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2013-07-17up

マガ9対談:鈴木邦男さん(作家・評論家)×想田和弘さん(映画作家)
「この国はどこへ向かっていくのか」
その2:政治家の最大の役割は、「どんな手を使っても戦争をしない」こと

この夏、全国で公開中の映画、想田和弘監督の『選挙2』。ある地方議会選挙の様子を通じて、日本の政治の、そして社会の「今」を焙り出す内容に、 注目が集まっています。自民党圧勝との報道が続く参院選を経て、この国はどこに向かっていくのか。私たちは、それに対して何ができるのか。想田監督と、連載コラム「愛国問答」でおなじみ鈴木邦男さんとの対談から考えます。

鈴木 邦男(すずき・くにお)1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

想田 和弘(そうだ・かずひろ)映画作家。ニューヨーク在住。台本やナレーションを使わないドキュメンタリー「観察映画」作品に『選挙』(07年)、『精神』(08年)、『Peace』(11年)、『演劇1』『演劇2』(12年)がある。最新作『選挙2』が全国で公開中。著書に『精神病とモザイク』(中央法規出版)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs. 映画』(岩波書店)がある。「マガジン9」では『映画作家・想田和弘の「観察する日々」』を連載中。公式サイト:映画作家・想田和弘 OFFICIAL WEBSITE

●自由のない自主憲法より、自由のある押しつけ憲法を

編集部  さて、参院選の争点の一つとされている「改憲」ですが、想田さんは自民党が昨年4月に発表した「日本国憲法改正草案」の危うさ、とんでもなさについて、マガ9掲載のコラムなどでもたびたび取り上げられていますね。

想田  最初、「国防軍の創設」が明記されたということについてはかなり騒がれましたよね。僕も最初は「そこだけが問題なのかな」と思ってたんですけど、ネットで検索して自民党のホームページに掲載されている草案の全文を読んでみて、「なんじゃこりゃ」とぶっ飛んだんです。僕たちの基本的人権が制限されるような改変があちこちにある。それなのに、そのことが全然話題になっていないし、ほとんど報道もされないということに、現実的な危機感を持ったんですね。それでツイッターでいろいろ発信したりするようになったんですけど…。

鈴木  おっしゃるように、あの改憲案では、いろんな権利や自由が抑圧されますね。しかも、国防軍の問題もそうなんだけど、前文にも戦争に対する反省の言葉などがまったくなくなってしまっている。それも酷い話だなあ、と思います。さらには、96条――憲法改正のルールを政府が自分たちで変えようというせこい話まであって。
 僕はもともと学生時代から「アメリカに押しつけられた憲法はダメだ、自主憲法をつくろう」という意見でした。でも、今の自民党改憲案が通ったら、アメリカが戦争をするときには国防軍を出すなど、さらにアメリカに従属した国になりかねない。今言ったように自由も権利も抑圧されるし、それなら僕は自由のない自主憲法より自由のある押しつけ憲法を取る、と言っているんですよ。

想田  押しつけ憲法というのも、押しつけられたのはその当時の支配者階級であって、民衆ではないんじゃないかと僕は思っています。権力者にとっては大日本帝国憲法のままのほうが都合がよくて、だからGHQが「改憲案をつくるように」と言ったときにも、それとたいして変わらない案しか出てこなかったんでしょうけど。
 だって、例えば日本国憲法14条に、人種や信条や性別、身分や門地によって差別されない、貴族制度は廃止するという文章がありますけど、それで困る一般の民衆っていないですよね。あるいは、24条の「両性の本質的平等」が出てきたときに、「平等じゃ困る」って怒る女の人はあまりいなかったでしょう。「押しつけられた」のはあくまで特権階級や男性、つまりは権力の側にいた人なんだと思うんです。
 僕は、今の憲法が自分の権利を抑圧してると感じたことは一度もありません。もちろん、例えば同性愛者にとっては24条が抑圧になるかもしれないとか、改善の余地はあると思うけれど、おおかたの部分において、憲法があるから自由にできない、権利が抑圧されているということはないと思います。制定過程がどうあれ、「押しつけられた」と実感として感じない。逆に言えば、自民党の改憲案をつくったような人たちが「押しつけられた」と感じるのは、憲法があるから自分たちの権力が十全に振るえない、民衆を自由に支配できないと思っているからじゃないんでしょうか。

●戦争の「やられる側」になることが、想像できなくなっている

編集部  また、自民党改憲案では、第3条に「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」とあり、日の丸・君が代に対する強制もさらに強まっています。鈴木さんは、以前から「強制には反対」だと主張されていますが…。

鈴木  もし僕が首相だったら、まずその条項のもとに、在特会のデモなんか全部禁止しますね。あれは日の丸をまったく尊重してないですよ。僕らも街宣をやっていたころはそうだったんですが、汚れた日の丸の旗をぐちゃぐちゃに立てていたりして。日の丸に失礼な話ですよ。
 あと、卒業式や入学式で強制するなんていうのも、日の丸・君が代をむしろ侮辱していると思います。そもそも、『君が代』って難しい歌だから、大して練習もせずにみんなで歌おうとしても、全然合わない。それじゃとても国歌を尊重しているとは思えないんですよ。

