憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を容認する、と明言する安倍政権。首相は先日、「憲法解釈の最高責任は私にある」とも発言し、政府の法令解釈の責任を担ってきた「内閣法制局」の見解にとらわれず解釈変更を進める考えを示しました。
この動きに対し、強く反対を表明しているのが、元内閣法制局長官の阪田雅裕さん。「民主主義、法治主義の根幹を揺るがす」と警鐘を鳴らし続けるその理由とは――。コラム「立憲政治の道しるべ」でおなじみ南部義典さんに聞き手になっていただき、お話を伺いました。
1943年和歌山県生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格、卒業後の1966年に大蔵省(現在の財務省)に入省。1981年に初めて内閣法制局に出向し、86年まで第一部参事官を務める。その後、大蔵省大臣官房参事官、同審議官などを経て、1992年に再び内閣法制局へ。第一部長、第三部長、内閣法制次長などを経て2004年から2006年の退官まで長官を務めた。著書に『政府の憲法解釈』(有斐閣)、『「法の番人」内閣法制局の矜持』(川口創弁護士との共著、大月書店)がある。
1971年岐阜県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科講師。1995年京都大学卒業、国会議員政策担当秘書資格試験合格。2005年から国民投票法案(民主党案)の起草に携わり、2007年衆参両院の憲法調査特別委員会(公聴会)で公述人を務めた。著書に『動態的憲法研究』(PHP・共著、2013年)、『Q&A解説・憲法改正国民投票法』(現代人文社、2007年)がある。→Twitter →Facebook
歯止めが効かない、憲法解釈の変更
南部
前回、解釈変更によって集団的自衛権の行使を容認するのは、立憲主義の観点からも、また「政府が60年以上言い続けてきたことをあっさりと捨て去る」という意味からも許されないのではないか、というお話でした。
しかし、安倍首相は「最終責任者はこの私」だと言い、解釈変更を粛々と強行する構えです。仮にそれが実現する場合――これは、戦後日本の政治の場では、まったく経験のないことになるわけですが――どのような手続きを踏むことになるのでしょうか? 閣議決定をするのか、それとも首相が記者会見か何かをやって、「国民の皆さん、今日から9条はこういう解釈になりました」と発表するとか、国会の委員会で答弁するとか…。
阪田
いずれにせよ、先日の衆議院予算委員会で首相が答弁されたように、閣議決定は必要でしょう。今の統治の仕組み上、閣議決定なしに総理が会見で発表したとしても、それはあくまで総理の個人的見解ということにとどまります。
特に、憲法解釈を変えるとすると、当然多くの法律を改正したり、新しく制定したりする必要が出てきますが、これはもう閣議決定をしない限り、絶対にできません。政府のトップの組織というのは総理ではなくて内閣であり、各省庁がその下で分担管理をしているということなんです。法令の執行については各省の大臣が第一義的には最終責任を負いますが、そのさらに上に立つのは総理ではなく内閣なのです。
南部
なるほど。それでも、閣議の様子は国民には分かりません。昨年から国会で議論されている、閣議の議事録の作成・保存を義務化するための公文書管理法改正(※)を急ぐ必要がありますね。
あと、閣議にかけられる前の事前審査のようなものがあるとしたら、通常の立法プロセスと同じく、与党内での調整でしょうか?
