風塵だより

 大津地裁は、関西電力の高浜原発3、4号炉に対し、運転停止の仮処分を決定した。司法の動きが、少しだけれど変わってきたように思える。これ以降、30件近くの「原発訴訟」が控えている。安倍政権が恐れているのは、同じような仮処分が次々に出されるという「原発停止仮処分ドミノ」だ。
 しかも今回の大津地裁決定は、原発立地県の福井地裁ではなく、隣接する滋賀県で出されたものだ。それは例えば、玄海原発に対する差し止め訴訟は、立地の佐賀県ではなく隣接する福岡県や長崎県でも可能だということだ。現に青森県の大間原発には対岸の北海道函館で訴えが提起されているし、福井県の大飯原発については京都地裁や名古屋高裁金沢支部でも審理されている。原発訴訟の広域化がすでに起きているのだ。
 同じような仮処分決定が、もし続々と出されるようなことがあれば、安倍政権の原発政策そのものが危うくなる。
 当然のことながら、安倍政権や電力会社はドミノ阻止に躍起だ。そこで活躍するのは原子力ムラの面々。原子力ムラ広報紙の趣さえある産経新聞は、今回の大津地裁の決定に関して、3月9日配信の「産経ニュース」で、次のように書いている。

 (略)原発の安全性判断には高度な専門知識が必要になる。それゆえ専門家集団の原子力規制委員会が安全性を厳しく審査。関電も原子炉の冷却システムなど何重もの安全対策を講じ、高浜原発は1年半以上かけて「世界一厳しい」とされる新規制基準に合格した。
 しかし(大津地裁の)決定は新規制基準にも疑念の目を向けた。災害が起こる度に「想定を超える」災害だったと繰り返されてきた過ちに真摯に向き合えば、常に危険性を見落としている可能性があるとの立場に立って十二分の余裕を持った基準にすべきだ――と。一見正しい理屈だが、安全性確保に向けて超えるべき明確なハードルを示したわけでなく、どこまでも裁判長の「主観」でしかない。「脱原発ありき」といってもいいだろう。

 典型的な「素人は専門家の言うことに口を出すな」論である。大津地裁の裁判長に対し「安全性判断には高度な専門知識が必要」なのだが「どこまでも裁判長の『主観』でしかない」と一刀両断だ。「明確なハードルを示していない」とも批判しているが、ではその「明確なハードル」とは何かを、この記者自身が示すことができるのか。依拠するのは、相変わらず「世界一厳しい規制基準」だけなのだが、だいたい「世界一厳しい」と、いったい誰が、いつ認定したのか。自分たちが言っているだけの「勝手基準」にすぎない。
 これを書いた記者は、完全に自己矛盾に陥っている。もし自分のことを「専門家」だと思っているとしたら、思い上がりもはなはだしい。この記事からはどんな「科学的知見」も見えてこない。原子力についての専門家ではないことは明白だ。
 つまり、ジャーナリスト(という素人)が読者(という素人)に向かって、なぜか上から目線で「素人は専門家の言うことに口を出すんじゃない。黙って専門家の言うことに従っていればいいんだよ」と言っているようにしか読めない文章なのだ。
 だが、専門家というのがどれほどのものか。あの福島第一原発事故の際の出来事を思い返してほしい。当時の菅直人首相に対し「原発爆発は起きません」と断言していたくせに、いざ爆発したときには「あちゃーっ」と言ったまま絶句してしまったのが、当時の原子力専門家のトップだった、あの班目春樹氏だったではないか。あれが専門家というものの実態だったのだ。
 「班目氏は、たまたまあの時に原子力委員会委員長だっただけで、彼が原子力専門家の代表ではない」などと言う人がいたけれど、原子力委員会委員長という職責は専門家集団のトップそのものではないか。トップがその程度だったとしたら「専門家なんてなんぼのもんじゃ」である。
 この産経記者氏は「原発の安全性判断には高度な専門知識が必要であり、専門家集団の規制委が1年半もかけて厳しく審査した。その結果、世界一厳しい規制基準に合格した。だから安全だ」という。だが、その専門家集団が振り撒いてきた「原発安全神話」は、あの地震と津波であっけなく崩壊した。それを我々は目の当たりにしたではないか。それでもなお、専門家の言うことに口を出すな、というのか。素人は黙れ、というのか。

 専門家の言うことをそのまま紙面に垂れ流すだけの存在を、ジャーナリストと呼ぶわけにはいかない。つまり、この産経記者氏は、大津地裁判決を批判するために、自らジャーナリストという立場を捨ててしまうという自己矛盾に陥ったのだ。
 専門家と称する人たちの言説を、そのまま受け入れるのであれば、報道機関はいらなくなるし、ジャーナリズムの存在意義もなくなるだろう。各分野の専門家たちのお墨付きどおりに物事を運べば、この世はスムーズに動いていく……そんなバカな。
 専門家を疑え。そして、素人がおかしいと思ったことは、臆せずにどんどん発言していくべきだと、ぼくは思う。おかしいことは、おかしいと言え。そんな素人の疑問に対し、きちんと説明できないような専門家は、ほんとうの専門家とはいえない。
 素人の疑問を代弁して専門家に向けて発信し、その疑問を解き明かしてくれる役割こそ、ジャーナリストの使命ではないか。素人は黙れ、というような人物などジャーナリストではない。