想田  鈴木さんが君が代や日の丸を好きだというのは、どういう感情なんですか? もしあれが、違うデザインの旗だったり違う歌だったりしても好きなのか、それともあの旗であの歌だから好きなのか…。

鈴木  違うものでもいいと思いますよ。極端に言えば、国歌も国旗もなくてもいいと思います。だって、君が代も日の丸も明治維新以降にできたもので、それ以前の歴史のほうが圧倒的に長い。国旗国歌がなかったら日本じゃないなんて思いません。
 日の丸って、もともとは江戸幕府が開国して外国と貿易をするときに、船に「日本の印」が必要だからと使い始めたものなんですよね。だから、幕府軍対薩長軍の戊辰戦争のときには、幕府軍が日の丸を掲げて、薩長軍は錦の旗を使っていた。でも、その後戦争に勝って明治政府を成立させた薩長の人々は、なぜかそれまで「賊軍の旗」だったはずの日の丸を日本の旗として使い始めるんです。錦の旗はさすがに畏れ多いとでも思ったんでしょうが、倒した敵軍の旗を自分たちの旗にするなんて、世界でもなかなかないことじゃないでしょうか。
 君が代も、誰がつくったのか正確にはわからないような歌ですし、いいかげんというか、やっぱり寛容な国だなあと思いますね(笑)。そういう意味で僕は日の丸も君が代も好きなんです。

想田  天皇制についてはどうですか。

鈴木  僕は、あったほうがいいと思っています。天皇制の成り立ちはともかく、いろんな意味で日本が全体主義になるのを阻止する力になってきた民族の英知だと思う。日本でヒットラーやムッソリーニが出なかったのは、天皇制があったからだと僕は思っているんです。
 かつて、日本は戦争に反対する天皇の意思を超えて戦争に突入したけれど、戦争をやめるにあたっては天皇の決断が大きな影響をもたらした。立憲君主制の弱さと利点がそこにありますね。そして今、天皇は政治には一切かかわらない「象徴」となったわけですが、自民党の改憲案ではそれを再び「元首」にするということになっている。政治的なことに今よりもっと巻き込んで、何かあったら責任を負ってもらう、というふうに読めます(※)。
 そんなふうに、天皇を再び政治、そして戦争の場に出すべきではないですよ。長い日本の歴史の中でも、象徴的存在であった時期のほうが長いくらいなのですし、精神的、伝統的な象徴としてあったほうがいいと考えています。もちろん、天皇陛下はじめ皇室の方々には、ものすごく重い仕事を国民が強制しているともいえるわけで…政治的なことに関与しない限り、もっともっと自由にしていただいていいとは思いますが。

※自民党改憲草案第1条は、「天皇は、日本国の元首であって…」と定めている。また、現憲法では天皇の国事行為には内閣の「助言と承認」が必要とされているが、同草案ではこれを内閣の「進言」と変更(6条4項)。6条5項では、国事行為以外の「公的な行為」を行う、との定めもある。

想田  自民党の改憲案は、自分たちの権力を思い通りに行使するために、天皇を使おうとしているということですよね。かつての戦争のときには、きっとまさにそういうことが起こっていたんじゃないでしょうか。

鈴木  だから、これからも戦争をしようと思っているのかと勘ぐりたくなります。そもそも、天皇を元首にする、国防軍をつくるというのは、日本を「強い国家にするんだ」という意志表示でしょう。そして、領土交渉では「戦争も辞さずに」なんて言い出す。戦争を体験していたら、そんなことは絶対に言えないと思うんだけど。

想田  かつては自民党の中でも、戦争体験のある議員が「ストッパー」になっていたのかもしれませんが、みんな引退していってしまった。戦争体験そのものがこの社会全体から失われていっていて、それはもちろん素晴らしいことなんですけど、一方で「戦争って怖いよね」と肌感覚で捉えられる人がどんどん少なくなっているということなんでしょう。
 しかも、戦争で「やられる側」になることが、みんな想像できなくなっていますよね。常に自分たちは「やる側」。僕はアメリカに住んでいてアフガン戦争が始まったときに、アメリカ人の考える「戦争」の中には、自分たちが「やられる」イメージが一切ないんだな、だから「世界の警察」として、いろんな紛争に介入するんだな、と改めて思ったんですけど、日本も徐々にそういう感覚になってきている気がします。

●人の生活を守ることこそが、国益を守ること

鈴木  本来、政治家の一番大きな役割は「戦争をしないこと」だし、それができる政治家が支持されてしかるべきだと思います。でも、今の社会の雰囲気はそうなっていないんですよね。以前、テレビである旅館の主人が「(日中関係の悪化で)中国から観光客が来なくなって大変だ」という話をしているのを見たんですが、続けて「でも、やっぱり国益のことを考えたら我々も我慢しなくちゃいけませんよね」というんです。

