どこまでも深い「わからなさ」と、ほんの微かな希望が残った。
それが『奥さまは愛国』(河出書房新社)を読んでまず思ったことだ。
2月に出版されたばかりの本書の執筆者は、フェミニストである北原みのりさんと、在日韓国人三世の朴順梨さん。
帯には、以下のような言葉が踊る。
「〈普通の主婦〉が、愛国活動にはまっている 彼女たちは何を愛し、守ろうとしているのか?」
ご存知の通り、私自身、90年代後半に右翼団体に所属していたという経歴の持ち主である。「なんで?」といまだに聞かれるが、一言ではとても説明できない。
ただ、バブルが崩壊し、「一億総中流」という戦後の神話が崩れていく中、フリーターとして浮遊していた私には、どこにも帰属先がなかった。「頑張れば報われる」と言われてそれなりに努力してきたのに「バブル崩壊によって今までのことは嘘になりました」と梯子を外された気がして、何か納得いかなかった。「教育に嘘をつかれた」という被害者意識も強く、それが「学校では教えてくれない靖国史観」的なものが忍び込む余地を作っていた。そうして気がつけば、国内にいながら、国際競争の最底辺で外国人労働者たちと最低賃金競争をさせられていた。この国で「若者の外国人労働者化」が始まった90年代、彼らと自分を差別化する言葉は、「日本人である」ということしかなかった。
ものすごくざっくり言うと、それが「右翼に行った理由」である。そんな私は、ある意味で現在の「ネトウヨあるある」の条件をかなり満たしていたと言えよう。本書には、以下のような記述がある。
「ネトウヨは納得のいく仕事に就いておらず、友達もほとんどいない。社会からはぐれ、満たされない気持ちや不満を、ゼノフォビア(外国人嫌悪)にかえて鬱憤晴らしをしているだけだ」
が、『奥さまは愛国』に登場する女性たちは、まったく違う。華やかなワンピースや着物に身を包み、時にベビーカーを押してデモや街宣に訪れる上品で素敵な「奥さま」たち。そんな女性たちが街頭で「従軍慰安婦はウソ」と主張し、また「日本にレディーファーストなんていらないんですよ! なぜなら、日本の男はまず先に部屋に入り、敵がいないかどうかを確かめるものだから!」と「男をたてる」ようなスピーチする。海外メディアから従軍慰安婦について問われれば、50代くらいの上品な女性が「お国のために闘ってくださる兵隊さんのために、そういう女性は必要だったと思います」と語り、20代半ばの子連れの女性は「日本人が日本軍を信じてあげないでどうするんですか? 日本人はそんなひどいことをしていない!」「お金が欲しくて、元自称従軍慰安婦になったおばさんたち、そんなおばさんたちはお金がほしいから騒いでるだけ!」とスピーチする。
しかし、きれいに着飾り、メイクしてはいるものの、怒りの表現は「上品」とはいかない。「うるせぇよ!」「お前!」という男言葉で「敵」を罵る。
わからない、わからない、本当にわからない。読みながら、ただその言葉ばかりが頭の中をぐるぐると回っていた。
この本では、私自身も北原さんに取材されている。そこで語っているのだが、私自身が右翼団体に入った動機として大きかったのは「反抗」とも言える気持ちだ。一般的なオッサン社会に対する反抗。世の中全体への反抗。権威や権力といったものへの反抗。非常に子どもじみた動機で恥ずかしい限りだが、『奥さまは愛国』に登場する女性たちからは、そんな「反抗心」がまったく感じられない。逆に彼女たちはいつも「男」を立て、「女性らしい」服装や雰囲気を強調し、団体名も「そよ風」「花時計」などと美しい。右翼時代、軍服姿で当時組んでいたバンド名が「維新赤誠塾」だった私とは大違いなのだ(もうひとつの違いとして、当時の私の敵はアメリカだったのに対し、奥さまたちの敵はアジアということもある)。
わからないなりに本書を読み進めていて、ハッとしたことがある。
それは、北原さんの知人女性(愛国な人ではない)のエピソード。都心の一等地に大きな一軒家を持ち、子どもは有名私立に通い、夫は大企業に勤める勝ち組専業主婦の家からは、時折夫が暴れ、彼女が叫ぶ声が聴こえてきたのだという。警察沙汰になったこともあったというから相当のものだったのだろう。そんな彼女にある日、北原さんは「DV被害者支援」のパンフレットを渡す。と、彼女は激怒して言ったという。
「あなたみたいな女、大嫌いなのよ。被害者意識が強くて」
以下、本書からの引用だ。
「どんなに殴られていても、そのことを私に知られ、同情される方が彼女には屈辱だったのだろう。被害者であることは彼女にとって弱者になることだから、それは負けることだから。そんな彼女の怒りは、そよ風の女たちの姿と、ぴたりと重なった。
