- 特別企画 -

映画『オマールの壁』が描く
パレスチナのリアル
文・高橋真樹

 壁で分断された町に生きる若者たちの青春を描いた映画、『オマールの壁』が、4月16日から角川シネマ新宿、渋谷アップリンクほか全国で順次公開されている。第86回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたこの映画は、100%パレスチナ資本の映画としては初めてオスカーにノミネートされたハニ・アブ・アサド監督の作品だ(最新作は、『The Idol(Ya Tayr El Tayer)』2015年)。スタッフは全てパレスチナ人、撮影も占領下のパレスチナで行われた、メイド・イン・パレスチナの作品となる。
 物語の舞台は占領下のパレスチナ。巨大な分離壁で閉ざされた町に生きるパン職人のオマール(主人公)は、壁を乗り越えて恋人であるナディアの元を訪れる。しかし抵抗運動に参加したことで、イスラエル兵に拘束され激しい拷問を受ける。さらに一生囚われの身になるか、仲間たちを裏切ってスパイ(イスラエル軍への情報提供者)になるか、というぎりぎりの選択を迫られる。オマールは果たして…。
 というサスペンス映画なのだが、この作品を深く味わうためには「占領」や「分離壁」といった日本に暮らす人には馴染みのない、パレスチナ問題特有の状況を知っておく必要があるだろう。この記事では、パレスチナの現状をリアルに伝えるこの作品の背景を読み解きながら、オマール役を務めた主演俳優アダム・バクリへのインタビューの様子もお届けする。

◆パレスチナ問題のキーワード、「占領」とは?

 「パレスチナ・イスラエル問題」というと、「聖地をめぐる宗教紛争」や「テロと報復攻撃による憎悪の連鎖」というイメージで語られることが多い。しかし、そうしたイメージはいずれも誤っている。今からおよそ120年前に始まったパレスチナ問題は、もともとパレスチナに住んでいた人同士が争っているのではなく、外から持ち込まれた紛争だ。そして、彼らは宗教をめぐって争っているのではなく、土地や水の権利、あるいは人権をめぐって争っている。
 かなり大雑把だが、パレスチナ問題の歴史を説明してみよう。パレスチナの地図を見て欲しい。まずイスラエルという国家がある。その東にある「ヨルダン川西岸地区」と西にある「ガザ地区」の2箇所を合わせたエリアが、現在「パレスチナ」と呼ばれている地域だ。「パレスチナ自治政府」が統治を行い、国際的には国家に準ずる「オブザーバー国家」という扱いを受けている。しかし、1948年にイスラエルが誕生するまでは、歴史的にはイスラエル国家の地域も含めた全体が「パレスチナ」と呼ばれていた。パレスチナの人々の歴史は、土地や権利を奪われ続けてきた歴史とも言える。
 120年ほど前、ヨーロッパのキリスト教社会で迫害を受けていたユダヤ人の一部が、安住の地を求めて「ユダヤ人だけの国を作る」運動を起こす。これを「シオニズム」と呼ぶ。シオニズムを進めるユダヤ人(シオニスト)たちは、パレスチナ人の同意を得ないまま入植活動を始める。当時はオスマン帝国の支配下にあったパレスチナ地域に独立国家はなく、第一次世界大戦後でオスマン帝国が崩壊すると、今度はイギリスの統治領となった。そのイギリス統治下でユダヤ人の入植が本格化し、もともと住んでいたパレスチナ人との間に対立が起きるようになった。

