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この潜水服姿で海底に潜り、若き隊員たちは訓練を重ねた。
背中には150気圧の酸素ボンベ2本と空気清浄缶を背負う。
命にかかわる装備にも関わらず、見た目にもちゃちなものだったという。
(防衛庁防衛研究所図書館提供)
60年前、日本の国土が徹底的に破壊し尽くされた戦争が終わりました。その戦争の末期に、「伏龍」という特攻隊が存在していたことを知っている人は少ないと思います。
伏龍とは、本土決戦の秘密兵器として考えられた特攻隊です。怒濤のように押し寄せるであろう米軍の上陸用舟艇を、水際で迎撃するはずでした。
海底に伏する龍。ネーミングはなかなか格好のいいものです。しかし、与えられた任務は厳しいものでした。潜水服を着た兵隊が水中に待機し、敵の船が来ると浮上して、竹さおの先に付けた機雷をぶつけて自爆する。そのように、あまりに過酷な任務を背負った海軍の部隊だったのです。“フィクション”ではありません。本当に実在した特攻隊なのです。
私は、4年前から「伏龍」の取材を始めました。ずっと新聞社で事件記者をやってきたので、残念ながら戦争のことを本格的に取材する機会がありませんでしたが、病気したのをきっかけに、少し自由な立場で取材できることになったのです。
新聞連載後も、地道に元隊員ら関係者から取材を続け、ことし6月末に『人間 機雷「伏龍」特攻隊』(講談社)という単行本にまとめることができました。しぶとく取材を続けた理由は、「伏龍」という特攻隊には、戦争のばかばかしさ、戦争指導者の醜悪さが凝縮されているからでした。
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伏龍の部隊が正式に編成されたのは、終戦直前の昭和20年8月5日ですが、実際の訓練は、同3月ごろから始まっています。終戦時には横須賀鎮守府の久里浜・
野比、呉鎮守府の情島、佐世保鎮守府の川棚で、計3,000人近い若者が潜水訓練を受けていました。
このうち、横須賀の部隊(71突撃隊)の訓練拠点だった三浦半島の久里浜、 野比海岸は、最大の根拠地でした。
司令や大隊長というトップを除くと、最前線で指揮を執る士官は、職業軍人である海軍兵学校卒の士官は多くなく、予備学生出身者が大半を占めていました。予備学生というのは、大学や専門学校に通っていた学生が海軍に志願し、短期間の訓練を受けた後、士官になる制度です。戦争の規模が拡大し、職業軍人だけでは足りなくなったわけです。
そして実際に機雷を抱いて自爆する兵の主力は、海軍飛行予科練習生(予科練)の出身者でした。搭乗員になる教育を中途で打ち切られた十代の少年飛行兵が多数を占めました。大空を飛翔することを夢見ていた少年たちが搭乗できる飛行機はもうなくなっていたのです。予科練とは別に、徴兵年齢に達する前に、海軍を志願した若者も数多くいました。
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そのようにして集められた16、7歳の少年たちを待っていたのは、文字通り死の訓練でした。潜水具の構造上の欠陥から、訓練中に殉職者が相次いだのです。
隊員は、はき出した呼気をカセイソーダで浄化する清浄缶を背負って潜水していましたが、潜水服や頭にすっぽりとかぶるカブトに海水が浸水してくると、大変なことが起きました。水と反応したカセイソーダは化学反応を起こし、沸騰するほどの高温になり、潜水カブトの中に逆流してきます。沸騰したカセイソーダを飲み込み、胃や食道を焼かれ苦しみながら死んでいきます。また呼吸方法を間違えると炭酸ガス中毒になり、すぐに意識を失ってしまいます。
証言を総合すると、犠牲者は数十人になると思われますが、部隊の編成表をはじめ、機密文書の多くは敗戦直後に焼却処分され、殉職者の総数などは現在に至るまで分かっていません。
「伏龍」の存在が知られていないのは、本土決戦がぎりぎりで回避されたためです。陸軍の主流派は「一億玉砕」「一億総特攻」を叫んでいました。広島、長崎に原爆を相次いで落とされ、不可侵条約を破ってソ連が満州に侵攻してきて、やっと戦争を終結することになりました。最後は昭和天皇の「聖断」でようやく収拾が図れたのです。
関係者の取材を進める中で、この“作り話”のような「伏龍」の構想を、実際に考え出したのは、海軍軍令部第二部長の黒島亀人少将(当時は大佐)だったことが分かりました。
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驚くことに「伏龍」は、乗るべき飛行機がなくなり、「余剰人員」と化していた予科練生たちを「有効利用」するために考えられたという面もあったというのです。余ったから人間機雷にしてしまえという、転倒した発想です。
戦時中、兵隊の命は「一銭五厘」より安いと言われていました。「一銭五厘」
は兵士を召集する当時のはがきの値段ですが、「伏龍」のことを知れば、日本の軍隊は一兵士の命をものすごく軽視していたことが実感できると思います。
黒島少将は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃作戦を立案した参謀です。連合 艦隊司令長官・山本五十六大将の懐刀の「頭脳」から生み出されたのは「戦争末期のあがきとも考えられる誠に悲しむべき兵器」(『海軍水雷史』)であり、「窮余の一策から生まれた最も原始的な竹槍戦術」(元海軍省軍務局員の手記)だったのです(ちなみに黒島少将は爆装モーターボート「震洋」など数多くの特攻兵器を考案しています)。
ことしの夏も、野比や久里浜湾ではウインドサーフィンや水遊びに興じる若者たちの姿が見られます。同じ海岸で、彼らと同年代の少年兵たちが、死と隣り合わせの訓練を受けていたことを知る人はいないでしょう。
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戦後60年たって戦争体験は確実に風化しています。70年目には直接の体験を語れる人はとても少なくなっていることは明らかです。
「憲法から血の色があせた時、日本は再び戦争に向かうだろう」。沖縄戦でひめゆり学徒兵を引率した元教師はこう言ったそうです。憲法9条の改定に賛成する人が増えているのも、戦争体験が遠くなっているからだと思うのです。
私が「伏龍」の本を書いたのも、戦争体験を風化させたくないという思いからです。わずか60年前、祖国を守ろうと死を覚悟していた兵士の命がここまで軽んじられていたことを、多くの人に知ってもらいたかったのです。
今、とても重要だと思うのは、戦争を知らない世代がいかに戦争体験を受け継いでいくか、ということです。年月が経てば体験が風化するのは当然のことです。それを次の世代がさまざまな形で、受け継いでいかなくてはならない。
そういう地道な作業を怠ると、あの戦争は正しい戦争だったという「自尊史観」が幅をきかせ、それが歴史教科書の主流の見解になっていきます。その足音はすぐそこまで迫っているのです。
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瀬口 晴義(せぐち はるよし)
1964年生まれ。東京都出身。
1987年、中日新聞(東京新聞)入社。
宇都宮支局を経て1992年より社会部記者。
検察・裁判担当をはじめ教育問題を担当してきた。
著書に『検証 オウム真理教事件』(社会批評社)。
東京新聞において、戦後60年企画「記憶 新聞記者が受け継ぐ戦争」を担当している。
←『人間機雷「伏龍」特攻隊』(講談社)/戦争末期、各地で秘密裏に組織された「自爆作戦」。人間機雷「伏龍」もその一つである。いかにして組織され、どのような訓練が行われていたのか。徹底取材でそれらが明らかにされている。 |
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