検察という組織はどっしりと構えていて、社会正義の機微に触れる場面に直面してこそ、やおら行動を起こして存在感を発揮すると思い込んでいたのだが、どうやら買いかぶりだったようである。ムキになって手当たり次第に策を弄そうとする姿は可笑しくさえあるが、温かく見守るわけにもいかない。ことは死刑事件。執行につながってしまうからだ。
50年前の1966年に静岡県清水市で一家4人が殺害された「袴田事件」のことは、当コラムで何度も取り上げてきた。死刑判決が確定していた元プロボクサー・袴田巖さん(80)は、2014年3月に静岡地裁で再審開始決定を受けて釈放された。だが、検察が決定を不服として即時抗告したため、依然、再審を始めるかどうかの審理が東京高裁(大島隆明裁判長)で続いていることも、何度も紹介してきた。
その審理の中で、またしても驚かされる検察の動きが明らかになったので報告する。
おさらいになるが、この事件で静岡地裁の再審開始決定が認めた新証拠は2つあった。そのうちの1つが、犯行着衣とされていた「5点の衣類」に付いた血痕のDNA鑑定結果だった。袴田さんのものとされていた血痕が別人のもので、返り血とされていた血痕からは「被害者の血液は確認できない」とする法医学者・H氏の鑑定が採用され、死刑判決を覆す大きな拠り所となった。決定は、5点の衣類が警察によって「捏造」された疑いを指摘した。
このため東京高裁の即時抗告審で、検察はH氏の鑑定を否定しようと躍起になってきた。
検察は、皮脂や汗、唾液などが混じった血痕から血液由来のDNAだけを取り出すH氏の「選択的抽出方法」に対して、「H氏独自の手法で有効性はなく、鑑定結果は信用できない」と主張。この手法の有効性について検証実験をするよう裁判所に要求し、袴田さんの弁護団の猛反発を押し切って認めさせた。法医学者・S氏に委託した検証実験は今年初めに始まり、即時抗告審の最大の焦点になっている。
ところが、そうした主張を展開する一方で、検察は2年間にもわたって、弁護団どころか裁判所にも知らせないままに、密に独自の実験を実施していたのである。しかも、そのためだけに計1.4トンもの味噌を仕込むという、時間だけでなく資金も労力もかけた大がかりな実験だ。
弁護団によると、検察の実験は、法医学者・N氏による意見書が10月19日に提出されて明らかになった。N氏は東京の大学の研究者だが、もともとは警察の科学捜査研究所に勤務しており、検察の依頼を受けて実験に当たった。
N氏の実験は、袴田事件の5点の衣類と同じ条件で~つまり血液の付いた衣類を味噌に1年2カ月漬け込んだ後に~血液のDNAはどのくらい分解されていて、そこからDNA型を検出することができるかどうかを確かめるのが目的だったようだ。
で、N氏は味噌の仕込みから実験を始めている。5点の衣類が発見されたタンクに入っていた味噌を再現するべく、公判記録をもとに大豆や米、塩などを使って14個の容器にそれぞれ約100キロ、計1.4トンの味噌を作った。そして、最大1年2カ月間、人の血液を付けたシャツを漬け込み、実験に使用した。
ちなみに、同様の味噌漬け実験は、静岡地裁での審理の過程で袴田さんの弁護団と支援者が実施している。後述するが、この時の目的は、1年2カ月もの間、味噌に漬かった衣類の染まり具合を見ることだった。
実験を主導して地裁で証人尋問を受けた支援者の山崎俊樹さんによると、約40キロの味噌を仕込むのに材料費だけで20万円ほどかかったそうだ。その経験から、今回のN氏の実験は材料費だけで100万円はくだらないとみている。もちろん鑑定料などは別である。公金を潤沢に費やすことができる組織にしかできない贅沢な実験であることは間違いない。
話は脇道にそれるが、もし東京高裁の審理が短期間で終わっていたら、この実験を検察はどう扱うつもりだったのだろうか。少なくとも1年2カ月はかかる実験だから「結果が出るまで審理を終わらせないでくれ」と裁判所や弁護団にお願いするつもりだったのだろうか。あるいは、実験をしたことすら闇の中に葬り去ってしまうつもりだったのだろうか。多額の公金が無駄になりかねないだけに、どうにも腑に落ちないことは確かだ。
さて、N氏は14個の容器を時間の経過に沿って1つずつ開き、味噌漬けになったシャツの血痕のDNAを抽出して分解度を測り、型判定をした。
その結果、①味噌に漬け込むことによってDNAが分解される、②血痕から抽出されるDNAの量は漬け込む前に比べて大幅に減少する――ことがわかったという。また、味噌から取り出した後もDNAの分解は進むので、5点の衣類の発見から40数年経って行われた地裁段階の鑑定では、DNA型を検出することは「ほぼ不可能」「きわめて困難」と結論づけているそうだ。
要するに、H氏の鑑定は出るはずのないDNA型を検出したもので信用性はない、と言いたいらしい。検察が依頼した実験だから、予想された結果と言えばその通りである。
