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二〇一一年三月一五日に宇都宮から避難した後、二〇一六年九月現在に至るまで、私の家族は沖縄に住んでいます。このような事情もあって、私はそれまでまともに考えたこともなかった厳しい沖縄の現実を次第に実感するようになりました。
特に、今年の五月以降に沖縄で起きた二つの事件は、それについて考えるたびに、胸がざわざわするのを抑えられなくなります。
ひとつは、うるま市に住む二十歳の会社員女性が、アメリカ軍の嘉手納基地に勤めていた元海兵隊員の軍属によって暴行殺害され、恩納村の雑木林に死体を遺棄された事件――。
その地域のことは、妻や子どもたちが車で通るので、よくスカイプでも話題にのぼります。犯人が逮捕されたのは五月でしたが、月末に現場近くを妻が通りかかると、たくさんの花束が献花されていた、ということです。
この事件は改めて、自分の身内の人間、つまり義父が、ごく最近までアメリカ軍の軍属であったという事実を、私に突きつけるものでした。その義父の立場のおかげで、私の母も基地の中で仕事を得ていました。そして、彼らがある時期まで通勤していたのが、嘉手納基地でした。
だいぶ前にも触れたことですが、私は次第に、沖縄に関する義父や母の言動に違和感を覚えるようになっていました。ここでは、恩納村で女性の遺体が発見された後、私がすぐに思い出したことに限って書き留めておきます。
あれはたしか、二〇一一年六月の初めだった、と記憶しています。息子のEの出産を間近に控えた妻から、数葉の写真がメール添付の画像で送られてきました。そこに写っていたのは、義父宅の庭で開かれたバーベキュー・パーティーの模様でした。招かれている客が、米軍関係者だということは一目で分かりました。
ずんぐりとした図体。筋肉の内側から生えでたような猪首。こちらに背中を向けながら、基地のスーパーマーケットで買い出しでもしてきたのか、山盛りの肉を頬張る後ろ姿。
別の画像では、その家族とおぼしき影が入り乱れ、ペプシのボトルを傾けたり、ポップコーンの袋に手を突っこんだりしています。その片隅には、大きなお腹をかばうようにさすりながら、所在なさそうにたたずむ私の妻の姿もありました。
写真の端々に、隣近所の平屋づくりの家並みや、その庭に植えられた草木が、何気なく切り取られていました。妻が画像を添付したメールには、こう記されていました。
――撮影はKちゃん。まだ三才なのに、構図がしっかりしてるね。
あれから約五年が経過した二〇一六年五月。私が思い出したのは、これらの画像を受信したときに感じた、なんとも言いようのない居心地の悪さでした。当時はまだうまく表現できなかったその感覚を私なりに言語化してみるなら、次のようになります。
――もしかしたら、私の義父宅の庭と、暴行殺人犯が出入りしていた場所は、「地続き」なのではないか?
写真の中の人々は、ただひとり私の妻を除けば、誰もが陽気にはしゃいでいました。そして、彼らのあっけらかんとしたはしゃぎぶりは、隣近所の家のたたずまいとは、あまりに露骨なコントラストをなしていました。彼らがバーベキューを楽しむガーデンは、G村の住民が静かに送る日常生活の空間にとつぜん穿たれた、大きな穴ぼこのように見えたのです。
――コロニー(植民地)。
あの頃も今も、頭の芯から浸みだしてくるのは、この禍々しい英単語です。ただ、寝ても覚めても家族の避難のことでいっぱいだった時期とは違って、この単語がいまの私に突きつけるのは、本土の人間である私自身の足もとについて、自問せずにはいられなくなるような重い現実です。
東京電力福島第一原発事故が起こり、飛行機に飛び乗り向かった先の沖縄は、その後、母子が生活する場所となることで、「地元」となりました。そこには、心あたたまる人々とのふれあいや安心感があると同時に、「本土」では想像することもできないような、厳しい沖縄の現実がありました。筆者の苦悩を、私たちがどれほど共有できるか、それが問われています。
これに似た事案は本州でも起きてますよね。
沖縄特有ってことはないでしょ。