〜「憲法おしゃべりカフェ」で流布されている〜
「緊急事態条項」をめぐる「四つのデマ」を検証
小口幸人(弁護士)
自民党が最近、憲法改正の主要テーマとして掲げている「緊急事態条項の創設」。災害などの「緊急事態」に際して、首相に権限を集中させ、通常なら許されない人権制限なども一部可能にするというものです。今年4月の熊本での大地震の直後にも、菅義偉官房長官が記者会見で「(憲法への緊急事態条項創設は)極めて重く大切な課題だ」と述べるなど、その動きは止まりません。
この緊急事態条項については、法律家を中心に、その強大な権限の濫用への懸念が相次いでいます。しかし、「災害対応のために必要」と言われれば、「少々の我慢は必要なのかも…」とも思ってしまいがち。実際に、政治家の発言だけではなく、憲法改正を訴える集会や勉強会、一部のテレビ番組などでも「東日本大震災のときには、緊急事態条項がないためにさまざまな犠牲が出た」との主張が繰り返されています。
しかし、緊急事態条項に詳しく、東日本大震災発生当時には被災地にいた弁護士の小口幸人さんによれば、この主張、「まったくのデタラメ」なのだそう。具体的にどういうことなのか? 詳しく解説いただきました。「災害対応」という聞こえのいい言葉にだまされないために、必読です!
緊急事態条項をめぐる「四つのデマ」
私も所属する「明日の自由を守る若手弁護士の会(あすわか)」では3年ほど前から、憲法について広く知ってもらうための「憲法カフェ」という勉強会を続けてきました。ところが最近、これと紛らわしい名称の「憲法おしゃべりカフェ」という集いが各地で行われるようになっています。
もちろん、私たちの「憲法カフェ」とはまったくの別物。そして、そこで繰り広げられているのが、「災害が起こったときの被害を小さくするために、憲法に緊急事態条項が必要」という主張です。
その根拠として彼らは、東日本大震災のとき、憲法の緊急事態条項がないために以下のようなことが起こった、と主張しているようです。
1.救助に向かった自衛隊員が、法的な根拠がないために倒壊家屋などに立ち入れず、救助活動に支障をきたした。
2.やはり法的な根拠がないために、津波が去った後に道路に残された多くの車両を移動させることができず、救援物資を積んだ車が通れずに輸送が滞ってしまった。
3.ガソリンの購入を政府が規制できず、首都圏などで買いだめが起こって被災地のガソリンが不足。必要なときに消防車、救急車などの緊急車両が出動できなかった。
4.緊急事態条項がないために、災害関連死が大量に生み出された。
どれも、実際には何の根拠もないまったくのデマなのですが、ちょっと聞いただけでは「そうなの?」と思ってしまう人もいるかもしれません。同じような主張は、憲法学者の百地章日大教授監修の本『まんが 女子の集まる憲法おしゃべりカフェ』や、「世界は変わった 日本の憲法は?」というDVDにも登場します。一つずつ検証してみたいと思います。
-検証1-
「倒壊家屋に立ち入れない」は本当か
これは非常に簡単です。阪神淡路大震災でも東日本大震災でも、自衛隊は倒壊家屋に入って生存者やご遺体を捜索していましたが、あのとき1軒1軒の家屋の持ち主に承諾を取ったと思いますか? 取るわけがないですよね。そのことで何か問題になったなんていう話も、聞いたことがない。「立ち入れない」というのがそもそも嘘だからです。
根拠になるのは災害対策基本法の71条です。都道府県知事は〈災害が発生した場合において、(略)応急措置を実施するため特に必要があると認めるときは〉、職員に〈施設、土地、家屋若しくは物資の所在する場所若しくは物資を保管させる場所に立ち入り検査をさせ〉ることができる、とあります。もちろん、災害で倒壊した家屋の捜索もできます。
-検証2-
「車両を移動させられない」は本当か