強者でありたい女たちは、フェミニズムこそが女を侮辱していると考える。『被害者面する』『弱者ぶる』とは、フェミニズム嫌いの女性たちがよく言うことである。そしてそれは、愛国女性たちが元『従軍慰安婦』に向ける言葉と一語一句同じだ」
本書で北原さんと朴さんは、読んでいるこちらが苦しくなるほどに悩み、時に心が折れそうになりながらも取材を続ける。
時にまったく通じない言葉の前で立ちすくみ、フェミニストをバカにする男性たちと一緒になって笑う女性たちの姿に言葉をなくし、しかし、時に「愛国女性」たちと過ごす時間に居心地の良さを感じ。
「愛国的な」幼児教室を見学した北原氏の心情の変化も興味深い。「女は女らしく」「妻として夫に感謝し」、はたまた「進化論は信じられない」などというパンフレットを読んだあと、彼女は思うのだ。
「たぶん、少し前の私だったら、『進化論否定? わはは』と笑ったり、『夫に従うかぁ〜』と皮肉な感じで斜め読みしていたかもしれない。『教育勅語? うける〜』と茶化すようにしたかもしれない。でも愛国の奥さまを取材しながら、あまりにも『フツーの人たちの真剣』に、言葉を失う思いが続いている。今の私の正直な気持ちを書けば、この原稿を書きながら、非常に気が重いし、そして怖い。彼女たちの考えに共感して参加したわけでもない私に、どんな報復が待っているだろう、と頭の隅でそんな思いがよぎるからだ。彼女たちの人生をかけた最も『真剣』な場、最も『神聖』な場に入っていってしまったのではないか、と思うから。そしてそんな風に怯える自分に、私は一番怯えている。以前は笑えていたものが、笑えなくなること。以前は怖くなかったことが、怖くなること。そんな変化が、とても怖い。奥さまたちの優しい笑顔、その眼差しの奥にある真剣とどう向き合っていいのかわからない」
そうして本書の終盤で、北原さんは「愛国女性」たちに呼びかける。
「公衆の面前に立ち、マイクを握り、男言葉で『敵』を罵り、巨大なマスコミや、世間の偏見と闘う気が強い女たちにとって、この日本社会で女として生きることが、平坦な道だったはずがない。それでもフェミニストのように、『男社会』に文句をつけ、『被害者面して権利主張』するのは醜い行為だと彼女たちが考えているならば、『女装』をしつつ、男と国に同化し、男言葉で怒る闘い方の先に、彼女たちに見えているものを、私は心から知りたい。『女と子供を守る、愛する者のために戦う』という男のナルシスト的愛国に寄り添えば、『守られる側』の女としての闘いに、手足を縛られているような不自由を感じることは、あなたたちにはないのか。愛国と女は手を結べると、あなたたちは、本気で信じられるのか」
本書を読んで、自分の中で浮き彫りになったことがある。
それは、私自身の中にある、ある意味で手のつけられないほどの「男社会への深い絶望」の存在だ。愛国運動に限らず、「女装」して、あえて「男を立てる」ような作法を、おそらくこの国のすべての女が日々当たり前のこととしてやっている。それを問題にしようとかいう発想も持てないほどに、多くの人が、深い諦めの中にいる。その絶望と諦めが、一時期私を右翼に向かわせたのかもしれない。そんなことを、思った。
本書の最後、ほんの少し、希望を持てるエピソードが登場する。
この連載でも書いた「差別撤廃 東京大行進」に、フジテレビデモに参加していた「保守」の女性が、「保守としてもヘイトスピーチを認めるわけにはいかない」と参加したという事実だ。
このことにちょっと胸を撫で下ろしながらも、『奥さまは愛国』は、私に「この数年で急速に広まったこの現象をどう見るか」という難題を与える一冊となった。
一方、この本で、何か自分の中の「パンドラの箱」も開いてしまったような感覚だ。
北原さん、朴さん、大変な取材、ホントにお疲れさまでした・・・。
ぜひ、多くの人に読んでほしい。
ちょうどこの週末にも、東京・豊島区で「在日特権を許さない市民の会」などによる集会・デモがありました。実際の参加者はそれほど多くなかったとはいうものの、書店の店頭や電車の中吊り広告に、「嫌韓・反中」を煽り、「愛国」を叫ぶ言葉が溢れている現状を思うと、決して「ほんの一部の現象」とは言えないのだと思います。それを、切り捨てるのではなく真摯に言葉を投げかけ、なんとか「分かろう」とする著者のおふたり。雨宮さんのいう「深い絶望と諦め」に共感する人もしない人も、そして男性も女性も、ぜひ読んでみてほしい本です。
最近は奥様を超えて、婆さんが愛国化してるとこまで状況は進んでるよ。ワイドショー感覚で「あの殺人犯ひどいわね〜」という感じで「韓国はひどいわね〜」と言ってる。
「奥様は愛国」者は、アメリカのティパーティの人たちのような感じ?ブッシュを支持した福音派の人達?共和党副大統領候補だったメガネの彼女みたいな?
