またしても命が奪われた。
昨年11月、浜松市役所の敷地内でホームレスの女性が亡くなったのだ。毎日新聞(1月16日)で報道されたので、御存知の方もいるだろう。
同紙によると、70歳のホームレスの女性が弱っているのを警察が見つけ、救急車が呼ばれる。が、救急車が行った先は病院ではなく市役所。市役所の中ではなく敷地内のアスファルトに寝かされる。その1時間後、野宿者の支援団体のメンバーが通りかかったところ、彼女は目を見開いたままほとんど反応がなかったという。心肺停止状態。市役所の職員は女性を囲み、ただ見下ろすだけだったそうだ。保健師もいたのに容態を調べることもなかった。女性の胸には職員から渡された未開封の乾燥米が置かれていたそうだ。女性は4日間食事をしていなかった。が、乾燥米は「食べるには袋を開け、熱湯を入れて20〜30分、水では60〜70分待つ必要がある」。封をあける体力も残されていなかったのだろう。
結局、支援団体のメンバーが救急車を呼ぶよう要請したが、手遅れだった。女性は翌日に死亡。
市役所の敷地内で、こうして命が奪われた。なぜ、最初の救急車は病院へ行かなかったのか。なぜ、あたたかい市役所の建物の中ではなく、冷たいアスファルトの上に寝かされなければならなかったのか、なぜ、乾燥米しか渡さなかったのか。疑問は尽きない。そしてなぜ1時間も「ただ見ている」だけだったのか。
北九州の餓死事件を考えても、背景には生活保護費を抑えるという具体的な数値目標があった。この場合はどうだろう。面倒なことにかかわりたくないという一心で、押し付けあっていたのではないだろうか。同記事には「市の高齢者施設への短期収容も検討されたが、担当課に難色を示され、対応方針を決めかねた」とある。担当の課は、きっと面倒だったのだろう。かかわることが。仕事が増えるから。その間に、女性は手遅れとなってしまった。
イタリアのテレビ番組の取材を受けました。テーマはやはり
プレカリアート。イタリアではプレカリアートのデモに
何万人も集まるそうです。
なんだか、この国に対する最低限の信頼が音を立ててガラガラと崩れていくような事件である。市役所の敷地内で、放置されて死んでしまうということ。06年、秋田の30代の男性が生活保護の申請を却下され、秋田市役所の駐車場で自殺した。この時は「抗議の自殺」という側面もあったように思う。彼は友人に「俺が犠牲になって福祉を良くしたい」と話していたと報道されているからだ。しかし、今回は、助けを求めて放置されている。
「貧乏人は勝手に飢えて死んでくれ」というメッセージは、そうして日本中を覆っていく。私自身、役所のひどい対応の話はよく聞いている。本当に困窮して生活保護の申請に訪れても、「ネットカフェ行き」「風俗行き」を勧められたり、サラ金を勧められたりという話だ。それでも、本気で飢えて死にそうになって助けを求めれば、最低限、救急車を呼んでくれたり、どこかで寝かせてくれたり、あたたかい食べ物をくれたり、とにかくなんとかしてくれるのではないかという淡い期待をどこかで捨て切れずにいた。しかし、そんな淡い期待も粉々に打ち砕かれた。一度ホームレス状態になってしまうと「人間扱い」されないという実態。
この連載でも、「目の前で誰かが死にそうになってたら、誰だって助けるはず」ということを何度か書いてきた。そしてそれを信じてきた。だけど、どうやら世の中はそんな善意だけでは成り立っていないらしい。先進国と言われるこの国で、野たれ死にのように人の命が奪われる。セーフティネットなど何もない。こんな事件を「見せしめ」のように見せられていれば、誰だって「そうはなりたくない」とより人を蹴落とし、自分だけは安全な場所に行こうとする。殺伐とした空気の中で誰もが「自己責任」という言葉で他人を顧みない自らを正当化し、自らの「安全」だけは守ろうとする。そうして「持つ者」は自らの安全=セキュリティを強化し、持たざる者を徹底的に排除していく。排除された者たちはそうして顧みられることもない。格差社会、監視社会、そして自己責任というキーワード。様々な問題が複雑に絡み合いながら、私たちを一層生きづらくしていく。結局、得をしているのは誰なんだ?
06年、この国で「餓死」した人は56人。6日に一人が飢えて死んでいる。日本でだ。
私たちは、本当のことなど、何も知らされていない。