注目を集めた裁判で、市民サイドを敗訴させる判決を言い渡す時の裁判官の態度は、一様に冷たい。淡々と主文だけ告げると、後ろめたいことでもあるかのように、そそくさと去っていく。開廷してから、わずか数十秒のことである。
この日の東京高裁の法廷も、まさにその通りの様相だった。小林昭彦裁判長は「主文、原判決を取り消す」と切り出すと、1審判決と正反対の結論の主文だけを読み上げ、さっさと退廷してしまった。弁護団から「判決理由くらい朗読してくださいよ」と注文が付いても、受けとめようとはしなかった。
東京都国立市の元市長、上原公子さんが、2期8年間トップを務めた当の国立市から、損害賠償訴訟を起こされていることは当コラムでも取り上げてきた。以前にマンション開発会社・明和地所との裁判に敗れて賠償金を支払った市が、当時の市長の上原さんに同額を個人で負担するよう求めたのだった。
地方の首長(都道府県知事や市区町村長)が在職中に取った施策に絡んで、自治体が後に首長個人に賠償請求することが妥当なのか。入札不正や汚職で首長が自治体に損害を与えたケースならともかく、一般的な手続きで取り組んだ施策、ましてや住民の意向を受けた取り組みにまで賠償責任を問われることになれば、首長は萎縮して先進的な行政運営をできなくなる。地方自治を揺るがしかねない裁判、と言っても過言ではない。
1審の東京地裁は2014年9月、国立市の請求を棄却する「上原さん勝訴」の判決を出した。しかし、これを不服として市が控訴。2審・東京高裁は昨年12月22日、1審と逆に市の主張をほぼ全面的に認め、上原さんに請求された全額の支払いを命じる逆転判決を言い渡したのだ。それが冒頭の場面である。
上原さんが支払いを命じられた金額は、3123万9726円。さらに、市が明和地所に賠償金を払った2008年時点から年5%の遅延損害金(利息)も認められており、市によると2審判決日現在の総額は4332万円余に上るそうだ。
まずは、そもそもの経緯や1審判決の内容をまとめておく。
上原さんが国立市長に就任した1999年に、JR国立駅前から南に延びる「大学通り」沿いに、明和地所が高層マンション建設を計画したのが発端だった。大学通り沿いの建物の高さは街路樹を超えないようにする、という暗黙の申し合わせがあり、地元で反対運動が起きた。市は翌年、景観を守るために一帯の建物の高さを20メートル以下に制限する条例を制定して、建設に対抗した。もちろん、市議会で可決されてのことだ。
しかし、高さ44メートル(14階建て)のマンションは2001年末に完成。明和地所は建設と並行して、市に対して損害賠償を求める訴訟を起こす。05年の2審・東京高裁判決は、上原さんによる営業妨害と信用毀損行為を認めて市に2500万円の賠償を命じ、08年に最高裁で確定した。市が利息を含めて明和地所に払ったのが、今回の判決で支払いが命じられた3123万9726円だった。
今回の裁判は11年12月に国立市が提訴した。高さ制限条例の制定などの上原さんの行政運営が、市民の意思や主体的な行動を汲んだ「市民自治」の営みだったのか、それとも上原さんの主導による中立性・公平性を逸脱した営業妨害だったのか、が争点になった。
1審判決は、国立市議会が13年12月に上原さんへの求償権を放棄する議決をしたことを重視し、現在の佐藤一夫市長がこれに従わずに上原さんへの賠償請求を続けることを「権限の濫用」「信義則違反」と捉えて、市の請求を棄却した。
上原さんの市長当時の言動についても、明和地所という特定企業の営業活動を狙い撃ち的に妨害しようとしたものではなく、あくまで景観保持という自身が掲げる政治理念に基づいたもので、私的な利益を得ているわけでもないこと、また、その政治理念には民意の裏付けがあったことを認めたうえで、「違法性が高いものではなかった」と判断した。
で、今回の2審・東京高裁の逆転判決である。大きく3つのポイントについて紹介し、分析してみる。
(1)上原さんの言動に「違法性」があったか。
国立市は、上原さんの「4つの行為」に重大な過失があったと主張し、損害賠償を求める根拠とした。
4つの行為とは、市に対して明和地所への賠償を命じた確定判決が認定したもので、①明和地所が市と開発の相談を始めて間もない段階で住民に計画を話した、②市の方針を、行政指導から高さ制限を盛り込んだ条例制定に変更させた、③裁判所の決定の法的拘束力が弱い部分をもとに、市議会でこのマンションが「違反建築物」だと答弁した、④東京都に高さ20メートルを超える部分への電気やガス、水道の供給承諾を留保するよう働きかけた、といった内容である。
ただし、この判決は「個々の行為を単独で取り上げた場合には不法行為を構成しないこともあり得る」、つまりそれぞれの行為を明確に違法とは言えない、としたうえで、「一連の行為として全体的に観察すれば」との条件を付けて営業妨害になるという独特の論理構成を採っていた。
そこで今回の裁判では、上原さんのそれらの行為が違法だったかどうかが改めて問われた。
高裁の逆転判決は、特に①の発言に対して「明和地所のマンション建設を妨害するために、これに反対する住民運動が起こることを企図して行った」と認定。さらに、上原さんが「既存の法制度では建設を阻止できないことが分かっていたからこそ、住民運動を手段として利用した」とまで言い切り、「行政の公平性に反する」「手段としての社会的相当性を欠く」との評価を下した。
また、③については「違法な建築物であるとの印象を与えることを意図して答弁した」、④についても、こうした行動が報道されることによって「明和地所の顧客に対する影響は大きかった」と指摘。「景観利益保護という目的の公益性があったとしても、手段の違法性を阻却するものではない」として営業妨害や信用毀損に当たると判断した。
