1)
「あの日以来、自分のなかで時間が止まってしまった」――妻がくりかえし私に述べてきた言葉です。
実際、沖縄県G村の両親の家に転がりこんでからというもの、私たちはしばらく放心状態のままで過ごしていました。緊張の糸がふつりと切れて、自分にカツを入れようとしても、なかなかその気力が湧いてこないのです。
容易に拭うことのできない脱力感……しかも弱ったのは、夜になると決まって地震の恐怖がよみがえることでした。なにしろ布団に横になるたびに、体の芯のほうから船酔いにも似た感覚が込みあげてきて、いまだに自分のなかにあの地響きの余韻が残っていることに気づかされるのです。
「この家が揺れてるわけじゃないよね?」
真っ暗になったテレビルームで、寝息をたてる娘ごしに妻と二人してささやきあったものでした。
寄る辺ない心持ちは、思わぬ方向から拍車が加えられることになりました。カーテン一枚で隔てただけの隣室で寝起きする私の祖母が、夜中の二時をまわった頃から目が冴えるらしく、おもむろに起きだしてきては、生白い蛍光灯の明かりをともし、自室や私たちの布団のまわりを徘徊しはじめるのです。これが痰を吐いたり、ポータブルトイレで用を足したりすると大変です。せっかくうとうとしかけていた私たちも、一気に頭のなかが引っかきまわされることになります。
「いつまでもじょぼじょぼと出るねえ……」
「おばあちゃん、寝る前にお水をがぶ飲みするのよ。たくさん水分を取ると、ボケませんからネって言ってた」
とはいえ、どんなに心細く頼りない気分になろうとも、落ちのびて来たこの場所でやるべきことは、次々に降りかかってきました。
勝手の分からない家のなかで、物の置き場所をひとつずつ覚えていく必要がありました。こまごまとした生活必需品を買いそろえたり、家や車などの合いカギをつくりに出かけたりもしました。G村では、ささいな用事を済ませるのにも車が不可欠なのですが、私の母も義父もそれぞれ遠方に出向く仕事をしているので、彼らの通勤の合間を縫って、慌ただしく外出や帰宅をくりかえさなくてはなりませんでした。
何よりも苦労したのは、娘の保育園探しと、もうすぐ生まれる子供の産院探しでした。両親はG村のことにひどく無案内だったので、大切な情報を得るにはほとんど頼りにならなかったのです。あちこちの保育園を訪ねまわりましたが、どこも満員だったり、「住民票がないと受け入れはできない」と断られたりしました。また、産科に関しても、近所によい病院が見つからず、高速を経由して1時間もかかるところまで下見に行かなければなりませんでした。
いったいどこに娘を預ければいいのか……
どこで赤ん坊を生めばいいのか……
五里霧中の状態で、ただ時間ばかりが過ぎていきました。そんななかで妻の不安と苛立ちが募るのは、当然のことだったろうと思います。とうとう妻ははっきりと私に異を唱えはじめました。
――あなたは二言目には「危険だ」と言うけれど、ほんとうに宇都宮はそこまで危険なのかしら? わたしの知り合いでそんなことを言っているひとは、ひとりもいないのよ。あなたの取り越し苦労だったらどうするの? ここまでして沖縄に留まらなければいけない理由が、わたしにはどうしても理解できない……
私も自分の考えをごり押しするつもりはありませんでした。そもそも三月半ばから下旬にかけては、確かな情報があまりに不足していて、何が正しくて、何がまちがっているかなどということは、誰にも明言できなかったはずなのです。
ただ一点だけ、私のなかで引っかかることがありました。それは報道の前面に出てくる人たちが、異口同音に「大丈夫! 大丈夫!」と力説していることでした。三つの原子炉で爆発事故が相次ぐという前代未聞の出来事が起きているのに、いったい何の根拠に基づいて、かくも自信ありげに断定できるのだろう?……私は形容しがたい気色の悪さを感じながら、こう自問したものでした。
私はだいたい以下のようなことを妻に伝えました。
――確かに僕らは大騒ぎしすぎたかもしれない。なりふり構わずに逃げだしたことで、今後は知り合いや親戚たちから笑い話の種にされてしまうかもしれない。ただ、まだ何も確実なことが分からない今の状況では、わざわざ宇都宮まで戻って、Kちゃん(娘)や赤ん坊をリスクにさらすわけにはいかないよ。しばらく沖縄で腰を据えて、じっくりと事態の推移を見届けたほうがいいのじゃないか?……
2)
そうこうするうちに、妻のお腹が目に見えて膨らみはじめました。もともと大きかったのが、さらに前へ前へと突きでてくるのには、傍らで見ていても驚かされました。何をするにも億劫で仕方がないようで、しきりに腰に手をやってはゼェゼェ息つぎばかりしているのです。四年前に娘を妊娠したときよりも、はるかに高くとんがってくるので、通りですれちがうオバアたちからは、「お腹の子、男だね!」などと指摘されたりもしたようでした。
そんななかで、ささいではあるけれど、忘れがたい出来事が重なりました。
いつまでも産院が決まらないことに弱気になった妻が、なんとはなしに宇都宮の知り合いのひとりに電話をかけてみたところ、よそよそしい返事が返ってきたというのです。
「あなたはもう、別の世界に逃げてしまったひとでしょ?」――電話口から、濃厚にそんな雰囲気が漂ってきて、気楽な世間話もできなかった、と妻はこぼしていました。たまたまタイミングが悪かったということもあるのでしょうが、彼女がショックを受けたことは紛れもない事実でした。
とうとう妻は、義父の家の庭先で声をあげて泣きだしてしまいました。
――なんであたしはこんなところに来てしまったんだろッ! どうして言われるままに逃げだしてきてしまったんだろッ!
そんなふうに恥も外聞もなく嗚咽する母親の様子を見かねたのか、そばまで駆け寄って来た娘が、耳元でこんな言葉をささやいたのだそうです。
――あのね、オカアサン。ウツノミヤ、ゆれゆれだし。ドクのケムリ、きてるし。Kちゃんね、みんなでにげて、よかったって、おもうよ!
三歳になってから、急に生意気な発言の増えていた娘でしたが、この日ばかりは目の前で打ちひしがれる妻に対して、そっと寄り添うような仕草を見せたというのです。なぜ私たち家族が逃げてこざるを得なかったのかを理解したうえで、娘なりに精いっぱいの思いやりを込めて慰めようとしたのでしょう。私たちの知る限り、娘がそんな大人びたふるまいをするのは、初めてのことでした。
***
ただ、こうして私たちが目の前のことで右往左往している間にも、原発事故はいよいよ重大な局面を迎えつつありました。
そこにリスクがあるにしても、
「住み慣れた土地を離れる」ことの重さ、大きさは計り知れない。
いったいどれほどの人が、今回の原発震災で、
苦渋の決断を迫られたのか。
そう考えると、改めて愕然とさせられます。