これについては、多少議論はありました。まず思い出していただきたいのは、震災のときのガレキです。津波が引いた後、道路の上にあったのは「ガレキ」です。車の残骸や家の残骸もありましたが、およそ元の形をとどめていないものばかりでした。普通に考えれば、避難物資を届けようとするときに、前方に邪魔なガレキがあったら問答無用で動かしますよね。実際に、自衛隊もそうしました。崩れた建物、乗り上げた船、そして津波で潰れた自動車……どれも次々に移動させていって、震災から3〜4日後、3月の15日ごろには、主要な道路はほぼ通れるようになっていたんです。法律的には、政府は道路法42条に基づく「道路の維持管理行為」として除去できる、としています。
ただ、後になって「ほとんど無傷の車や船をどかしていたのは法的に問題なかったのか」という議論が多少出たことは事実です。1件は、国家賠償訴訟にもなりました。すでに片側一車線が空いている道路のもう一車線を、流れてきた船舶がふさいでしまっているという状況で、自衛隊がその船舶を移動させ、しかも一部を損壊させてしまった。この船の持ち主が賠償を求めて訴えたんですが、仙台地裁は「移動は適法である」としてこれを棄却しました。
根拠になったのは災害対策基本法64条です。市町村長は災害時に必要があるときは、〈現場の災害を受けた工作物又は物件で当該応急措置の実施の支障となるものの除去その他必要な措置をとることができる〉とあって、この「工作物」の中に船も含まれる、そしてそれを移動することは「必要な措置」に含まれるとされたんですね。
であれば、自動車の移動も適法だと考えるのが妥当でしょう。実際、東日本大震災の教訓を踏まえた法改正はいくつも行われていますが、「道路上に残された車両の残骸を移動できるようにする」というような法改正はありませんでした。現行法で問題がないと判断されたからです。
ただその後、2014年の豪雪災害では、津波のときのように潰れているわけでもなく、運転者も乗ったままの車両が立ち往生して緊急車両が通行できなくなる、ということがあって。ここで初めて、「東日本大震災のときにも議論があったし、法律に明確に『車両を移動できる』と書き込もう」ということで、災害対策基本法が改正されたんです。新設の76条の6では、道路管理者は〈車両その他の物件が緊急通行車両の通行の妨害となることにより災害応急対策の実施に著しい支障が生じるおそれ〉があるときは、その車両の所有者などに〈緊急通行車両の通行を確保するため必要な措置をとることを命ずる〉ことができ、それができないときには自ら必要な措置をとることもできる、と定められています。
だから、東日本大震災の時点でも法的な問題はなかったし、仮にあったとしてもその後の法改正でより明確に法的根拠が与えられたということになりますから、何の問題もありません。
-検証3-
被災地のガソリン不足の原因は、首都圏の買いだめだったのか
これは、そのとおりだと誤解している人も多いのではないでしょうか。でも、少し調べてみればやはりまったくの嘘だということがすぐに分かります。
たとえば、東北大学の研究者が、東日本大震災の際のロジスティクスについて研究をしています。その報告書では、「被災地でのガソリン不足の原因は消費者の買いだめ行動」だというのは「誤解」で「全くの誤り」だと断言されているんですね。では、本当の原因は何かというと、「供給量の圧倒的な不足」だという。
つまり、東北では震災と津波によって、八戸、塩竃など太平洋沿岸部にあった油槽所が一気に稼働できなくなりました。さらに、当初は道路が寸断されていたので、他の地域からの輸送も難しかったんですね。震災後1週間程度経った頃から、少しずつ運ばれてくるようになりましたが、その頃には被災地の車のガソリンは軒並みすっからかんでしたから、すぐにはガソリン不足は解消されませんでした。太平洋側の油槽所が稼働し、十分な供給ができるようになるまで、厳しい不足状況が続いたんですね。「関東での買い占め」とはまったく関連性がありません。
