法律上は新たな申立てを追加したに過ぎないかもしれない。しかし、そこに盛り込まれた事実を見れば、この事件の本質が浮き彫りになり、決して看過できない内容であると多くの人たちが改めて感じるに違いない。
1966年に静岡県で一家4人が殺害された「袴田事件」。静岡地裁の再審(裁判のやり直し)開始決定により、死刑判決が確定していた元プロボクサー・袴田巖さん(80歳)が釈放されて、もうすぐ3年になる。検察が即時抗告したため東京高裁(大島隆明裁判長)で続いている再審請求審へ、袴田さんの弁護団は12月21日、事件の捜査段階で警察官の「職務犯罪」があったことを請求理由に加える申立書を提出した。
刑事訴訟法435条は、再審を請求することができる理由を挙げている。7号には「警察官がその事件について職務に関する罪を犯したことが証明された時」との規定が含まれており、新たにその適用を求めたのだ。これまでは「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見した時」との6号に基づいて再審を請求し、静岡地裁も弁護団のDNA鑑定や味噌漬け実験の結果が「新規・明白な証拠」にあたると認定して再審開始決定を出していた。
追加申立てをした理由について、西嶋勝彦・弁護団長は記者会見で「この事件の捜査が犯罪のオンパレードだと裁判所と世間にわかってもらうため。それに、高裁での審理に時間がかかりすぎているので、6号以外の要件でも再審開始の結論が出ることを主張するため」と説明した。
今回の申立ての端緒は、警察での袴田さんの取調べの様子を録音したテープである。東京高裁での審理が始まって間もない2014年10月に静岡県警清水警察署の倉庫で見つかり、翌1月に弁護団に証拠開示された。計約48時間分あり、その内容を解析すると、それまで明らかになっていなかった重大な違法捜査が浮き彫りになったのだ。
今回の追加申立ては、主にその内容に拠っている。申立書で取り上げた警察官の「職務犯罪」は3つだ。
1つは、取調べ中の小便である。
袴田さんが逮捕されて18日目の1966年9月4日のこと。取調べのテープには、袴田さんが「小便に行きたい」と訴えるのに続いて、次のような警察官の声が録音されている。
警部M「小便に行くまでの間に、イエスかノーか、話してみなさい」
警部補I「その前に返事してごらん」
M「本当の気持ちを言ってみなさい」
I「お前、やったことに間違いないな」
M「言えなきゃ、頭だけ下げなさい」
小便に行かせないまま、袴田さんに自白を求めるやり取りが続く。袴田さんが尿意を訴えて約5分後にIが「警部さん、トイレ行ってきますから」と告げると、Mの「便器もらってきて。ここでやらせればいいから」という声が入る。そして、取調室に便器が持ち込まれ、袴田さんが小便をする音に続いて、Iの「蓋をしておけ」という声と、便器の蓋が閉まる音が録音されていた。
便器持ち込みについては、死刑判決が出た静岡地裁の公判で、証人尋問を受けたMとIが問われている。2人は「取調室の外の廊下に報道陣が詰めており、トイレに行く時に写真を撮られるのを嫌った袴田さんが便器の持ち込みを希望した」と証言していた。また、取調室の中についたてを置き、袴田さんはその陰で放尿したと説明していた。
しかし、テープには袴田さんが便器の持ち込みを希望するシーンはなく、ついたての設置をうかがわせる音声も入っていない。袴田さん自身、法廷で、自ら便器の持ち込みを希望したのではと尋ねられ、きっぱりと否定していた。録音テープによって、便器の持ち込みは取調官の指示だったことがはっきりした。
こうしたことから弁護団は今回の申立てで、MとIが取調室に便器を持ち込んで警察官の面前で袴田さんに放尿させたことはプライバシーや個人の尊厳を侵しており、また、袴田さんに小便をさせずに自白を求めたことで身体的、心理的な苦痛を与えたとして、特別公務員暴行陵虐罪が成立すると主張している。また、2人の法廷での証言について、偽証罪にあたると指摘した。
袴田さんは、この2日後の9月6日に犯行を「自白」する。取調室で小便をさせたり小便に行かせなかったりしたことに象徴される身体や精神にダメージを与える取調べが、その原因になったことは想像に難くない。袴田さんは公判で否認に転ずるも、最後まで「自白」が不利に作用して死刑判決の確定に至ってしまう。
2つ目は、袴田さんと弁護士との接見(面会)の様子が「盗聴」されていたことだ。
