには30万人のドイツ人が住んでいました。ヒトラーはケーニヒスベルクをソ連軍の攻撃に対する“要塞”とみなして、同地の兵士だけでなく、民間人にも同地を去ることを禁じました。結果、兵士をはじめ成年男子は多くは戦死し、戦後、ケーニヒスベルクに残されたのは10万人の子供、女性、老人たちだけ。しかも、うち8万人はその後、伝染病、飢餓、ソ連軍の暴行などで亡くなりました」
先日、モスクワにあるドイツ商工会議所を訪問した。そこに勤めるドイツ人職員から「ロシア市場に進出しているドイツ企業に同会議所がどのようなサポートをしているか」についてヒアリングするのが目的であったが、最後の雑談で話題が「領土問題」になった。私は前月のメドベージェフ・ロシア大統領が北方領土のひとつ、国後島を訪問したことを念頭に話を聞いていた。
ケーニヒスベルクはドイツの東プロイセンに属した都市である。ドイツを代表する哲学者、イマヌエル・カントは1724年に生まれ1804年に亡くなるまで、生涯のほとんどをこの地で過ごした。しかし、第2次世界大戦におけるドイツの敗戦後、ケーニヒスベルクはソ連に割譲される。1946年6月には「カリーニングラード」と名称を変え、残っていた2万人は1948年までにドイツへ移送された。
「現在、“ケーニヒスベルクを返せ”というドイツ人はほとんどいません。私たちはドイツ統一がいかにお金のかかる事業かを知りました。現在、ロシア人が住んでいるカリーニングラードを再びドイツ領にする場合、どれだけのコストがかかるか? 通信や移動の手段がこれだけ発達した現在、領土という概念は国民の精神的、心理的な部分では大切かもしれませんが、経済的には重要性を失いつつあると思います」
カリーニングラードは現在、ポーランドおよびリトアニアと国境を接するロシアの飛び地となっている。
「広大な領土をもっていないドイツや日本は、とてつもなく長い道路を建設したり、数千キロメートルに及ぶケーブルを設置したりする必要はありません。これは国家運営上の利点ではないでしょうか」と彼は続けた。大国は、自らの領土拡張の歴史を正当化するあまり、国土を巡る問題について他国から批判を受けると過剰な反応をすることがある。図体が大きくなればなるほど、その維持のための負担が増やしていく。そんなジレンマもあるだろう。
一方、ドイツと同様、日本は朝鮮半島や台湾、千島・樺太など海外にもっていた領土の大半を失った。だが、もしあのまま植民地や傀儡国家を日本が抱え続けていたらどうなっていただろう? 日本は経済的に破綻したのではないだろうか。
だから北方領土はロシアに譲ればと言っているのではない。ただ、ソ連領となったカリーニングラードで現在、340社ものドイツ企業が活動していることと、ロシア政府が独自で開発を進める北方領土の現状を比較し、そのあまりの落差に愕然としてしまうのである。
モスクワの新しいビジネス街「モスクワシティ」に建設中の高層ビル群。欧州最大の人口1,000万人強を有するロシアの首都は日々、変貌をとげている。
●顔が見えない日本
日本企業の意思決定の遅さはロシア企業からよく指摘されるところだ。そんな話もドイツ商工会議所で交わした。あるプロジェクト案件への参入をするのか、しないのか? その回答がなかなか得られないことにフラストレーションをためるロシアの経営者は少なくないが、「日本企業が物事の決定に時間はかかるのは長期的な視点に立って考えるからであり、いざ相手国への進出が決まれば、安易に撤退することなく、辛抱強いビジネスを展開する」との私の意見に、彼も「ドイツ企業も同じ」とうなずいた。
ただし、ロシア側に言わせると、日本企業とのビジネスで生じる問題は、決定するまでに時間がかかることよりも、そのプロセスの不透明なところにあるらしい。
日本の大企業の決定プロセスは現場の人間から管理職、経営者へと稟議を図っていくボトムアップ型が多い。それ自体は悪いことではないが、社長が決断し、社員に方針を示すトップダウン型が多いロシア企業には、「ロシアに来る日本企業の担当者と話し合っても、最後は『本社に問い合わせてから』との返事になる。いったい決定権をもっている人間は誰なのか」がわからないというのである。
日本側のカウンターパートが誰なのか? これはビジネスに限った話ではない。北方領土を巡る交渉においても、ロシアにとって日本政府の言動はしばしば不可解に映る。元外務省条約局長の東郷和彦氏は『朝日新聞』のインタビューにおいて次のように語っている。