これだけではありません。石油関連のプロともいえる「石油連盟」(石油精製・元売会社の業界団体)が2011年11月に出した「東日本大震災における石油業界の対応と提言」というレポートでも、教訓として挙げられているのは「サプライチェーンの維持・強化」などであって、「買いだめを防ぐ」などといったことは一切書かれていない。そもそもガソリンって、食料や水と違って買いだめがしにくいですよね。自分の車を満タンにして、あとは携行缶に入れるくらいでしょうか。それに当時、首都圏のガソリンスタンドは、「供給が少ない」というので、20リットル単位などで販売して、満タンにはしてくれないところも多かったはずです。
ということで、「買い占めでガソリンが不足した」も真っ赤な嘘ですね。ちなみに、こんな大変だった東日本大震災のときも、救急車などの消防関係の車両が、ガソリン不足で出動できなかったということは1件もなかったそうです。このことは、国会答弁で明らかになっています。また、東日本大震災の教訓を踏まえて石油会社間でガソリンを融通する協定が結ばれたのですが、熊本地震のときには見事にこれが機能したと聞いています。
-検証4-
震災関連死は、憲法を変えれば防げるのか
僕が一番頭に来ているのはこの項目です。前述の「憲法おしゃべりカフェ」やDVDの「世界は変わった 日本の憲法は?」などでは、「緊急事態条項がなかったために、1632人もの震災関連死が出た」という話をしているのですが、この「1632」という数字は、2012年3月31日、4年以上前の時点での震災関連死者数なんです。もちろんその後にもどんどん震災関連死者は増え続けて、すでに3400人を超えています(2015年9月現在)。つまり、「緊急事態条項がなかったために発生した」といいながら、最新の数さえ調べずに話をしているんですよ。この不真面目さ、不謹慎さにまず驚かされます。
さらに、震災関連死とはどういうものなのかも、彼らはよく分かっていないのではないかと思います。私は災害関連死かどうかを審査する自治体の審査委員会の元委員なのですが、震災関連死というのは本当に幅広いものです。たとえば代表的な例としてはこういうものがあります。
・津波にのまれたものの命は助かったAさん。しかし、そのときに引いた風邪がもとで、翌々日に高熱を出して亡くなった。
・震災前は、自分の足で元気に歩いていた高齢者のBさん。避難所の堅い床の上で寝ていたために腰を痛め、うまく歩けなくなってやがて寝たきりに。そのため身体の調子を崩し、震災から1年後に亡くなった。
こうした死が、憲法改正やそれに基づく迅速な法改正等で救えたというのでしょうか?
あるいは、復興庁の「震災関連死に関する検討会」の報告書には、震災関連死の原因などの内訳が掲載されています。ちょうど、死者数が「1632人」とされていた2012年の調査です。
その中で、非常に特徴的なのが福島の調査結果です。調査の時点で、福島における災害関連死者数は岩手・宮城をあわせた数の倍近くになっているのですが、その「原因」を見てみると、「避難所等における生活の肉体や精神的疲労」「病院の機能停止による初期治療の遅れ」とともに「避難所等への移動中の肉体・精神的疲労」というのが非常に多く、全体の3割くらいなんですね。これは、岩手や宮城にはない特徴です。
つまり、原発事故が起こった後、自治体は避難のためのバスは用意したものの、住民を乗せた後どこへ向かうべきなのかを決められないまま走り出すしかなかった。SPEEDIの情報も公表されておらず、どこが放射能に汚染されているのかまったく分からなかったからです。着いた場所の放射線量が高いことが分かってまた移動して、を繰り返し、4カ所5カ所を転々としたなんていう話はざらにあります。
これも、憲法改正でなんとかなった問題でしょうか? 震災関連死はたしかに重大な問題ですが、緊急事態条項は魔法の杖やドラえもんのポケットではありません。あれば震災関連死を防げたというのは、あまりにもむちゃくちゃです。
憲法改正の前に、
国会の責任を問うべきでは?
