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こども医者毛利子来の『狸穴から』:バックナンバーへ

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「マガジン9条」の発起人の1人でもある小児科医、「たぬき先生」こと毛利子来先生。
お仕事や暮らしの中で感じた諸々、文化のあり方や人間の生き方について、
ちょっぴり辛口に綴るエッセイです。

こども医者毛利子来の『狸穴から』(11)

もうり・たねき(小児科医) 1929年生まれ.岡山医科大学卒業。東京の原宿で小児科医院開業。子どもと親の立場からの社会的な発言・活動も多い。「ワクチントーク全国」元代表、「ダイオキシン環境ホルモン対策国民会議」元副代表などを経て、現在は雑誌「ちいさい・おおきい・よわい・つよい」編集代表、『マガジン9条』発起人などを務める。著書に『ひとりひとりのお産と育児の本』(1987,毎日出版文化賞)、『赤ちゃんのいる暮らし』、『幼い子のいる暮らし』などがある。最近は、友人でもある小児科医・山田真氏との共著である『育育児典』(岩波書店)が、評判を読んでいる。HP「たぬき先生のお部屋」

だれがやっても同じか

 「だれがやっても同じ」という話をよく耳にする。
 とりわけ床屋や居酒屋で、聞かされることが多い。
 たいていは、話題が政治に及んだときだ。つまり、だれが首相になっても、どの政党が政権を取っても「同じ」、世の中は変わらないという意味で語られる。

 一瞬、「う〜ん、そうかなあ」と、強い反発を覚える。
 そのくせ、黙り込んでしまうか、もしかすると「そうだよなぁ」と応じてしまう。確かに「だれがやっても同じ」状態がずっと続いていることは否定できないからだ。
 そして、内心では、そんなふうに迎合している自分がイヤになっている。その迎合こそが「だれがやっても同じ」状態を許しているのではないかという嫌悪感だ。

 だが、しかし、この世間では、他人のいうことには逆らわないほうが無難。その場の雰囲気を壊すだけでも、まずいみたいだ。
 世間ずれしていない若者の間でさえ、「空気を読めない」やつは仲間はずれにされるというではないか。

 どうやら、他人と違うことは危険と思われているらしい。少なくとも、礼を欠くと思われているのだ。
 そんな恐れが、「だれがやっても同じ」思想の根っこに、蔓延っているのにちがいない。
 だからこそ、身近の町内会やPTAの役員の選考にしても、前任者を引き継ぐ人事をくり返すのが通例になっているのだろう。

 それに、そもそも、その「だれ」というのからして、怪しい。
 ほんとうに「だれでも」というわけではなさそうだ。
 およそは、身内か仲間か、そうした通じ合う者どうしの間から選ばれている。政治でいえば、まさに「同じ」政党から首相が出てくるのだから、「だれ」が出ても「同じ」で不思議ではない。

 しかも、その「だれ」の中に、自分は入れてなさそうなのが奇妙でもある。
 それは、自分をないがしろにすること。全てを他人に預ける態度にほかならない。それでいて、陰では悪口をいっているのだから、卑屈でさえある。

 やっぱり、「だれがやっても同じ」という考えは間違っている。 そんな投げやりから脱しなければ、世の中は変わりようがない。 「だれがやっても同じ」と嘆く裏には、世の中に変わってほしいという願望が張り付いているはずだ。
 その願望を夢想に終わらせないために、多少ともの勇気を持ちたいものだと思う。

「だれがやっても同じだからね」。
これまた、誰もが何気なく口にしてしまっていそうな言葉です。
本当に「同じ」なのか、「同じ」のままでいいのか、
口に出す前にちょっと立ち止まって考えてみませんか。
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