 対立を解消できないイギリスは、第二次世界大戦後にできた国際連合に解決を託す。そして1947年、国連でこの土地をユダヤ人のための「イスラエル」という国と、パレスチナ人のための「パレスチナ」という国の2つに分ける決議案が採択される。
 翌1948年、移住してきたユダヤ系住民を多数派とするイスラエルという国家が誕生すると、それに反対する周囲のアラブ諸国との間で戦争になる(第一次中東戦争)。この戦争にイスラエル側が勝利して、パレスチナ人の多くは故郷を奪われ、難民となった。さらに、1967年の第三次中東戦争ではイスラエルが圧倒的な勝利を収め、「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ地区」をイスラエルが占領下に置く。
 占領とは、ある地域を他の国の人たちが武力などで支配下に置くことを意味する。パレスチナでは、その占領状態が今も続けられている。「パレスチナ自治政府」とは名ばかりで、実際にはほとんどのエリアでイスラエル軍が実効支配を続けている。占領下に暮らす市民は兵士たちに監視され、すべて軍隊の都合に合わせて生活をしなければならない。そこでは、この映画に描かれているように、地味で見えにくい暴力が横行している。占領が始まってから来年(2017年)で50年になるが、パレスチナ人はその間ずっと締め付けられるような閉塞感を味わってきた。
 「パレスチナとイスラエルの紛争」と聞くと、武器を持った両者が闘争しているというイメージがつきものだ。しかしそのようなことが起きているのはほんの一部で、ほとんどの場合、ごく普通の暮らしをしている一般市民(パレスチナ人)をイスラエル軍が圧倒的な武力でねじ伏せている。それに対して、一部の若者が反発して抵抗すると「テロリスト」として扱われてしまう。そんなことが繰り返されてきた。

◆人と人とを分断する巨大な「分離壁」

 占領のシンボルとなっているのが、『オマールの壁』のタイトルにもなっている「分離壁」だ。分離壁は、イスラエル政府が2002年からヨルダン川西岸地区のパレスチナ人居住区の周囲に築いてきた。壁の全長は700キロメートルにも及び、高さ8メートルのコンクリート製の壁に加えて、場所によっては鉄条網や電気柵、ブロック塀などさまざまなスタイルが用意されている。
 イスラエルは分離壁を建設する理由について、「パレスチナのテロリストが、イスラエル側に入るのを防ぐため」と説明するが、実態は違う。イスラエルとパレスチナの土地は、国際的には第一次中東戦争(1948年)の休戦協定で定められた「グリーンライン」と呼ばれる境界線で分けられている。しかし分離壁はその境界に沿って一筆書きで建てられているのではなく、大幅にパレスチナ側に切り込んでいる。自分の住居がぐるりと壁に囲まれて、どこにも行くことができないエリアもある。
 パレスチナ人の生活実態を無視して築かれた分離壁のために、自分の村の半分がイスラエル側に組み込まれ、先祖代々所有してきた家や農地を奪われてしまった人々が続出した。また、生活に使っていた道路が通れなくなったことで、出勤や通学、病院通いなどの移動も困難になった。そしてオマールのように壁を乗り越えようとすると、兵士から銃撃されたり逮捕されたりする。
 この映画では、壁の向こう側の仲間や恋人に会いに行くオマールの姿が幾度となく描かれるが、それは分離壁がパレスチナ側とイスラエル側を隔てて建てられているのではなく、パレスチナ人同士の間も引き裂いているということを暗に示している。
 
 イスラエル政府が壁を築いた真の狙いは、将来パレスチナ国家が独立する場合に備え、できるだけイスラエル側に価値のある土地を組み込んでしまおうという戦略の一環ではないかと考えられている。しかし人類の歴史上、特定の人たちを物理的に閉じ込め、移動の自由を奪う政策は、きわめて重大な人権侵害とされてきた。
 ナチスドイツがユダヤ人を狭いエリアに閉じ込めた「ユダヤ人ゲットー」や、人種差別政策(アパルトヘイト)を進めたかつての南アフリカ政府が黒人を集めて住まわせた「黒人居住区」などもそのひとつだ。そのためパレスチナ人の間で分離壁は、「人種差別の壁」(アパルトヘイトウォール)と呼ばれている。
 2004年には国際司法裁判所(※)が「分離壁は国際法上違法」であるとして、「分離壁の撤去とパレスチナ人への補償」を求める勧告的意見を出したが、イスラエル政府は「テロ対策に必要だ」と猛反発し、今も建設を続けている。分離壁は、占領のシンボルとも呼べる存在になっている。

