映画、テレビ、舞台と幅広く活躍してきた女優の木内みどりさん。
3・11以降は、脱原発についても積極的に活動しています。
脱原発への思いや憲法のこと、政治や社会参加についてなど、
日々の暮らしや活動のなかで感じていること、気になっていることを
「本音」で綴っていただきます。不定期連載でお届けします。
第38回
わたくし、ただいま「チェ・ゲバラ」に発熱中!
キューバに行ってきました。
31歳のチェ・ゲバラと33歳のフィデル・カストロが起こしたキューバ革命。アメリカ支配からの独立を果たした若きふたりの成功の秘密はなんだったのか。八方塞がりで戦争へと突き進みそうな危機的状況のこのわたしたちの国で、キューバのようにアメリカ支配から独立することはできるのか。10日ほどかけてたくさん勉強してから行きました。
映像では『フィデル・カストロ×キューバ革命』、『モーターサイクル・ダイアリーズ』、『チェ・ゲバラ 伝説になった英雄』、『チェ・ゲバラ 革命への道』、『コマンダンテ』(フィデル・カストロへの30時間インタビュー)、『チェ 39歳 別れの手紙』、書籍では『革命戦争回顧録』…そしてそして、YouTubeで観られるたくさんの記録映像も。キューバ革命のアウトラインは押さえた(つもり)。
東京・成田空港からカナダ・トロントへ。2時間半のトランジットの後、いよいよ、キューバ・ハバナへ。ほとんど1日かけて、やっと、着きました。
飛行機を降りて、通路を歩いて、階段を下りて、イミグレーションを通って、荷物カウンターへ。ところが、ところが、荷物が出てこない。30分経っても1時間経っても出てこない。1時間半経っても出てこない。
なんなの、どうしたっていうの?
係員の事務所の開けっ放しにしたドアの向こう、壁に「チェ・ゲバラ」の写真が掛かっていることに気がついた。あの、有名な有名な写真。世界中のどこの国でも若い男性が憧れる、あの写真。
この写真を目にした時から帰るまで、キューバに滞在した7泊8日の時間で、いったいどれだけの「ゲバラ写真」を見たことでしょう。ま、見飽きないんですけどね。
はい、荷物は、2時間くらいしてからやっと、当たり前のことのように出てきました。待たせたことへのお詫びもインフォメーションも一切、なし。「サービス」の感覚が違う、そう、ここは社会主義国なのでした。
社会主義。教育と医療は無料! 食料も無料に近い値段で配給される、みんな配給カードを持っていて、配給が実施される日にカードを持って行って受け取ってくる。今日は鶏肉の配給、明後日はパンの配給って具合に。
年齢やら妊婦さんとかいろんな状態に合わせてそれぞれ配給の質や量が違うのだそうです。通訳してくれていた方の配給カードを見せてもらいました。
バスの運転をしてくれた人が、お兄さんの農場を見学させてくれました。130町歩あるという広大な土地で、兄弟親戚一族が補い合って農作業。実に豊か。アメリカと国交断絶していた間に有機農業を徹底させてきたので、どこも無農薬。一番大切なのは農業。だから、お医者さんより農家の方が、遥かに収入がいいそうです。
8名のグループで動いていたので、お昼ご飯と夜ご飯は毎回、大きなテーブルでセットメニュー。3回、民営のレストランに行きましたが、それ以外は全て国営のレストラン。どこにでもいて、各テーブルに向かって演奏するミュージシャン達も、国家公務員。
ブエナ・ビスタ・ソーシャルクラブ
革命博物館。ここは2日も3日もかけてゆっくり観たかったけれど、私がいられたのは3時間半。ガイドしてくれる人に予めお願いしたのは「グランマ号で上陸後、籠ったシエラ・マエストラ(マエストラ山脈)での期間、続いてゲリラ戦に突入して『バチスタ政権』を倒し政府を転覆させハバナに凱旋するまでのチェとフィデル(キューバの方々はそう呼びます)のことを知りたいので、そう意識してガイドしてください」。
思わず歓喜の声を上げてしまったのは、これ。
ラジオを放送した器械。彼らが作り放送した番組の名前が「Radio Rebelde」! わたしがこの4月からパーソナリティーをしているのが「自由なラジオ」。
辞書によると「rebelde」は「反乱」で「自由な」は「libertad」。正確にはちょっと違うけれど、意味したいことはほとんど同じ。同じことを志し、同じことを目指していた彼らをかつて生きていた人として実感でき、うれしかった。
革命広場。1959年1月1日、この広場で革命の勝利を喜んだ民衆は100万人という。「その時のキューバの人口はどのくらい?」と質問したら「600万人」との返事。全人口600万人のうち、子どもや家から出られない病気や怪我の人、お年寄りなどをのぞいたら、きっと大人の4分の1くらいの人が集まったのではないかと。つまり人口の25%。
これが日本だったら? 2013年の統計では人口は1億2730万人、その25%だと、約3千182万人。3千182万人が「原発反対!」「戦争反対!」「主権は国民!」と立ち上がったら、日本を変えられる。
どうしたらいいの…。
ずるい者勝ち、嘘つきが勝ちのこの世界を変えたいと思う人は、人口の25%はいると思う。このままでは息苦しい希望のない国になる…と気がついている人は、25%はいると思う。
だから、立ち上がろう! 楽しむだけの人生をちょっと横に置いて、主権を国民の手に取り戻すまでは、立ち上がろう!
