当事者が若ければ、決定に多少の時間がかかっても支障はないかもしれない。しかし、証人尋問をするよう請求しているのは80歳の死刑囚、証言を求められているのは健康状態に不安がある91歳と75歳の元警察官だ。であれば、急がなければならないのは自明の理だろう。ましてや事件の真相解明につながり得る証人だとすれば、なおさらである。
1966年に静岡県で一家4人が殺害された「袴田事件」は、6月30日で事件発生からちょうど50年になった。死刑が確定しながらも冤罪を訴えてきた元プロボクサー・袴田巖さん(80歳)は、2年余り前に静岡地裁で再審開始決定を受けたものの、検察が即時抗告したため、いまだに再審を始めるかどうかの審理が東京高裁(大島隆明裁判長)で続いている。何度も書いているが、釈放されたとはいえ袴田さんの身分は「確定死刑囚」のままで、選挙権も回復していない。
冒頭の記述について説明しよう。
再審請求審で、袴田さんの弁護団は今年3月、新たに証人2人を尋問するよう裁判所に求めた。事件発生から間もない時期に「5点の衣類」の捜査に携わった静岡県警の元警察官2人である。2人はこれまで法廷で一度も証言しておらず、弁護団は「死刑判決の事実認定が誤っていたことを裏づける有力な証拠になり得る」と主張。「証人尋問の必要はない」とする検察との間で攻防が展開されていた。
念のため触れておくと、5点の衣類とは、事件発生から1年2カ月も経って事件現場そばの味噌工場のタンクから発見された血染めのズボンやシャツなどだ。公判で袴田さんが犯行を否認する中、もとの裁判で袴田さんの犯行着衣と認定され、死刑判決の決め手にされた。これに対して静岡地裁の再審開始決定は、付着した血痕のDNA鑑定結果などをもとにこの認定を覆し、「捜査機関による捏造の可能性」にまで言及している。
で、東京高裁は7月8日に開いた検察、弁護団との三者協議で、2人の元警察官を証人尋問するかどうかの判断を「先送り」する方針を示したのだった。弁護団は記者会見で「遺憾」「残念」とコメントしている。
弁護団が申請した証人は、袴田事件の真相解明にどんなカギを握っているのだろうか。
2人のうちの1人、男性Aさん(75歳)は、事件現場を所管する清水警察署の署員だった。事件発生の4日後、のちに5点の衣類が発見される味噌タンクの捜索に当たった。
これまで弁護団に「味噌が底部にしか入っていない味噌タンクについて、内部にハシゴをかけ、自分自身がハシゴを伝って、棒のようなものを使用して、味噌の内部に何か隠されているものがないか確認をしたところ、何も発見できなかった」と説明しているという。当時このタンクに入っていた味噌の量は80キロで、タンクの容量を勘案すると、平らにならせば深さ1.5センチにしかならない。
Aさんは、捜索の1年2カ月後に麻袋に入った5点の衣類が見つかったことに対し、「当時、麻袋が味噌の中に隠されていたなどとは考えられない」と話したそうだ。弁護団は「事件発生直後に犯人が麻袋をタンクに隠したとの死刑判決の認定が誤っていたことを裏づける」と主張している。
もう1人の男性Bさん(91歳)は、殺人事件などを担当する県警本部捜査1課に所属。5点の衣類が発見された12日後に袴田さんの実家の捜索を担当し、その1点のズボンと同じ布の端切れをタンスから発見した。この端切れが、5点の衣類が袴田さんのものと断定される大きな根拠になった。
Bさんが袴田さんの弁護人や支援者に話したところでは、袴田さんの実家に到着した時には、事件の捜査の中心にいた警察官Xがすでに上がり込んでいた。Xに「タンスの引き出しの中を調べてみてはどうか」と声を掛けられて中を見ると端切れがあったという。Bさんは何の布かわからなかったが、Xが近づいてきて「5点の衣類のズボンの端切れに間違いない」と告げた。端切れが見つかると、開始から30分も経っていないのにXに捜索の終了を指示されたそうだ。
弁護団は「極めて不自然。Xが密かに端切れを持ち込んだ可能性をうかがわせる」とみている。
Aさんが裁判所に対してこの通りの証言をすれば、事件発生直後には5点の衣類は味噌タンクに入っておらず、その後に何者かが仕込んだ可能性が強くなる。袴田さんは逮捕前の早い段階から警察にマークされていて、捜索から逮捕までの1カ月半の間にタンクに投入できた余地はないからだ。