※公文書管理法改正…3月4日の参院予算委員会で、安倍首相は閣議と閣僚懇談会の議事録を4月以降作成し、公表する方針を示したが、法改正は行わず、閣議決定のみで対応するとしている。
阪田
それはあるでしょう。党内というか、一応連立政権なので、与党それぞれの中での了解を得るというのが、一般的な政治手続きになるのではないでしょうか。
南部
そうすると、現時点ではそれが事実上、唯一と考えられる歯止めになるわけですね…。通常の憲法改正のように、国民投票が予定されているわけではないですし。時の政権による自由な解釈変更を認めれば、政権が変わるたびに解釈変更が繰り返されるということにもなりかねませんね。国会の憲法改正発議要件を緩和するべきとの議論と、同じようなことが懸念されます。国会、国民によるチェック、歯止めが効かないことが本当に問題です。
「先走り」の議論を重ねる安保法制懇
南部
一方で、安倍首相の私的諮問機関である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」では、非常に突っ走った議論が行われています。一般的には集団的自衛権の話ばかりがされているようにも伝わっていますが、実際には個別的自衛権や集団的安全保障の話も含め、いわゆる「4類型」(※)についてなど、個別具体的な事例について議論が進められています。直近では2月4日の会合で、マイナー自衛権(※)と呼ばれる事例の議論が追加的に行われました。これまでの動きについて、阪田先生はどう受け止められていますか。
※4類型…安保法制懇では、最初に発足した第一次安倍政権時から、「公海上での米艦艇への攻撃への応戦」「米国に向かう弾道ミサイルの迎撃」などの具体的な事例について、「自衛権行使が認められるか否か」の検討を続けている。
※マイナー自衛権…領海に外国の潜水艦が侵入した場合など、日本に対する「武力攻撃とまではいえない侵害」に対する自衛権のこと。
阪田
集団的自衛権行使容認の是非を問うのであれば、そうした議論の形はおかしいのではないかと、私は以前から申し上げてきました。
集団的自衛権の本質とは何かといえば、先にも申し上げたように外国での戦闘行為です。日本に海外からの武力攻撃があった場合は、個別的自衛権で対応可能なわけですから。その外国での戦闘行為が憲法上可能なのかという議論をすることなしに、具体的な事例を想定して並べ立てることに何の意味があるのか。集団的自衛権は行使できるという結論が出て、その上でそうした議論をするなら、「集団的自衛権の行使として、どこまで何をやれるのか」を考える上で有効と言えるかもしれませんが、現段階ではまったく無意味としか言いようがありません。
そのように、法学者もいない場での議論で、論理的に整合性のとれた法律論がまったくされていないということが、私はやはり非常に問題だと思います。
編集部
なんというか、非常に「先走り」の議論が進められているという感じでしょうか。
阪田
そうです。そもそも集団的自衛権の行使が可能かどうかという話ができていないのに、「その後」の議論を進めている。懇談会の委員たちはなぜ、どういう立場でそういうことをやっているのでしょうか。繰り返しになりますが、これまでの解釈には問題があるから変えるべきだというのなら、まずはどこが間違っていたのか、新しい解釈がどのように正しいのかをまずはきちんと論理立てて説明するべきです。そして国民に対しても、それによって何が変わるのか、日本という国が何をしていくことになるのかを、ちゃんと知らせていく必要があるでしょう。
解釈が変われば、
もはや9条は意味をなさない
南部
憲法解釈を変えることで何が変わるのかという点についてですが、憲法を、9条を守るべきだと考えている人の間にも、「解釈を変えるだけなら、条文が変わるわけじゃないしまあいいか」と考えている人は少なくないのではないかと思います。
阪田
私は、本当に必要なのならちゃんと手続きを踏んで条文を変えればいいと思っています。問題なのは、条文は変わらないにもかかわらず、9条の中身がなくなってしまう、まったく骨抜きにされてしまうということなんです。
編集部
安易な解釈変更で、9条の本質がまったく変わってしまう。
阪田
そうです。9条がこれまで、何の歯止めになってきたかといえば、前回も触れたように「海外での武力行使はできない」ということ。自衛隊は合憲だとされている今、それ以外はありません。
ここでいう「武力行使」というのは、国際法で許されている範囲内の武力行使、言ってみれば「適法な武力行使」です。それを超えた、例えば侵略戦争のようなことは、どの国だってできない。全世界的に許されません。実態はともかく、少なくともどの国も「侵略戦争だ」と言って武力行使はできないわけです。