とりあえず、何でもかんでもヘイトスピーチとレッテルを張り、自分と意見の違う人の言論を圧殺する真似はいい加減辞めた方がいいと思いますが?
特定アジアの国々が日本に対して行っていることを知れば嫌いになるのは当然のことです。
当たり前のことを当たり前にいう事が出来ない方がおかしいのではないでしょうか。
旦那が永遠のゼロを読んでて、ショックを受けました。普通の人にじわじわと愛国的な考え方が浸透しつつある。これも、一種のブーム的なものと受けてめていいものか、考えてます。つい最近まで韓流ブームだったのと同じように。
若桑みどりさんの「戦争がつくる女性像」(←名著)の現代版だ……。なんか、更にいろいろねじれてるだけに、却って更に怖い。
人間は感情に支配される生き物だ。
男女を問わずにだ。
そして現実は常に厳しい。現実は常に感情を傷つける。
だから感情を守るために人は自分に嘘をつく。
ある人はフェミニズムという嘘をつく。
ある人は、愛国という嘘をつく。
ある人は無党派という嘘をつく。
他の人は他の嘘をつく。
自分自身の感情に嘘をつく。
つまり、嘘をつく方向に違いがあるだけで、本質的に同じであり、いずれも根本の解決に至らない。
人はどの嘘が正しいかを探してさまよい続け、正解に辿り着けない。
人類が歴史上永遠に繰り返してきた、「いつものこと」だ。
中学生の息子が君が代を口ずさんでいます。中国ウゼぇなんて言います。私がたしなめると、お母さんはきれいごとばかり言ってると聞く耳を、もちません。親子であっても、夫婦であっても政治的な意見は一致はしないものだとはおもいますが、哀しい気持ちになります。時代の空気や教育に無縁でいられない子どもに、自分の考え方を伝えたいと思いますが。むずかしさ、もどかしさを感じます。
在日朝鮮・韓国人から、「非国民で親日系」的な発言がほとんど出てこないというのが不思議だと思います。
呉善花さんのようにコテコテにならなくてもいいのですから、「一部の日本の政治家の靖国参拝があっても放っておけばいい」とか、「反韓感情を悪化させるくらいなら、日本にこれ以上の賠償要求をすべきでない」とか、「領土問題解決を国際司法機関に委ねるのもやぶさかではない」とか、「対馬で盗難された仏像は即刻返還すべきだ」といった発言が、本国のナショナリストからは「非国民で親日系」と罵倒されるかもしれませんが、ここは『「非国民」のすすめ(斎藤 貴男著)』といったタイトルの本が本屋に並ぶ程度に言論の自由な日本であるのですから、日本の「保守」側の主張の一部を認め、なおかつ本国のナショナリズム感情に水を注ぐリベラル的なスタンスというものが、民族的には朝鮮だけど文化的には日本で育ってきた在日朝鮮・韓国人からもっと色々と出てもいいと思うのですが、現実は呉さんだけが目立って、あとは大半が沈黙し、声高なのが日本に謝罪と賠償を要求するナショナリストばかりでは、自分たちに厳しい視線を向ける人々に理解されてもらおうとするのは難しいのでは?
