前回このコーナーに掲載した記事に登場したK(北川裕二)さんより寄稿いただきました。ここに紹介します。
*
あれから1年が経ちましたね。
雑誌『AERA』(3月12日号)に掲載されたO君の記事、読みましたよ。その記事で君は「『3・11』が過ぎれば、それまでの1年と寄り添いながら進んでいく年になると思います」と云っていました。そして「特にここ1カ月近くは、いなくなった人たちのことを思いだし、『寂しい』という気持ちが強まっています」とも。
1年というのは地球そのものの寿命からすればほんの一瞬、まばたきひとつ程度のことに過ぎません。地球の一片が僅かに歪んだとしても、宇宙にとってはたかだかそれだけのことです。ところがプレートがぶつかり競り上がってできた狭小な土地に棲んでるこんなちっぽけな人間たちにとっては、この極小のズレはあまりに巨大で決定的な出来事だった。
大津波は、三陸の町をまるごとのみこんで更地に戻してしまった。それとともに生き残った人の心をも奪って、あとに暗く大きな口を開けた虚無をつくり出してしまいました。死に別れた人と自分との「戸惑いの距離」。前回の返信で君はそう書いていました。君はあの時のことを何度も振り返り、その「距離」を測ろうとしている。「寄り添う」という言葉の痛切さは、だから底のない虚無の中で亡き人との距離をそれでもなんとか埋めようとすること、そのことから感じられるものなのかもしれない。そのことを君は「寂しい」と云った。そのようにぼくは理解しました。
●これからくる首都圏の災害
今年になって、首都圏にも巨大な直下型地震の起こる予測がありました。東大地震研究所の研究チームがまとめた試算によると、首都圏でマグニチュードM7クラスの直下型地震の発生する確率が「4年以内に70%」だというのです。それには他の専門家からの異論などもあって、結局は「いつ起きてもおかしくない」そう認識しておくべき事態のようです。
仮にもし東大地震研究所の予測したとおり、マグニチュードM7の直下型地震が4年以内にここを襲ったとしたら、阪神・淡路大震災以上のカタストロフィになることは確実です。巨大地震の余効変動は地下深くで拡大する傾向をみせているようで、現在は千葉県沖にエネルギーが溜まっているようですし、地上においても、例えば震源からずっと離れた高層ビルで起こる共振現象のように想定外の事態が波紋を広げています。
地震が直接首都圏を襲わなかったとしても、福島第一原発が再び大きな揺れに見舞われたらどうなるでしょうか。現在もっとも懸念されている4号機の使用済み燃料プールがさらに破損して、1300本以上あるといわれている使用済み燃料棒が冷却停止となり外部に剥き出しになれば、小出裕章氏がいうように首都圏は「終わりです」。水素爆発によって吹き飛ばされた4号機建屋の破壊映像を見た者からすれば、プールがいまだに水漏れしていないことがむしろ奇跡に思えます。「3・11」は「収束」などとはほど遠い今なお進行中の出来事であり、予断を許さない危機的状態が続いています。
●大地は「動乱」する
はやくから地震と原発との危険な関係を指摘してきた人に石橋克彦という地震学者がいます。彼は3・11以前より地震学の見地から日本の地震が原発事故に繋がる危険性を主張し、浜岡原発の閉鎖を訴えてきた希有な専門家でもあります。様々なメディアで頻繁に使用されるようになった「原発震災」という用語も、もともとは彼が提起したものです。
著書『大地動乱の時代』(1994年)を読むと海溝部で起こる巨大地震の仕組みがよく理解できます。確かに、本書では東海沖の相模トラフや駿河トラフで起こる地震が論じられていて、三陸沖の地震に関しての言及はありません。本書の目的が首都圏に起こる巨大地震への警告にあったので、東海沖のフィリピン海プレートがテーマに取り上げられたのだと思います。しかしともあれ、本書で瞠目すべき点は、日本を揺るがす大地震が周期性をもって繰り返されているということでした。東海沖は地震活動静穏期と動乱期を繰り返していて、現在(1994年)の小康状態は大地の静穏期に過ぎないのであって、近い将来に必ず動乱期が再帰すると(本書の初版が出た半年後に阪神・淡路大震災がありました)。
本書によれば、1853年嘉永小田原地震(約M7)から1923年の関東大震災(M7.9)までの約70年間に、関東・東海沖に大地震が頻発している。地球表層の厚さ100キロメートルほどの「岩石圏(リソスフェア)」を調べると、それら大地震の数々は実は連動したものであろうということでした。著者がこの期間を「動乱期」と名付けたのは、嘉永小田原地震の4カ月後にペリーが来航して開国をせまり、幕末・明治維新を挟んでいたという、まさに日本の動乱期にほかならないからでもありました。1853年に「日本列島の地上と地下で二つの激しい動乱が口火を切った」というわけです。そこで起こった「ひずみ」が関東大震災にまで長い亀裂のように走ったのです。