となると、9条が持つ意味というのは、「国際法上は適法な海外での武力行使」に歯止めをかけているということだけ。解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認したら、それもできるようになるわけで、そうしたら9条はいったい何の歯止めになるんですか、ということです。
編集部
条文こそ残っていても、もはや何の意味もない存在になってしまうんですね。
阪田
もちろん、これまでにもPKOへの参加や、周辺事態安全確保法などで、相当きわどい部分はありましたよ。それでも、9条が海外での武力行使を禁じている関係で、「(他国の軍隊の)武力行使と一体化しない」ことを条件としたり、武器の使用を制限したり、一定の歯止めにはなっていた。それがなくなれば、「一体化していない」とか面倒なことを言わなくても、少なくとも憲法との関係では地球の裏側にだって部隊を送って戦闘をすることができるようになるわけで、これは日本がずっと掲げてきた「平和主義」とはだいぶ違うんじゃないかということですよね。
編集部
武力行使ではない、国際貢献としての自衛隊派遣はこれまでにも行われていたわけですが、そこの位置づけも大きく変わってきますよね。
阪田
戦闘行為をするということになればまず、自衛隊員に犠牲が出る可能性は非常に高いですよね。それから、国際紛争の当事者になるということで、自衛隊への、そして我が国への国際社会からの評価、見る目が変わってくるということも当然あるでしょう。
そのあたりのことも知ったうえで、国民がしっかりイエスかノーかを判断することが重要です。平和主義がいいのか悪いのかという以前の問題で、国民がこれまで「日本の平和主義とはこういうものだ」と認識してきた、いわば“憲法的確信”ともいうべきものを、一内閣が気に入らないからといってころっと変えていいのか、ということですね。
南部
イデオロギーや政治的立場によらず、誰もが考えてみるべき問題だと思います。憲法解釈の変更を受けて、法律がどう変わり、その運用がどう変わっていくのかということを含めて。
阪田
そのとおりです。集団的自衛権と言われても、消費税の問題などとは違ってなかなかぴんと来ない部分はあるでしょう。でも、このままいけば、「こんなはずじゃなかった」と後悔するときが来ないとはいえない。そのときに大騒ぎしても後の祭りなのではないでしょうか。
(構成・仲藤里美/写真・塚田壽子)
「解釈の変更」だといわれると、条文自体を変えるわけではないのだから、そんなに大きな変化はないのでは? と思ってしまいがち。けれど、今進められようとしている解釈変更は、9条の条文に書かれた内容そのものをまったく無意味にしてしまう、と阪田さんは指摘します。しかも条文改正の際には必要な、国民投票などの手続きを踏むことさえなく。
戦後日本の象徴だった「平和主義」を、私たちはこんなところで、こんな形で投げ捨ててしまうのか。少なくとも、国民的議論も何もなく一内閣の決定だけで強行されていいレベルの話であるはずはありません。阪田さんが言うように、後戻りできなくなってから大騒ぎしても「後の祭り」なのです。
九条には、「戦争は放棄する」と書いてある。しかし、今の日本は、「防衛戦争は放棄しない」と解釈改憲をしている。同じく、「戦力は保持しない」と書いてあるのに「戦力は保持してもよい」と解釈改憲している。これは、「人を殺してはいけない。ただし、これは、女の人は殺してもよいと解釈できる」と言うのと同じくらい出鱈目な論理である。今の日本が九条を守っていないことは、日本国民全員が口には出さないが、心の中では認めている。今、この投稿を読んでいる人の中で、嘘発見器の前で、「今の日本は九条を守っている」と言える人がいるだろうか。いたとしたら、その人は、「平気でうそをつける人」である。護憲論者はなぜ、九条に書かれている通り、一切の防衛戦争も、防衛のための戦力も否定しないのか。それをしないで、集団的自衛権は九条違反だなどと言うのは、九条のつまみ食いである。九条を守れば、一人の自衛隊員も、一円の防衛予算も認められない。しかし、そんなことを実行すれば、国家が成り立たなくなるということも日本国民全員は分かっている。憲法を守れというなら、九条は廃止するのが最善の選択である。それもいやで、九条を守りたいというなら、今のように、必要に応じて九条を破り続ける、つまり、解釈改憲をし続ける、これが次善の選択である。
本来国家には、国家が独立して存立する権限を自然権として有しています。9条で禁じているのは、武力による威嚇であり、国家の存立に関わる自衛権とは無縁の問題です。
従って本来自然権として成立する自衛権は憲法の記載如何に関わらず存在し、その実効手段として如何なる手段を選択するかは、その国の主権の問題として存在するべきなのです。