ただ、一番重要な②の条例制定に至る行動については、高裁判決も「適法な法的手続き」と認めざるを得なかった。1審段階で行われた地元住民3人の証人尋問で、条例の素案づくりの段階から住民が中心になり、自分たちで5日間のうちに地権者の82%もの同意書を集めて市に制定を要請した経緯が証言されたので、「上原さんが営業妨害のために主導した」とは認定できなくなったのだ。
結局、高裁判決が問題視したのは①③④の行為だが、いずれも重箱の隅をつつくような言動で、それが「違法だ」と言われてもすぐには理解できない類のものだし、仮に違法だとしてもその程度が大きいとは言いがたいだろう。
そもそも③の市議会での発言の違法性を司法がことさらに問うことは議会自治を侵しかねないし、④の報道に至っては取り上げるかどうかはマスコミが判断したことだ。①についても、上原さんは「住民に話した時点で、すでに市民の間で計画は知られ始めていた」「なるべく早い段階で住民に情報を提供することは、トラブルのない良好なまちづくりに不可欠」と反論していた。こうした点を勘案したうえでなお、3つの行為が違法だと断定できるだろうか。
高裁判決に対して、上原さんの弁護団は「住民の動きを受けて市長の上原さんが先頭に立って行動したのは、むしろ住民自治の鑑であり、4つの行為の『違法』論は崩れるはずなのに、①③④の行為に『悪意』の色付けをして作為的に事実をねじ曲げている」と強く反発している。
(2)賠償金と同額の「寄付」をどう評価するか。
明和地所は国立市に勝訴して賠償金を受け取った後、「訴訟の目的は金銭ではなく、業務活動の正当性を明らかにするためだった」として、同じ額を市に寄付している。
今回の裁判では、明和地所の寄付が市の損害を穴埋め(補填)したものなのか、それとは無関係の「一般的な寄付」なのかが争点になった。損害の補填が認められるのであれば、上原さんへの賠償請求は市の「二重取り」になるからだ。1審判決は「市の財政における計算上は、損害賠償金の支出による損失が事実上解消されたとみることは可能である」との判断を示していた。
これに対して高裁判決は、明和地所が寄付の際に「市民のための教育・福祉施策の充実に充ててほしい旨の申出書を提出していること」や、市が一般寄付として受け入れていることを挙げて、市の賠償金支払いと明和地所の寄付との間に「因果関係があると言うことはできない」と結論づけた。寄付は市の損害を穴埋めする性質のものではなかった、という判断だ。
しかし、一般常識でみれば、全くの同額を寄付した実態は「賠償金の返還」に他ならないし、少なくとも市に実質的な損害が発生していないことは事実だ。国立市が明和地所から受け取ったお金を、賠償金を支出したのと同じ財政調整基金に戻していることなども併せて考えると、高裁の判断は納得しがたい。
(3)市長が市議会の議決を無視したことが認められるのか。
前述したように、1審判決が重視したのは、地方自治法に基づく国立市議会の「債権放棄議決」だった。上原さんへの求償権を放棄する内容だが、佐藤市長は1審判決後も議決に従っていない。
そうこうしている間に議決の1年4カ月後に市議選が行われ、議会の構成が変わった。これを受けて市議会は前回と逆に、15年5月に上原さんへの「求償権の行使を求める決議」を可決した。
高裁判決はこの決議を「最新の市議選で選出された市議による議決」と捉えたうえで、「市長としては現在の民意を反映していると考えられる最新の市議会の議決に従うべき」と述べ、1審の判断を覆して、上原さんに賠償請求することが市長の権限濫用や信義則違反にはあたらないと判断した。
これに対して、上原さんの弁護団は「市議会の議決に従わず、(債権放棄の)執行をサボタージュして放置していた現市長を許していいのか」と批判している。
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さて、今回の高裁判決の中で、明和地所のマンション建設反対運動を担った人々が最も受け入れがたいのは、市長だった上原さんが「住民運動を手段として利用した」と決めつけられたことだろう。逆にみれば、判決は国立市民を、市長に「利用される」程度の存在だと見下しているとも受け取れるからだ。
前述したように、当時のマンション反対運動は、決して上原さんが主導したものではなかった。反対運動の中心にいた男性は「上原さんを動かすのに本当に苦労した。『市長が住民運動を利用した』というのは構図が逆だ」と話す。市民の間に広がった盛り上がりに、上原さんも「取り得る手段を取らないと不作為の責任を問われかねない状況だった」と振り返っている。
住民の意思や行動を受けて行政運営をした結果であれば、自治体に生じた損害は首長個人に負担させるのではなく、住民みんな=自治体が負担するべきではないだろうか。
上原さんは、高裁判決を不服として最高裁に上告した。このまま判決が確定することになれば「首長は、モノを言わない・行動しないが勝ち、となる。民主主義の瀬戸際にある」と危惧していた。それは、住民たる私たちにそのまま跳ね返ってくる警告である。
住民の声を汲み上げ、政治に活かすことは、地方自治体の首長の本分ともいうべき行為。自己の利益のための行動だったならともかく、その「本分」を果たした結果の損害を、首長個人が負うべきという結論には、やはり違和感がぬぐえません。これが常識となれば、住民の声を無視してでも、首長はリスクを犯さず「何もしない」のが得策、ということになりはしないか。一つの自治体だけにはとどまらない問題です。