「静穏期」と「動乱期」という指摘には説得力がありました。3・11以後の「余震」に怯えた生活を振り返れば明らかだからです。以前よりは人々が、列島の歴史を地殻変動の周期性から考え直すようになったのはとりあえずは画期的なことです。かく云うぼくもそのひとりに過ぎません。その上で、ぼくが考えるのはこういうことです。つまり、地下の「動乱」と地上の「動乱」が必ずしも一致するとは限らない。むしろ稀なことである。地下で「動乱」が始まったとしても、ほとんどの場合地上の「静穏」すなわち日常は引き延ばされる。生活というものは何よりもまず習慣によって成り立っているからです。それは一面では変革すべきタイミングを逃すということを意味しており、もう一面においては「3・11」という巨大な災厄が日本全土へ波及し、精神の奥深くへ浸透して内部から蝕んでいく。心と身体は二重に侵されているのではないか。そんな疑念です。
加えて、地下と地上の「動乱」が同期することは、必ずしも歴史を正しい方向へ導くとは限らない、ということにも眼を向けておかねばなりません。話は逸れますが、果たして関東大震災からこれまでの社会が、江戸時代のガバナンスや経済、文化などより進歩し優れたものだなんてこの期に及んで云えるでしょうか。なるほど江戸時代の農民や町民の生活は今からすると貧しく見える。彼/彼女らにとっては子の間引きのような惨い風習もありました。が、効率的な循環型のエネルギー利用やリサイクル経済のあり方は現在よりも細分化されて高度な面もあり、武士階級にも自身や家臣が重大な過失を犯してしまった場合には、責任のとり方として切腹があったことは周知のとおりです(政府、官僚、東電、メーカーはどうでしょう?)。
いずれにしても云えることは、3・11以後、拠って立つ自然への理解抜きに生活や経済、社会システムについて語ることは、空疎なレトリックに陥る危険性があるということでしょう。むしろ、例えば土地を改変して建設される首都高速道のようなインフラが、人々の精神をどのように作り出すのかといったような観点で考えてみなければならないのではないか。自ら開発した事物が土地に根ざすことで、反対に精神はその土地からどのように規定されるのかといったことです。つまり、ぼくがここで問いたいのは、精神と土地(自然)をつなぐインフラとの関係についてです。一言で云ってしまえば、ぼくらの精神や行動様式を規定している「風土」とはいったいどのようなものかということです。
●「風土」を三つの相としてみる
一般的に風土は、土地固有の気候・気象・地形・地質・景観などを総称する用語であると共に、その土地に暮らす人間の精神や歴史的・文化的背景が加えられて使用されることもある概念です。哲学者の和辻哲郎は、著書『風土-人間学的考察-』(1935年)で独自の視点からそれについて次のように問います。
「我々にとって問題となるのは日常直接の事実としての風土が果たしてそのまま自然現象として見られてよいかということである。自然科学がそれらを自然現象として取り扱うことはそれぞれの立場において当然のことであるが、しかし現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である」
放射性物質の汚染状況、そして君の暮らす三陸での大津波による被害状況を鑑みれば、和辻の云うことはとてもよく理解できます。放射能汚染、津波による町の破壊という「現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である」と。けれどこの「根源」を突き止めるとなると容易なことではないでしょう。なぜなら「大地動乱」に即して云えば、3・11以後の「風土」とは、地下の「動乱」と地上の「静穏」な日常、異なる性質をもつこの二つの力(時間)が衝突することから産み出される無数の「不釣り合い」から成る「関係的構造」(和辻)のことに思えるからです。「不釣り合い」とは、和辻が同書で急速に洋風化を進めたために極端に調和性を欠くことになった日本の都会の有り様に対して使った言葉です。
自然現象についてはむろんのこと、政治-経済的問題にも、人間の心理的な問題に対しても光を当ててみなければならない。おそらくこの三つの相のどれひとつを蔑ろにしても「風土」は見えてはこない。和辻が同書で「風土」を考察するにあたって気候のみからそうしたようにはもはや論じることはできない。生物圏、大気圏、地圏、水圏といった自然環境での全般的で生態的な循環過程を丹念に認識していかなければならないということでしょう。
●精神と自然とインフラの「不釣り合い」