つまりその意味に於いて自衛権は存在し、自衛権を行使する自衛隊は、憲法に合致する存在になり得ます。
全く同様、同等の意味合いで、国家間に置ける集団的自衛権も存在します。その事は国連憲章にも明記されており、世界も共通認識として認めているところです。
然し、その集団的自衛権を行使するかどうかは、国家主権の問題であり、選択の問題です。
その選択をこの国は、宣言して、戦後68年間行使してこなかったのです。其れも又国民の選択であり国民に支持されてきた内閣の方針だったのです。
これは謂わば先例主義の問題であり、その先例を簡単に変えてしまうようであるならば、民主主義のルールは否定され、内閣の独裁を許してしまう悪しき前例を残すことになります。
これは、謂わば民主主義の否定であり、破壊なのです。
こんなことを許してはなりません
続きです。
この国は一体戦争が出来る国なのでしょうか。アメリカはこの国を被害無く守ることが出来るのでしょうか。
そもそもこの国は戦争が出来ない国なのです。先の戦争の失敗の例を見るまでもなく、資源もエネルギーも食料もなくて、どんな戦争が出来るのでしょうか。
戦争とは憎悪の再生産装置です。兵士が戦場で、隊列を整えてする戦争などではありません。
尖閣で、陣取り合戦をして、勝った負けたで戦争は終わるのでしょうか。
アフガンやイランやイラクで戦ったように、我が国が、戦争を出来るでしょうか。
戦争が戦場に留まるというのは、アメリカの戦争だけです。アメリカという他国を圧倒する戦力がある国が、他国に赴いてする戦争は、アメリカ本土が、戦場になることはありません。然しその戦場となった国はどこも徹底的に破壊されます。日中戦を始めたら、この国は3発のミサイルで国家機能が喪失します。ゲリラが、海から侵入して、原発を爆破すれば、国家機能停止します。東京という途方もない脆弱、50基を超える原発、張り巡らされて交通網、通信網、そのどの一つが破壊されても、深刻な打撃を受けます。
中国に、1000発のミサイルを撃ち込んでも、国家の要人を一人として殺すことなど出来ないでしょう。
北京を潰しても、上海を潰しても、それでも 広大な国家と、膨大な人民は手つかずで残ります。
そんな国とどうやって戦争をしたら、勝ち目があるというのですか。
鄧小平は、100万人が死んでも中国は揺るがないと言いました。中国の要人は、国民を殺すことに躊躇がないのです。非難されることもないのです。一億死んでも、12億残ると言います。
韓国を叩くことは可能でしょう。でも世界から非難されるのはこの国です。それにしても、深刻なゲリラ戦を覚悟しなければなりません。終わりのない戦いです。其れこそが、憎悪による戦いだからです。
戦争をしてはいけないのです。この国は、戦争をしないことを宣言して、丸腰で世界中に飛び出して、商売をしてきた国なのです。その世界では、武力は全く役に立たないのです。
我が国を守る唯一の方法は、敵を作らないことなのです。中国も韓国も敵ではありません。尖閣問題を創り出したのは、民主党の未熟な政治と、靖国を煽って、対立を煽った安倍晋三という政治家の仕業なのです。安倍以前に、日中の対立はありませんでした。日本中の企業がこぞって中国に投資し、協調して利益を得る構造を創ってきたのです。尖閣に火を付けたのは石原ですが、彼も全く間違った政治家です。
周恩来は、尖閣を未来に托そうと言いました。実効支配をしていた日本の政治家はその事に反論しませんでした。反論しないことで、問題にしないという選択をしたのです。慰安婦問題で、河野談話を発表しました。其れは、この国に責任があったかどうかではなくて、慰安婦がいたという不幸を共感することで、過去を清算しようとしたのです。其れは、慰安婦は、売春婦だから、日本国に何の責任もないなとど突き放して刺激しないという政治の選択の問題なのです。竹島も、解決の付かない問題です。北方四島とは明らかに違う問題があります。その事を歴代の政治家は譲ってきたのです。
外交はそうやって動いていきます。其れこそが敵を作らない国家の知恵なのです。
この国が敵を作らないという政治を進めてきたから、イスラムのテロに襲われることもなく、世界中から信頼されて繁栄を謳歌してきたのです。
集団的自衛権とは、つまり敵を作るという宣言に他なりません。そんなことをすれば、この国は取り返しの付かない破滅に引き込まれます。そんなことを認めて良いのですか。
この国は、平和憲法があるから、湾岸戦争に与しませんと宣言しました。其れこそ正しい選択だったのです。だから、テロの恐怖に怯えることもありません。
この国の平和憲法は、言葉で、紛争を解決する力と説得力を持っています。その力を信じましょう。
其れがこの国の国是です。