※国際司法裁判所 オランダのハーグに設置されている国連の主要な司法機関。国家間の法的紛争を解決するために国連とその専門機関に勧告的意見を提出する。

◆50年後には笑い話に

 主人公オマールを演じた主演俳優のアダム・バクリに話を聞いた。この映画が初の主演となるフレッシュなアダムは現在、ニューヨークに拠点を置いて活躍している。「パレスチナ映画の新境地を切り開いたハニ・アブ・アサド監督と仕事をするのが夢だった」と語る彼は、脚本を読んで、占領下でも自分を失わずに生きるオマールの美しい魂に感動したと言う。そして演技の際には、「悩める魂を抱えるオマールの葛藤を忠実に伝えたい」と心がけた。
 アダムにとって特に思い入れのあるシーンがある。終盤に心身に痛みを抱えたオマールが、壁を登れなくなるシーンだ。占領を象徴する高くそびえ立つ分離壁に心が砕かれそうになったオマールに、通りがかりの老人が手を差し伸べる。そして「大丈夫、すべてうまく行く」と勇気づける。アダムは言う。「パレスチナの人々は、何世代にもわたって占領という重荷を背負わされてきました。でも、若い世代が希望を失いそうになった時に、古い世代が希望を与えることが実際にあります。パレスチナの老人と若者との関係を物語るこのシーンに、僕はとても感動しました」。

 「分離壁とは、あなたにとってどのような存在でしょうか?」と尋ねると、アダムはしばらく沈黙してから、こう答えた。「壁はイスラエルが不正に占領を続けているという証明です。また、こんなに巨大で醜い壁が、イスラエルや米国の多くの市民から支持されているという事実には驚くばかりです」
 そして最後にこう付け加えた。「僕が望んでいるのは、しばらく経って分離壁がなくなることです。そして50年後くらいのイスラエルで、『俺たちは21世紀にもなって、なんてバカなことをしたんだろう!』と教訓にしたり、笑い話にできるような時代が来ることです」
 実際、20世紀に行われた南アフリカのアパルトヘイトや、東西ドイツを分断したベルリンの壁は、現在では二度と繰り返してはならない愚かな政策の象徴とされている。分離壁もいつかその仲間入りをする日が来るだろうか?
 改めて思うのは、この紛争が「パレスチナ対イスラエル」の戦いではないということだ。普通に暮らしていきたい人々をここまで追い詰める占領という愚行を、世界が黙認し続けるのかどうか、そういう問題だ。『オマールの壁』のような普遍的な人間の愛や友情の物語を届ける映画が、世界中の人々の心を動かすことで、分離壁や占領という重大な人権侵害を過去のものにする力になっていくかもしれない。

◆イスラエル国籍のパレスチナ人

 映画では触れられてはいないが、オマールを演じたアダム・バクリは、イスラエル国籍を持つパレスチナ人だ。占領下に置かれてはいないものの、彼らもまた、独特の痛みを背負わされて生きている。最後にそのことにも触れておきたい。
 「ユダヤ人国家」を標榜するイスラエルだが、その国内にはイスラエル国籍を持つパレスチナ人も住んでいる。約800万人のイスラエル人口のうち、およそ2割の160万人がイスラエル国籍を持つパレスチナ人だ。1948年にイスラエルが誕生した際、多くのパレスチナ人は難民となって逃げた。一方で、逃げなかったり、逃げ遅れて故郷に留まったりした人たちもいた。イスラエル国籍のパレスチナ人は、彼らとその子孫にあたる。
 イスラエルの中の「非ユダヤ系市民」である彼らは、イスラエル市民権を持ってはいるものの、「ユダヤ人国家」を主張するイスラエルでは「存在して欲しくない」2級市民として、法律的にも、社会的にも差別的な扱いを受けている。例えば、イスラエルの中で、ユダヤ系市民はどこにでも居住できるが、パレスチナ系市民は40%以下の国土にしか住むことができないという決まりもある。