これに対して袴田さんの弁護団は、11月7日に開かれた高裁、検察との三者協議後の記者会見で、即時抗告から2年半に及ぶ高裁審理で検察がこの実験を話題にもしないまま、いきなり結果を出してきたことに対して、「フェアではない」と不信感をあらわにした。そのうえで西嶋勝彦弁護団長は「意見書には実験の結果が記されているだけで、どういう意味を持つかわからない」と批判した。
この弁護団の受けとめには、簡単な解説が必要だろう。
静岡地裁の再審開始決定がDNA鑑定とともに認定したもう1つの新証拠は、前述した衣類の味噌漬け実験の結果だった。弁護団の実験で1年2カ月間、味噌に漬けた衣類は、生地の色がわからないほど味噌の色にムラなく染まり、付着した血痕が容易に判別できない状態になった。
しかし、発見当時の5点の衣類は血痕が肉眼で識別できる程度にしか染まっておらず、地裁決定は「事件から相当期間経過した後、味噌漬けにされた可能性がある」と述べた。つまり、衣類は1年2カ月も味噌に漬かっていたのではなく、発見から近い時期に味噌タンクに投入された疑いがあると認めたのだ。
この地裁の判断に基づけば、N氏の実験で1年2カ月味噌に漬け込んだ衣類のDNA分解度を調べたことに果たしてどんな意味があるのか、と弁護団が疑問を抱くのは当然に違いない。
この点については、DNA鑑定をしたH氏自身が執筆した雑誌の記事で、鑑定が成功した理由の1つとして「衣類が味噌に漬けられていた期間は大変に短かった可能性がある」ことを挙げている。1年以上も味噌漬けになっていたならば、化学変化を起こしてDNAが壊されていたかもしれないことを、H氏は織り込み済みなのである。
7日の三者協議で検察は弁護団の指摘に応える形で、今回の実験結果を踏まえた主張を新たな意見書にして提出する意向を示したが、その時期は明示しなかったそうだ。
では、今回のN氏の実験が袴田さんの弁護団にとって無益かと言えば、必ずしもそうではない。
弁護団は11月4日に提出した検察宛ての申入書で、N氏が実験で使った味噌やシャツ、撮影したすべての写真とネガ、データを証拠開示するよう求めた。その理由として、N氏の実験が「味噌漬けされた衣類や血痕の色調変化という観点からも十分に検討されるべきである」と記している。
そう、弁護団が実施した味噌漬け実験の結果を補強する材料にならないか、と考えているのだ。
検察はこれまで、弁護団の味噌漬け実験を「恣意的実験」と批判してきた。しかし、N氏の意見書に添付された写真を見た弁護団関係者によると、味噌に漬け込んで1~2カ月経ったシャツは、すでに発見直後の5点の衣類のシャツと同じ程度の染まり具合になっているという。1年2カ月も漬けたものは、満遍なく味噌に色濃く染まっており、血痕をすぐに見分けられるような状態ではないそうだ。
地裁段階での袴田さんの弁護団や支援者の実験と、同様の結果が出ていることになる。
申入書で弁護団は「私人には実施しがたい大規模な実験を、公費を用いて行ったのであるから、これにより得られた結果は、事案の真相の解明という刑事訴訟の目的に資するべく最大限活用すべきである」と強調した。これに対して検察は、地裁段階での弁護団の味噌漬け実験の素材を開示するよう求めてきたそうだ。今さら何を、という以外にない。
それにしても、ここまで見てくると、検察が何のためにN氏に依頼して大がかりな実験を実施したのか、謎は深まるばかりだ。H氏のDNA鑑定の信用性を崩すのが目的だとすれば、この実験には意味を見出しがたい。味噌漬けによる衣類の色合いの変化を確認するためならば、弁護団の実験結果を検証すればそれで済んだからだ。
費用と時間をかけて不可解な実験を行ったとするならば、それが袴田さんの死刑判決を何としても維持せんがためだけであるとするならば、社会正義の観点から到底認めることはできまい。検察には納得のいく説明が求められる。
そして、即時抗告審で検察にこうした姿勢を許している要因の1つに、裁判所の責任があると言わざるを得ない。
大島裁判長は7日の三者協議で、検察が持つこの事件の「証拠リスト」について、開示命令は出さないとの判断を示した。弁護団の求めに強く抵抗する検察の主張を受け入れたのだ(この問題の経緯は拙稿「『証拠漁り』か『証拠隠し』か~袴田事件に見る証拠リスト開示をめぐる攻防」参照)。即時抗告審では、前述したDNA鑑定手法の検証実験を検察の提案に沿う方式で実施することを決めるなど、公正さを疑う訴訟指揮が目につく。
高裁は今回の検察の実験に、くれぐれも中立・公正な立場で向き合ってほしい。まずは弁護団の求めに応じて、N氏の実験の素材や写真データの開示を検察に命じるよう強く望みたい。
時間をかけて、しっかりと調べること自体は、もちろん大切なこと。けれどこの局面になって、意味があるとは思えない実験を、しかもこっそりと進めるというのは、理解に苦しみます。いったい、何のための実験なのか…。なんとか死刑判決を維持ししたまま時間をやり過ごそうという意図だとしたら、到底許されることではありません。