と、こう書いていくと「あなた大袈裟ね、本気でそんなことを考えてるの?」と呆れた顔も見えてくるけれど、わたしは本気なんです。本気で思っています。
今までのように集会にも行きます。署名もします。選挙の応援にも行きます。生きている間は自分のできることを続けていきたいと思っています。わたしだってチェ・ゲバラの側で生きているって誇りを持てるように。
ゲバラさんのお宅で
ゲバラを描いたお札
わたしの「ゲバラ熱」を知った通訳のミゲル・バヨナ・アブレウトさんが「みどりさん、わたしが紹介できるから会ってみたら…」と言ってくれました。1959年7月25日、ゲバラが広島を訪問した時、キューバの日本視察団の団長がチェ・ゲバラで、副団長はオマール・フェルナンデス(Omar Felnandez)という人。現在、93歳でお元気だという。
ミゲルさん自身が革命当時14歳の少年ながら、革命分子として騒動の中で殴られたり命の危険を感じたりしたこともあったそう。当時の話などご本人に会って聞ける…とは、いきませんでした。翌日の帰国予定は変更できなかったのです。
通訳のミゲルさん
9月15日に帰国して、その1週間後の22日「さようなら原発 さようなら戦争」の集会に参加していました。ご一緒していた澤地久枝さん、わたしがキューバ帰りと聞いて、「木内さん、次にキューバに行く時は連れていってください。わたし、キューバには行きたいの」と仰いました。83歳の澤地さんが、です。権力に徹底的に抗うことを決めている「本気の人」はカッコいい。しびれました。澤地さんもチェ・ゲバラの側の人です。
集会の後、アーサー・ビナードさんと話しこんだ文化放送報道部の鈴木敏夫さんも筋金入りのゲバラファンと判り、近々「ゲバラについて語り合う晩ごはん」をすることになっています。
わたくし、ただいま「チェ・ゲバラ」に発熱中!
1カ月以上ぶりにコラムを届けてくださった木内さん。キューバでたくさんのヒントと刺激を得てきたようです。ゲバラ氏の広島訪問について触れていますが、1959年にゲバラ氏が来日した際、予定にはなかった広島訪問を本人の強い希望で実現させたと言います。それだけ強いこだわりがあったのでしょう。昨年、54年ぶりにアメリカと国交を回復したキューバ。その今後も、とても気になります。
オマール・フェルナンデスさんにお会いできなかったのは残念でした。中国新聞(1959年7月26日付)によれば、ゲバラ少佐、フェルナンデス大尉とアルスガライ駐日キューバ大使の一行は、原爆慰霊碑に献花し、原爆資料館、原爆病院を訪れた。ゲバラは一時間余り資料館を訪問し、案内役の県庁職員に「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて腹が立たないのか」と強い口調で話しかけたという。『ヒロシマの記録』より
田中郁夫さま
コメント、ありがとうございます。
そうその事実は知っていました。
ゲバラさんはヒロシマ・ナガサキのことは子どもたちに教えるべきだと動いたそうです。
だから今でも教科書に詳細に載ってるそうです。
文化放送報道部の鈴木敏夫さんと「ゲバラのことを語る晩ご飯」をするのですが、
同じくゲバラ熱の高い女性ディレクターさんもさんも参加したいとなり、
それを聞いた詩人のアーサー・ビナードさんも参加となり、
たのしい時間になりそうです。