こういった問題の解決には権利の主張でどうこうなる問題ではなく、むしろ「親日有罪」の触手が本国から伸びて在日を縛っているのかもしれませんが、権利を主張する一方で思想信条の自由が束縛されて全体主義的になっている事こそ問題とし、真のリベラル的な姿勢を回復させなければ、どこまでも深い「わからなさ」は続くでしょう。
「ネトウヨは納得のいく仕事に就いておらず、友達もほとんどいない。社会からはぐれ、満たされない気持ちや不満を、ゼノフォビア(外国人嫌悪)にかえて鬱憤晴らしをしているだけだ」
この定義というか、大雑把な認知のしかたに違和感を感じる。
予め社会から排除されてしまった人達、またそのように感じている人達に対して、敗者を見下す勝者の傲慢さすら感じとれる。
納得のいく仕事に就いていないのは、ネトウヨだけではなく多くの若者がそうです。
社会からはぐれ、満たされない気持ちや不満を持つ若者が多い事もそうです。
非正規社員をイジメ、鬱憤晴らしをしている正社員がいることも事実です。
反原発デモが始まって3年になるが、事態は改善どころか悪化の一途にある。
よって戦術を次のステージに上げる必要がある。
そこで提案である。
古代ローマの政治家、大カトーはどんな演説の最後にも
「カルタゴは滅べと考えている」と言って演説を終わらせることを繰り返した。
それが最後にはカルタゴ滅亡を実現した。
「原発は廃止と考えている」
反原発デモ参加者は、すべての会話・電話・メールの最後に、この言葉を付け加えるべし。
この「大カトー戦術」を採用することで我々は未来を必ず変える。
ということで、「経済産業省は滅べと考えている。」
強者でありたい女たちは、フェミニズムこそが女を侮辱していると考える。『被害者面する』『弱者ぶる』とは、フェミニズム嫌いの女性たちがよく言うことである。そしてそれは、愛国女性たちが元『従軍慰安婦』に向ける言葉と一語一句同じだ」
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以前、子供の病気が原因で、食品添加物を避け、自家製の加工食品を作り、予防接種(ワクチン)や薬にも気を使っているお父さんと、遺伝子組み換え食品やTPPについて話した時、彼が「僕は、遺伝子組み換え食品が出回っても良いと思う。自分は買わないだけ。それ買って食べた人は、死ねば良いと思ってます。」という意見を聞いて、ショックを受けた事を思い出しました。
すなわち、自分は、有機野菜などの安全な食品を買えるだけの収入を得ていく自信がある。これからもそうある様、最大限努力し続け勝ち組で有り続けると。勝ち残る事や健康には興味はあるが、政治的な事には興味は無いといった感じで、それ以上TPPにつて議論する雰囲気でなくなり、会話が終わってしまいました。
国民皆保険制度や原発についても、どんな感想を持っているか、今度話す機会があれば聞いてみたいと思っています。
又、別の友人は、原発も地球温暖化も核兵器廃絶も興味無い。消費税増税も法人税減税も別に良い。明日の生活で精一杯だ。大体、温暖化も嘘かもしれない。核廃絶なんか出来る訳ない、原爆ドームなんか壊してしまえ(税金のムダだ)もう、済んだことだ。(因みに彼は、被曝2世です) TVで、脱原発を訴える、坂本龍一氏や大江健三郎氏には、「金持ちが何言ってる、自分は外国に住みやがって。」と。
かなり、ここのコラムの話とずれたかもしれませんが、上記の様な空気が、日本を覆っている様な気がして、この様な人が多数になる社会は、どうなっていくのか心配ではありますが、根気強く議論していきたいと考えています。
ナショナリズムが世界平和を阻んでいます。
渡り鳥は国境を越えて1年を過ごし、自然界に国籍は存在しない。人間の考える国家や国籍は妄想でしかない。
かなしいかな、ナショナリズムを煽る日本政府に躍らされ、日本は戦争まっしぐらですね。長い日本の戦争と侵略の歴史から誰も何も学ばなかったのか・・・
ウクライナに続き、中国とベトナムが南沙諸島で小競り合いを繰り広げていますが、日本と中国、日本と韓国、日本とロシアでも国境紛争は怒りかねません。そうなると、一気に「愛国主義」や軍拡が叫ばれ、反戦平和を訴えると弱腰だとか、敵の回し者だとか言われかねず、平和憲法の理念も吹き飛ばされてしまうかも。
そうならないようにしないと、また、国民が財閥や政治家の思うままに操られて戦争に駆り出され協力し、挙句の果ては、再び惨禍を味わうことになります。
こういうときこそ反戦ですよ。
戦えば双方に死人が出ます。
交戦してはいけません。PKOしてはいけません。
武力行使手はいけません。武器で武力で暴力で平和はつくれません。弱腰だとか敵の回し者と言われてもホワイトヘルメットのように人命救助に専念し民主化を支援し殺さず殺されない選択肢を選ぶのが平和主義の日本や韓国ドイツがすべきことだとおもいます。