そもそも、東日本大震災当時、国会は開いていてきちんと機能していました。自民党の緊急事態条項というのは、要するに迅速に立法や法改正をするための制度ですが、もし当時の国会が必要な立法や法改正をしなくて大きな被害を生み出したというのなら大問題です。当時の与党だった民主党や、最大与党だった自民党には大きな責任があるはずですが、そんな話は聞いたことがないですよね。
実際には、震災が起きた2011年3月中に震災の関係でできた法律はたった二つしかありません。それは、選挙の延期に関する法律と、国会議員の歳費を減額して震災復興にあてるというものです。被災者の命を救うために、慌てて法律がつくられた、という事実は全くないのです。さらに、当時他に必要な法改正があったかについて、河野太郎防災担当大臣は今年3月、「政府としては必要なかったと認識している」と答弁までしています。想定外の1000年に一度の大津波、そして原発事故でも、被災者の命を守るために新しくつくる必要のある法律はなかった、というのはとても重要な教訓だと思います。
さて、一部の国会議員には、「憲法に緊急事態に関する定めがないから、非常時の法律には違憲の疑いがある。違憲の疑いがあるから使いにくいんだ」という人もいますが、これも憲法や法律の解釈について何もご存じない方の戯れ言としか言いようがありません。「現行憲法のもとで非常時立法ができるか」というのは、国会でも何度も議論されてきた問題です。たとえば1975年の第75回国会ですでに、当時の内閣法制局長官が〈公共の福祉を確保する必要上の合理的な範囲内〉であれば、国民の権利を制限したり、特定の義務を課したりといった措置を取れるということは、現行憲法の下でも考えられる、と述べています。「ギリギリ合憲」と根拠なく言う人もいますが、災害対策基本法の違憲性が争われて、違憲という判決が出たとか、裁判官の間で意見が分かれたとか、そんなことはないわけです。
今年5月、共同通信社は東日本大震災での被災3県(宮城、岩手、福島)の知事と市町村長計42人を対象に「東日本大震災時、緊急事態条項がなく、人命救助の活動に支障があったか」という調査をしました。結果は〈「なかった」41人、「あった」0人、「その他」1人〉です。日弁連が同じように行った「災害対策・対応に憲法は障害になったか」という問いに対する答えは〈「障害にならなかった」23自治体、「なった」1自治体〉でした。1自治体の「なった」という回答はガレキ処理に関するもので、憲法や緊急事態条項の問題ではありませんでしたし、これについてはすでに法改正済みです。
想定外の1000年に一度の大津波と原発事故でも、緊急事態条項は必要なかった、憲法は支障にならなかったというのが揺るぎない真実です。東日本大震災の教訓と憲法を結びつけて、人々の善意をダシに使うのはやめてほしいと思います。
小口幸人(おぐち・ゆきひと)1978年生まれ、東京都町田市出身。中央大学卒業後、電機メーカーのトップセールスマンとなるも、弁護士を志し退社。2008年に弁護士登録、1年4カ月の東京勤務を経て、司法過疎地である岩手県宮古市の「宮古ひまわり基金法律事務所」三代目所長として就任。3年7カ月の間に1000件以上の相談に対応。同地で東日本大震災に遭い、全国初の弁護士による避難所相談を実施。被災者支援・立法提言活動に奔走するとともに、困難な刑事弁護事件も多数扱う。
まもなく参院選。その結果次第では、「改憲」がますます急速に現実味を帯びてくる可能性もあります。そして、そのときに最初のテーマとなるかもしれないのが、この「緊急事態条項の創設」。まるで私たちの生命や安全を守るための、「いいこと」のように宣伝されていますが、果たして本当にそうなのか? 1人でも多くの人に知って、考えてもらいたいと思います。以前に小口さんに「緊急事態条項が不要な理由」についてうかがったインタビューも、ぜひあわせてお読みください。