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こども医者毛利子来の『狸穴から』:バックナンバーへ

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「マガジン9条」の発起人の1人でもある小児科医、「たぬき先生」こと毛利子来先生。
お仕事や暮らしの中で感じた諸々、文化のあり方や人間の生き方について、
ちょっぴり辛口に綴るエッセイです。

こども医者毛利子来の『狸穴から』(4)

もうり・たねき(小児科医) 1929年生まれ.岡山医科大学卒業。東京の原宿で小児科医院開業。子どもと親の立場からの社会的な発言・活動も多い。「ワクチントーク全国」元代表、「ダイオキシン環境ホルモン対策国民会議」元副代表などを経て、現在は雑誌「ちいさい・おおきい・よわい・つよい」編集代表、『マガジン9条』発起人など務める。著書に『ひとりひとりのお産と育児の本』(1987,毎日出版文化賞)、『赤ちゃんのいる暮らし』、『幼い子のいる暮らし』などがある。最近は、友人でもある小児科医・山田真氏との共著である『育育児典』(岩波書店)が、評判を読んでいる。HP「たぬき先生のお部屋」

「センセイ」の耐えられない軽さ

 「センセイ」は、耐えられないほど軽い。 街で「センセ〜イ」と叫べば、10人中3,4人は振り向くという。

 こうまでなると、もはや滑稽だが、そんな「センセイ」の中に尊大さをひけらかすお人がおられるのを見ると、その軽さに耐えられなくなってしまう。

 それも、医者とか教師とか、限られた相手だけに尊大に振る舞っているのなら、まあ威張らせておけですますこともできるだろう。

 だが、ことが政治とか行政とか、国民全体に多大な影響を及ぼすセンセイともなると、その軽さを笑ってすますわけにはいかない。

 とんでもない失言が相次ぐ政治家は、多少は咎められているから、ここでは問うまい。 ここで問いたいのは、審議会とか懇談会といった政府や役所が設ける会議に出席なさる学者や有識者と呼ばれる人たちだ。

 そういう人たちは、どうやら自分では気づかずに、奉られている。「有識者」ときたら、まるきり煽てではないか。そんなふうに呼ばれて喜んでいる人は、脳天気の見本といえる。

 なのに、彼らは、その自覚はなく、威張り続けているようだ。

 現に、ぼくが市民運動の連中と一緒に厚生労働省に文句をつけに行くと、およそ「センセイがたのご意見を聞いて」と返事されて終わりになってしまう。

 この際「センセイがた」というのは、厚生労働省が頼りにしている専門家のこと。たいがいは審議会など諮問機関のメンバーだが、非公式に意見を聞く専門家もいるらしい。

 つまりは、市民運動の訴えよりも、専門家の意見のほうが上位に置かれているわけだ。

 ならば、専門家が一堂に会した審議会は、よほどきちんとした検討がなされているにちがいない。そう思って、ある審議会を傍聴して、ぼくは唖然呆然とした。

 それはインフルエンザ予防接種の効果を検討する会議だったが、ほとんどまともな資料はなく、意見の交換も乏しい。あげく、某教授が、なんと、「効くと信じてやればいいのよ」と言いはなったのだ。

 ああ、こんなことで、国民が大きな関心をもつ予防接種行政が決められてよいのか。

 ただ、そうした不満をそらすためだろう、その後は、審議会に当事者を参加させることが少しは行われだしてはいる。当事者というのは、予防接種でいえば、接種を受ける側、接種による被害を受けた被害者、そして市民運動などだ。

 ところが、それも、いちがいに進歩とはいいがたい。少なくとも、ぼくの体験では、審議会に参加しても、ただ短時間発言させてもらえるだけ。討議に参加しようにも、およそ黙殺されてしまう。

 こんな有様では国際的な非難を浴びると思ってか、最近は、パブリックコメントと称して、ネット上などで、意見の公募もなされるようになってはきている。だが、しかし、予防接種に関するかぎり、コメントが生かされた実感は全くない。

 要するに、こうした当事者を参加させる仕掛けは、本質的に「下々の意見を聞き置いた」というポーズにすぎない。いわば「ガス抜き」の仕掛けなのだ。

 「センセイ」は、当事者と同等か、むしろ下位に置かれなければならない。
 そうしないかぎり、この国の民主主義は本物にならないと思うことしきりだ。

きちんと当事者のほうを向き、その声に耳を傾けた上で、
「有識者」としての役割を果たそうとしている「センセイ」たちは、
果たしてどのくらいいるものなのでしょうか。
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