 「保育園落ちた日本死ね!」のツイートが話題を呼んだ。それを、やっと政治が取り上げて、民主党の山尾志桜里議員が国会で質問しようとしたときに見せた「政治の専門家」たちの醜態は、まったく目を覆いたくなるようなものだった。
 すぐにキレる安倍首相は、例によって「どこの誰が書いたか分からないものにコメントはできない」と語気を荒らげたし、自民党議員たちは一斉に「出典を示せ」「誰が書いたんだ」「わけの分からないもんを持ち出すな」とまさに言いたい放題のヤジ、委員会室は騒然となった。
 繰り返すが、あれが「政治の専門家」たちの実態なのだ。
 政治の専門家とは、本来、言葉(議論)の専門家でなくてはならない。だが現実の国会審議は、言葉の専門家どころか、声の大きさを競うだけの動物園と化している。まともな言葉の応酬など、絶えて久しい。
 あの醜態への批判がネット上で大きくなると、ヤジを飛ばした平沢勝栄議員はテレビ番組に出演して懸命に釈明した。そこでは「日本死ね、などという言葉遣いが悪い」と、本質からかけ離れたことを持ち出して、批判の鉾先をかわそうと姑息な手段に出た。それがさらに火に油を注ぐ結果となった。
 専門家と称する人たちの劣化が、素人の批判にまったく耐えられないことが、ここでも実証されたのだ。
 素人は、それほど言葉の応酬(議論)に熟達しているわけではない。だから、ストレートに疑問や批判を表現してしまう。時には激しい言葉だったりもするので、誤解されることもあろう。
 だが、それをきちんと受け止めて、議論の場で展開するのが「政治の専門家」集団なのだろうし、素人の間でどんな問題が起きているかを敏感に察知して報道するのがジャーナリストの役割だと、ぼくは思う。
 しかし、そのジャーナリストという報道の専門家が「専門家の言うことに従え」などと素人(読者や視聴者)に、高みから説教する。政治の専門家は「誰が言ったか分からないことに対応する必要はない」などと開き直る。それが、残念ながらこの国の現状ではないだろうか。

 政治家(特に自民党)の資質劣化は、このところ著しい。それも、政策の専門家であるはずの大臣クラスの政治家たちの言葉の軽さは、やや度が過ぎている。
 島尻安伊子沖縄・北方担当大臣が、その専門領域であるはずの北方領土の「歯舞島」を読めなかった。専門分野の単純な島名さえ読めない者にさえ担当大臣が務まるのなら、政治家など不要だ。
 また林幹雄経済産業相は、国会審議で所管業務であるはずの「原子力政策」を問われ、ほとんどまともに答弁できずシドロモドロ、呆れ果てた質問者の大塚耕平議員に「就任から半年も経つのに、そんな勉強不足で任に堪えられるのか」とただされ「勉強不足を認めます。これから頑張って勉強し、任務を全うします」と答えるのがやっとだった。原子力という国のエネルギー政策の根幹を所管する省庁の大臣が、勉強不足をあっさり認める。
 これが政治の「専門家」たちの現状なのだ。こういう人たちが「大臣」としてこの国を運営している。恐ろしいと言わざるを得ない。

 我々は、おとなしく専門家の言いなりになんかなっちゃいられない。専門家には専門家の役割があるけれど、我々素人が、それに対して口出ししてはいけない、などと言う人を信じてはいけない。
 専門家は、時として大きな間違いを犯すのだ。

 原発事故に大きな不安を抱き、批判の声を挙げた大勢の人たちがいたからこそ、首相官邸前のデモを「大きな音だね」などと嘲笑したあの民主党の野田佳彦首相(当時)だって、最後にはデモ隊のメンバーたちと面会し、意見を聞くところまで追い込まれた。
 その結果「2030年代には原発稼働ゼロ」という、かなり後ろ向きではあるけれど、原発廃炉へ言及せざるを得なくなったのだ。もっとも、安倍政権によって、そんな腰砕けの政策さえ、なし崩しにされてしまったが。
 「保育園落ちた日本死ね!」のツイッターの無視を決め込んだ安倍首相だったが、「保育園落ちたの私だ!」というタグが立ち、共感の声はまさに燎原の火のごとく燃え広がった。
 ただでさえ、女性層の支持が低い安倍内閣は大慌て。「保育士の確保」「保育園の充実」などと泥縄の政策をぶち上げ始めた。

 選挙が間近に迫っている。一強多弱といわれる政治状況の中で、安倍首相は改憲要件である国会議員の3分の2の獲得を目指し着々と準備中なのに、野党はあーだこーだのリクツ合戦。とても安倍首相の改憲路線に対抗できそうもなかった。だが、ここでも素人たちの出番。
 市民連合という若者たちやママの会、学者たちの「政治の素人」たちが立ち上がり、分裂気味だった野党へ「統一候補擁立」を働きかけた。その結果はどうなったか。
 いま、各地方で続々と「統一候補」が誕生しつつある。参院選で与野党逆転するとは思えないが、改憲勢力3分の2の阻止は、次第に可能性を帯びてきた。これも素人の声が、専門家を動かしていることの証左であろう。

 専門家の知見は、むろん大切だ。それを役立てることも、大事なことだ。だが、専門家がいつも正しいとは限らない。
 だから、おかしいことはおかしいと言え。指摘されたことを検討し、間違いならば、それを認めて正していく人こそ、真の専門家なのだから。

 素人こそ、臆せずに語れ!

 

  

※コメントは承認制です。
68 素人こそ語れ!」 に1件のコメント

  1. うまれつきおうな より:

    いつもこんな幼稚で浅薄な意見をダラダラと書いていいのか、と躊躇しながら書いていたので「素人こそ臆せず語れ」の言葉はとてもありがたいです。

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「風塵だより」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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