 アダム・バクリに、「映画のオマールのようにパレスチナ人として屈辱的な思いをさせられたことがあるか?」と尋ねた。彼は「占領下の人々とは比べ物にならないけれど…」と前置きしながら、「イスラエルでの生活は、いつも僕らが2級市民であることを思い知らされます」と言う。
 例えば、アダムが外国からイスラエルの空港に戻り入国審査を受ける際はいつも嫌な思いをする。自分の故郷に戻ってきただけなのに、パレスチナ人だからという理由でアダムはいつも止められ、入念な身体検査と尋問を受ける。彼はニューヨークに2年ほど暮らしているので、すっかり英語が上達している。しかしイスラエル兵からは「なぜそんなに英語がうまいんだ? パレスチナ人なのに2年でそんなにうまくなれるはずがない」と侮辱されるという。
 「誤解のないように言っておくと、一般のイスラエル人にはいい人もたくさんいます。イスラエルのあり方を変えたいと考えている人もいる。僕が問題だと思うのは、イスラエル政府のやり方です。政府はパレスチナ人を恐れるように、長い時間をかけて市民を洗脳してきました。そのため、イスラエル市民の多くは身近な差別に目を向けることができないのです」。アダムは、筆者をまっすぐに見据えて語った。

◆無数のオマールの叫び

 筆者には、パレスチナ人の友人が何人かいる。その中の一人は、少年時代にイスラエル軍に石を投げたことで逮捕され、映画のオマールと同じように裸吊りにされて拷問を受けている。そしてスパイになるよう勧誘された。彼自身は頑なに断ったのだが、彼の周囲には、絶望感からイスラエルへの情報提供者になっていく者が何人もいたという。そしてパレスチナ人同士が不信感を抱き、憎しみ合うように仕向けられていく。占領下のパレスチナでは、オマールのような経験をする若者は、決して珍しくない。
 この映画はドキュメンタリー作品ではない。しかし、描かれていること一つひとつは、パレスチナに住む誰もが経験してきたことでもあり、ドキュメンタリー以上の説得力を持っている。占領下で生きるとはどういうことか? どれだけの言葉を連ねても、馴染みのない人が理解することは難しい。でも、ごく普通の若者の恋を通してパレスチナを描いたこの映画を観れば、きっと肌感覚でその実態がつかめてくるのではないだろうか。
 昨年9月以降、パレスチナではナイフを持った若者がイスラエル兵を襲い、逆に射殺されるという事件が頻発している。その事件だけを聞けば、「パレスチナ人はなんて恐ろしい人たちだ」と思う人がいるかもしれない。しかしその背景には、50年も続く占領という重荷に、若者たちが窒息させられているという事実があることを見失ってはいけない。パレスチナで起きていることは、私たちと隔てられた物語でもないし、昔話でもない。今も巨大な分離壁に分断された町で、無数のオマールが「俺はどうすればいいんだ!?」と、胸をえぐられるような叫び声をあげているのだから。

 

高橋真樹(たかはし・まさき) ノンフィクションライター。平和協働ジャーナリスト基金奨励賞受賞。2008年から放送大学非常勤講師として「パレスチナ難民問題」の講義を担当。1996年にパレスチナのガザ地区を訪れたことをきっかけに、度々現地を訪問。NGOを通じた難民支援や取材活動を続けてきた。著書に『イスラエル・パレスチナ 平和への架け橋』(高文研)、『ご当地電力はじめました!』(岩波ジュニア新書)ほか多数。
主演俳優:アダム・バクリ(オマール役)​ 1988年、イスラエル・ヤッファ生まれのパレスチナ人。テルアヴィヴ大学で英語と演劇を専攻。その後、ニューヨークのリー・ストラスバーグ劇場研究所で演技のメソッドを学ぶ。本作が長編映画デビューとなる。現在はニューヨークを拠点に活動中。第一次世界大戦のアゼルバイジャンを舞台にしたアジフ・カパディア監督の新作『Ali and Nino』(2016年)で、キリスト教徒の女性と恋に落ちるイスラム系アゼルバイジャン人役で主演を務める。

◎角川シネマ新宿、渋谷アップリンクほか全国順次公開中

◆ 監督・脚本・製作:ハニ・アブ・アサド(『パラダイス・ナウ』)
◆ 出演:アダム・バクリ、ワリード・ズエイター、リーム・リューバニ ほか
◆ 配給・宣伝:アップリンク
(2013年/パレスチナ/97分/アラビア語・ヘブライ語/カラー/原題:OMAR)

→公式サイトはこちら

・文中の地図:『占領ノート』掲載地図より(著作者:現代企画室『占領ノート』編集班/遠山なぎ/パレスチナ情報センター)
・写真:マガジン9
・「オマールの壁」スチール写真提供:アップリンク

 

  

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