取調べテープには、逮捕されて5日目の8月22日に、袴田さんが弁護士と清水警察署で初めて接見した際のやり取りが入っていた。袴田さんが、逮捕当時に犯行着衣とされていたパジャマを挙げて「パジャマに血が付いていると言われても、わからないんですよ」と戸惑いながら無実を訴えている様子が確認できるという(袴田事件の接見盗聴については、こちらの記事もご参照ください)。
弁護団は、刑事訴訟法が保障する「秘密交通権」~容疑者が警察官の立ち合いなしで弁護士と接見できる権利~を明らかに侵しており、取調主任官だったMと、取調べに当たっていたIが、少なくとも盗聴を了解していたことは間違いないとして、公務員職権濫用罪が成立すると主張している。また、Mは公判で接見の盗聴を否定する証言をしており、偽証罪に該当すると指摘した。
3つ目は、死刑判決が袴田さんの犯行着衣と認定した「5点の衣類」のズボンをめぐる問題だ。
袴田さんが法廷でこのズボンを穿く実験をしたところ、小さくて入らなかったことはよく知られている。しかし検察は、ズボンが長期間、味噌タンクで味噌に漬かった後で乾燥したために縮んだと立論し、タグに記された「B」がサイズを示すことをその根拠とした。裁判所も受け入れ、5点の衣類が袴田さんのものだと結論づける拠り所にされた。
しかし、再審請求審で証拠開示された捜査報告書などによって、「B」がサイズではなく「色」を示していることが明らかになった。ズボンはもともと袴田さんには穿けない小さいサイズだったのだ。しかも警察は、5点の衣類が発見された数日後には、ズボンメーカーから「Bは色を示す」と聞いていた。
弁護団は今回の申立てで、ズボンの実況見分調書を作成したH警部補が、タグの「B」の欄の左側の文字が判読できないにもかかわらず、場合によっては捜査情報で実際には「色」を指すと知っていたにもかかわらず、調書に勝手に「型」と記載したと指摘。この行為が有印虚偽公文書作成・同行使罪に該当する、と主張している。
で、これら3つの行為は刑事訴訟法435条7号の「職務に関する罪」であり、再審請求理由に該当する、と強調した。
ところで、再審請求の即時抗告審で、再審理由や新事実の主張を追加できるかどうかについては、否定した判例があるそうだ。刑事裁判の即時抗告審は「事後審」と呼ばれ、1審と同じように自ら事件を一から審理するのではなく、1審の訴訟記録を基に1審決定の妥当性を事後的に審査するものと位置づけられているためだ。
弁護団は、今回の追加申立てのきっかけとなった取調べ録音テープの開示が即時抗告審になってからだったうえ、抗告審での新事実や新主張の追加を法律は禁止していないと主張している。札幌高裁が今年10月、地裁の決定を覆して7号による再審開始を認めたケースがあるそうだ。
東京高裁での袴田事件の審理の現況にも触れておく。
12月27日に裁判所、検察と弁護団による三者協議が開かれ、高裁が委託したDNA鑑定手法の検証実験について進捗状況が報告された。11月の三者協議で「本実験に入った」とされていたのは誤りで、まだその前の段階の予備実験が終わっていないことが明らかになった。弁護団によると、予備実験がどんな段階なのかや、いつごろ本実験の結果が出そうかは、高裁から伝えられなかったという。
検察の提案に則り、弁護団の反対を押し切る形で裁判所がDNA検証実験を強行してから間もなく1年になり、西嶋弁護団長は「あまりにも遅すぎる。近々に結論が出ないのなら、検証実験の実施の取り消しを求める」と批判した。
当の袴田さんは、姉の秀子さん(83歳)と浜松市で静かな生活を続けている。午前中から夕方近くまで、日課の散歩を欠かさない。3カ月ほど前から、あくびをするようになったそうだ。秀子さんは「少しずつ緊張がほぐれてきている」とみている。
三者協議後の記者会見で、秀子さんは「40何年待ったのだから、3年や5年、どうということはありません」と気丈に語った。しかし、事件発生から50年を過ぎて袴田さんは80歳になり、いつまでも元気で暮らせるとは限らない。東京高裁の責任は重い。DNA検証実験が早期に収拾するよう積極的に指揮し、今回の「職務犯罪」の申立てにも真摯に対応して、少しでも早く決定を出すように努めるべきだ。
来年こそは、再審開始~無罪判決に向けて大きな進展があるよう祈念している。
「3カ月ほど前から、あくびをするようになった」。そんな日常さえも、袴田さんが過ごした半世紀の過酷さを映し出しています。ここまで、次々に明らかになってきた取り調べ過程や有罪判決の根拠の「おかしさ」。姉の秀子さんの気丈な言葉はさておき、40何年が経過したからこそ、一刻も早く再審を開始し、事態を前に進めるべきではないのでしょうか。