「昨年9月の鳩山由紀夫前首相とメドベージェフ大統領の初会談は、非常にうまくいった。11月15日にはメドベージェフ大統領はシンガポールでの日ロ首脳会談で、北方領土問題を『鳩山政権の間にぜひ前進させたい』と踏み込んだ。(略)ところがこの1週間後、政府は、ロシアが北方領土を『不法に占拠している』と明記した答弁書を閣議決定した」(2010年11月11日付)。
その一言でそれまでの交渉の機運は雲散霧消した。東郷氏によれば、麻生政権時代にも同じようなことが起こっていたそうで、ロシアが「もう日本側は交渉をまとめる意志がない」受け止めたことが、11月のメドベージェフ大統領の国後訪問につながったのだという。
土壇場になって方針が180度変わるのは、国内で影響力をもつ勢力の「ロシアに妥協している」「毅然とした態度をとれ」といった声に屈してしまうためだろう。私たちは何度、これらの勇ましい発言を聞かされ、その都度、無力感に苛まれてきたことか。これらの発言は北方領土問題解決のためのロードマップを示すような類のものではない。毅然とすることが外交の目的であるかのような言動に過ぎないのである。
ロシア極東の都市、ウラジオストクの中心部。道路を走る乗用車の9割は右ハンドルの日本製中古車である。市民の「メイド・イン・ジャパン」に対する評価は高く、対日感情もとてもよい。
●タフな交渉が求められる時代に
話を在モスクワ・ドイツ商工会議所に戻そう。ドイツは長年、ロシアにとって最大の貿易相手国であった。ところが2009年はトップの座を中国に奪われた。
「(前年)秋の世界同時不況によって、ドイツの対ロ輸出が激減する一方、中国のそれは比較的軽微で済んだ」からである。中ロ両国の政治および経済面での結びつきは年々強くなっており、メドベージェフの国後島訪問は、日中の対立を見て、強気に出たとの論評が出たほどだ。しかし、それはあまりにわかり易すぎるコメントといわざるをえない。
日本の海上保安庁による違法操業の中国漁船船長の拘束が尖閣諸島の領有権の問題に発展した際、日本政府の対応ぶりは、政権内の誰が対中交渉役となっているのか? もしかしたら中国との窓口となる交渉役はいないのではないか? といった疑問を抱かせるようなものだった。もし日本側のカウンターパートが明確であれば、その後、うやむやのまま船長を釈放することも、海上保安庁の人間が尖閣諸島沖で中国漁船が海保の巡視船に衝突する映像をネット上に流すこともなかっただろう。問題がこじれた原因の多くは「顔の見えない日本」にあったのであり、メドベージェフ大統領もまた交渉相手の見えない日本にしびれを切らして国後島を訪問したと思うのである。
自らが他国からどう見られているかを自覚せず、ロシア、中国の圧力に対抗するために日米同盟の強化をうたえば、日本は世界からますます顔の見えない、アメリカに寄り添った国とのイメージをもたれるだろう。クリントン国務長官は日本政府高官に「尖閣諸島が日米安保条約第5条の対日貿易義務の下に入る」と発言したという。日本政府は国務長官から言質をとったことを自賛しているようだが、仮にアメリカがロシアや中国を仮想敵国とみなしているとして、アメリカに尖閣諸島の領有権を巡る日中間の対立に軍事介入する気があるとも、日米安保条約の存在が中国を譲歩させるとも思えない。
北朝鮮情勢に関して、菅直人首相は朝鮮半島有事の際に韓国軍との協力下での自衛隊による邦人救出に言及し、韓国政府にやんわり断られた。こうした発言は外交で八方手を尽くした後で出るものである。自衛隊派遣の可能性に言及するよりもまず、北朝鮮に日本政府の特使を送るといったことを検討すべきだと思うが、実際に何らかの働きかけをしたのだろうか。アメリカからはニューメキシコ州のビル・リチャードソン知事が同国を訪問しているが。
アメリカの後ろ盾をもって外交をする時代は終わった。「石にかじりついても頑張る」所存の菅首相には、ぜひとも腹を据えて周辺国とのタフな交渉に臨んでほしい。
中朝ロ3国間国境(川を挟んで左側遠方がロシア、川の右岸が北朝鮮、白い監視塔から手前が中国)。写真奥に見えるのは日本海。戦後はすっかり遠くなってしまったが、今後、日本はこれら3国により密接に関わっていかざるをえなくなるだろう。