ズボンの端切れについても、Bさんがこの通りの証言をして発見経緯の不自然さが浮き彫りになれば、Xがあらかじめ実家のタンスに入れておいて、捜索で発見されたかのように偽装したとの見立てが現実味を帯びてくる。警察は同じズボンの端切れを、5点の衣類の発見後に製造業者から入手しているが、その後なぜか行方不明になっている。
5点の衣類が捏造だった疑いが、いよいよ強くなるのだ。
これに対して検察は、①県警が作った味噌工場の捜索差押調書には、この味噌タンクの捜索担当者としてAさんの名前はなく、弁護団が聴いたとしている内容を実際にAさんが話したのか極めて疑わしい、②実家の捜索令状を持っていたのはXだったから立ち会うのは当然だし、X作成の調書によると捜索は2時間以上行われ、目的物の一つだったベルトも押収されていて、端切れの発見経緯に不自然な点はない――などと主張。2人を証人尋問すれば「不要かつ多大な負担を強いることになり、著しく不相当だ」と反論した。
弁護団は2人から証人となることの了解を取っているわけではない。とくにBさんは現在、老人福祉施設に入っていることもあり、ここ20年近く詳しい話を聴けていない。Aさんにしても「袴田犯人説を信じている」と語っているそうだし、今年に入って弁護団に「事件に関する説明は打ち切りとさせてください」との手紙を送ってきている。名前が上がったことで、かつての同僚らから「圧力」がかかることも予想される。
証人尋問が実現したとしても、弁護団が想定する通りの証言をしてもらえる保証はない。2人の元警察官の良心に頼るしかない。
それでも弁護団が証人申請したのは、5点の衣類に付いた血痕のDNA鑑定手法が高裁での審理の中心になる中で、この事件にはほかにもたくさんの「疑惑」があることを改めてクローズアップする狙いがある。西嶋勝彦・弁護団長は「2人の証言はDNA鑑定以上に、5点の衣類の捏造を示す有力な証拠となり得る」と強調している。
さて、証人尋問するかどうかの判断を「先送り」した東京高裁は、改めて採否の決定をする時期について、「DNA鑑定手法の検証実験の結果を見たうえで」と述べるだけだったという。検証実験の手続きは今年初めに始まったが、まだ鑑定人の法医学者から高裁に詳しい経過報告はなく、いつ頃までに結果が出るか不明な状況だ。
ここで疑問に感じるのは、元警察官の証人尋問を実施するかどうかが、どうしてDNA検証実験の結果と連動するのか、という点だ。
東京高裁がDNA検証実験の結果だけをもとに、再審を始めるかどうかの決定を出そうとしている、と考えると話はつながってくる。今回の三者協議では、検察の請求していた別の証人尋問や事実調べについても採否の判断を先送りすると表明しており、合わせて推察すれば、高裁がこれ以上の証拠調べをするつもりがないことを示唆している、というわけだ。
ただし、DNA検証実験は検察の主張に沿う方法で実施されていて、その結果は袴田さんに厳しいものになる可能性があることに注意が必要だ。
繰り返すが、袴田事件にはおかしな点がいくつもある。しかも、検察が持っている証拠が開示されるほどに、新たな疑惑が判明している。審理に時間的な制約はあるにせよ、司法が積極的に解明に取り組むべきなのは言うまでもない。
仮に2人の元警察官から弁護団が想定する通りの証言が得られなかったとしても、2人が重要な証人であることに変わりはない。そして、年齢や健康状態を考えると、証言してもらう「最後のチャンス」とも言える。事件の真相究明という観点から、裁判所には早急に証人尋問の実施を決定するよう強く望みたい。
選挙権も回復せず、釈放されたといっても、常に「確定死刑囚」という身分がつきまとうことの重みを感じます。事件発生から50年。「なぜもっと早く」と思うことばかりですが、限られた時間のなかでの、貴重な証人尋問の「先送り」の決定など、時間稼ぎのような判断には疑問をもたずにはいられません。人生がかかっているということの重みを、司法はきちんと受け止めるべきです。この先も、審査の動きに一緒に注目していきたいと思います。