昨年出版されベストセラーとなり、当サイトのマガ9レビューでも紹介した『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫著・集英社新書)を読み直していたところ、中国経済の今後についての記述で目が留まりました。
21世紀のグローバリゼーションの下では、発展著しい新興国である中国といえども、貧富の格差は拡大し、1970年代に日本で実現した「一億総中流」は再現しない。とすれば、同じ価値観をもった中間層が育たないため民主主義が成立するのは難しく、ゆえに中国では階級闘争が激化するだろうと著者は予測し、こう続けます。
「その意味では、中国に対して、民主主義が達成されていないと批判するのは、先進国の傲慢であるとさえ私には思えます」
先進国という「中心」が、後進地域である「周辺」から安く資源を収奪することで発展できた時代はとうに過ぎ去りました。「最後のフロンティア」であるアフリカがその役割を終えれば、その後は先進国内での「中心」と「周辺」の構造が強化されていくでしょう。いや、その傾向はもう進んでいる。
現に日本でも格差の問題は深刻化しており、と同時に多様であるべき世論の幅も狭まっているように感じます。おそらく韓国でも同様の事態が生じているのではないでしょうか。ですから中国の問題は一国のみが抱えている問題ではないのです。
東アジアでは、多くの国民が共通の悩みを抱えているにもかかわらず、どうして国家間同士は対立しているのか。ここではそれについての論考に立ち入りませんが、現状がそうであるならば、せめて草の根レベルでは共に問題の解決を目指したい。
もちろん「言うは易し」です。国境を越えたムーブメントが可能かと問われれば、口ごもるしかありません。ただ、それは「1人で考えている」からだとも思うのです。
2月7日付『朝日新聞』別冊「be」の「フロントランナー」というコーナーに登場した、耕作放棄地の再生を事業化している㈱マイファーム代表取締役の西辻一真さんは、あるアフリカの諺を座右の銘としているそうです。
「早く行きたいのなら、ひとりで行きなさい。遠くへ行きたいなら、みんなで行きなさい」
これってジョン・レノンの『イマジン』じゃないか、と私は思いました。
冷戦時代を引きずっていた東アジアが平和のモデルを示すことで世界のフロントランナーになれる、といえば、有識者から冷笑されるかもしれません。「でもその夢を見ているのは 君1人じゃない 仲間がいるのさ」(忌野清志郎訳)と口ずさみたい。そんな気持ちももっています。
(芳地隆之)
昨今の欧米のリベラルの言説聞いていると、「自由と民主主義と基本的人権を守らんやつは一族郎党皆殺しだ〜!」と言ってるよう聞こえるんですよ。相手を敵国ではなく、テロリスト=犯罪人とあえて規定して、「戦争じゃないんだから、犯罪者を処罰するだけなんだから、全員死刑にしてもいいんだ〜!」みたいにね。で、思わず「お前ら、織田信長か〜!」とツッコミを入れたくなるぐらい、そこには「平和」の概念が抜け落ちている。屍の山の上に「平和」という名の立派な城を造ったとしてもそれは「平和」とはほど遠いでしょう。
そういった「気に食わないやつは全員死刑!」の欧米のリベラルと一線を画して、憲法第九条を元に東アジアで何ができるかということですよね。イスラムの女性がヒジャブを被っているのを、「人権蹂躙だ」というのではなく、「その地域に根付いた伝統文化だから大目にみる」ぐらのゆるい連帯で。
でもそしたら、「独裁政治はわが国の伝統文化だ〜!」と言ってきそうな国もあるからな〜。
東アジアの平和を「想像する」を「創造する」に変えるための最低限の前提条件は、「表現の自由」でしょう。
このことを述べると、芳地隆之さん(など数多くの日本の平和主義者)は、想田和弘さんらが抗議している「翼賛体制の構築」を連想し、安倍政権批判を口にする事でしょう。
ところが、韓国ではついに世宗大の朴裕河教授の著書「帝国の慰安婦」が出版差し止めという事態になりました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150218/k10015541231000.html
また、中国の「報道の自由度」に関する状況は世界第176位、北朝鮮は179位という有様です。
要するに、「表現の自由」は東アジア全体で劣化の一途を辿っているのであり、仮に安倍政権を倒し、日本の「報道の自由度」の順位を上げたとしても、それで東アジア全体の「表現の自由」を確保できる訳ではありません。
「表現の自由」が無ければ、各国の市民の声は、各国の体制側に容易に捻じ曲げられ、闇に葬られます。
さらにEU加盟国は、どの国も「表現の自由」が保証されています。
この現実に如何答えるのかが、「想像」を「創造」にする大前提でしょう。