さらに記憶しておくべきは、この「不釣り合い」が、地震学でいうところの「剪断応力」のように弱体化した部分の強度を超えて過剰な力となるとき、精神と自然に対して致命的な破壊をもたらしてしまうということです。風景に溶け込んだインフラが災害をさらに甚大なものにしてしまう。かつて寺田寅彦が『天災と国防』(1934年)で指摘していたとおりの事態が今回も起きてしまった。寺田はこう指摘します。
「しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(中略)もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化が著しく進展して来たために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。」
そのとき初めて知るかのように、精神と自然を繋いでいたインフラの「不釣り合い」に気づかされる。それは、結局のところ「人間」という文化の破壊にまで至ってしまう。原発事故はその最たるものです。これこそ「3・11」の教訓であったわけです。
●知覚しえないものを知覚する
もうひとつ、云っておかねばならないことがあります。自分の〈死〉は確実なものですが、本人がそれを知ることはできません。原発事故の問題はこれと似ています。放射性物質は実在し拡散している。けれども、ぼくらはそれがどこにあるかを正確に知ることはできない。正確に知らねばならないものであるにも拘らず。こうしたこれまで経験したことのない事態を前に、何を考え、どう対応したらよいのか。このことを抜きに「風土」なんか語ってもまるで意味がない。「風土」への考察は、〈知覚しえないが、実在するもの〉をも対象にしなければならなくなったのです。
津波に対しても同じように云えないでしょうか。当然だけど、津波はそれが引いた時点で終わったわけではない。君は前回の手紙で「被災地では変化する部分と、置き去りになり取り残された部分とが急激に離れていきます」と書いていました。「自分を間に、その両極はどんどんと離れていきます。どちらの時間にも密接に関わっていかなければなりません」と。この言葉を読み、ぼくは、津波は今も生き残った人を襲い続けているのだと思いました。沖からの津波が去った後、今度は心の中に大きな波が押し寄せているのだと。その力は、ぼくらの精神を酷薄にも引き裂き押し広げていく。
けれども君が寄り添おうとしているその両極的な世界、それこそがぼくらの「風土」と呼べるものになりうるのかもしれない。なぜなら、生と死に引き裂かれ、「気持ちの中に積もっていく戸惑いの距離と時間がどんどん増えていく」暮らしのなかで、それでも「どちらの時間にも密接に関わって」いくとは、見方を変えれば、身体感覚や知覚を通じて両極的世界の広がりを測り直そうとする神妙な行為のように思われるからです。それはまさしく、〈知覚しえないが、実在するもの〉を認識しようと努力することにほかならないのではないでしょうか。
●「戸惑いの距離」を測る
一方ぼくにできることといったら、精々おのれの生活圏を観察し、辺りを記録しながらぶらつく程度のものです。けれど「進行中の危機」は至るところに見出されることも事実です。それが危機であり、不定のものである以上、そこにもやはり「戸惑いの距離」があります。これを「静穏」に見過ごしてはならないように思います。
今ここにありながら見過ごされる「ひずみ」または「不釣り合い」。定めがたいこの「距離」を幾度となく繰り返し彷徨いながらも新しい地図が作成されねばならないでしょう。新たな風土記が書かれねばなりません。未来の他者へ語り継ぐための。地図はいわゆる〈国土地理〉のためのものではないし、風土記は〈ふるさとガイド〉のようなものでもない。ここで話してきた「風土」とは、国家が編成する「国土」のことでないし、おそらくあの懐かしい「郷土」とも異なる何かであるはずだからです。国土は滅び、郷土はあるときあっけないほど簡単に失われてしまう。それが明らかになってしまいました。それらを信じすぎることは却って傷を深くしてしまう。
精神、自然、社会(インフラ)。この三つの相が周期性を繰り返しながら錯綜する「風土」は、国土を一属性とするような包摂性をもつこともあれば、破壊された郷土の「瓦礫」の中から不意に見出されることもあるものです。君が今そうしているように。癒えることのない深く開いた傷口が、しかしぼくらが歩むべき新たな途を示してもいる。そう喩えることは単に虚像に幻惑された短見でしょうか。もしそうでないなら、それはまた失われることのないもの、そのようなものが「風土」であると、今はとりあえず考えてみたいのです。
ぼくらは「3・11」を超えていかねばなりません。次の1年はそのためにやってくるはずなのですから。