想田  その人が、自分からそう言っているんですか。

鈴木  そうです。そういう人の生活こそが「国益」であるはずなのに、「国益」というのは何か別のところにあるものだと考えられている。そして、「毅然とした態度で挑む」とか、週刊誌レベルの勇ましい言葉を言っている政治家のほうに支持が集まって、「話し合いで解決する」なんていうと「反日的だ」「売国奴だ」とか言われたりする。それが怖くて、政治家も「まずは相手の言い分を聞いて…」とはなかなか言えないんでしょう。
 ただ、本当の「愛国者」なら、戦争を避けるためには「国賊」と呼ばれる覚悟くらいはするべきですよ。かつて、小村寿太郎が「国賊」と呼ばれながら日露戦争の講和条約締結に踏み切った(※)みたいに。今の「愛国者」は、安全圏にいながら「戦争をしてでも島を守れ」みたいなことを口で言ってるだけなんですから。そんなのインチキですよ。

※小村寿太郎は日露戦争当時の外務大臣。1905(明治38)年、全権大使として日露講和条約(ポーツマス条約)を成立させた。政情不安が続いていたロシア、国力の違いからこれ以上の戦争継続は困難と判断した日本、両政府の意図が合致しての講和だったが、それまで「日本軍の勝利」ばかりの報道に接していた民衆は直接の賠償金なしの講和に納得せず、帰国した小村には「国賊」の言葉が投げつけられ、内務大臣官邸などに火が放たれる「日比谷焼き討ち事件」も起こった。

想田  僕は、いわゆる「現実論」と言われるものが、本当に現実的かどうかを検証する、想像することがとても大事だと思っています。例えば原発にしても、ずっと原発を推進するのが現実派で、いらないというのが理想主義だと言われてきた。でも、福島第一原発の事故が起きたことで、その捉え方は間違っていたことが明らかになりました。だって、廃棄物処理の方法もわからない、事故が起きたら国土が汚染される、しかもメンテナンスのためには誰かが必ず被曝しなきゃならない…。いろんな意味で、実は原発というのは現実的な発電手段ではないことがわかってきたわけです。
 領土問題もそうで、強硬論をとる人が現実派のように言われているけど、それをどんどん押し進めていけば、究極的には戦争になります。でも、例えば中国と戦争になれば日本経済はガタガタ…というか、多分もう終わりですよね。それが現実的な選択だとは僕には思えません。やっぱり、現実的な選択というのは鈴木さんのおっしゃるように、どんな手を使っても戦争を避けることだと思うんです。

鈴木  ただ、これまで「憲法を守ろう」「戦争はよくない」と言ってきた側の言葉に、まったく説得力がなかったのも事実だと思います。憲法9条があるから日本は平和なんだ、憲法さえ守っていれば大丈夫だとひたすら言い続けるだけ。それだけでは、中国や北朝鮮の脅威が拡大していて、領土が取られるし拉致被害者も帰ってこない、やっぱり強力な国防軍が必要だ――という声のほうが、説得力を持って聞こえて来てしまうんですよ。

想田  「護憲」を言う人たちの言葉に説得力がないというのは、そこに日常的な「実感」が伴わないまま「正しさ」を言い続けてきたからじゃないでしょうか。平和とか憲法とかの話をするとき、ややもすると僕らは、集団的自衛権がどうのとか、自主憲法がどうのとか、概念の世界でばかりしゃべろうとしてしまいます。だから「9条を守れ」といった言葉はもはやただの決まり文句、スローガンになってしまっていて、人々の感情を喚起しない。そうではなくて、もっと日常に引きつけて考えるというか、「9条がなくなる」のが現実としてどういうことなのかを、きちんと伝えないといけないんだと思います。
 例えば、僕が応援している「全日本おばちゃん党」の基本方針である「おばちゃんはっさく」なんて、まさに概念ではなくて実感です。〈その1〉は「うちの子もよその子も戦争には出さん!」なんですが、子どもを戦争に出したい親なんていないわけで、その実感は誰もが共有できますよね。概念ではなくてそういう、生物しての実感ともいうべきところから出発すると、もっと共感が広がりやすい気がするんです。

鈴木  あと、「平和憲法を守ろう」という人たちが一番弱いのは、「自分の国のことしか考えてないじゃないか」と言われることじゃないかと思います。世界には困ってる国がたくさんあるのに、自分たちさえ良ければいいのか、と。そこにやましさを感じてる人が多いから、「日本も金だけ出してるんじゃダメだ」なんていう言説が説得力を持ってしまうんじゃないでしょうか。
 僕は、日本ももっと「攻めの論理」を打ち出していくべきだと思います。例えば自衛隊が、外国で血を流していない、人を殺していない、戦争に参加していないことに対して、やましさを感じる必要なんてないですよ。むしろ、自然災害の現場での自衛隊の活躍は、世界中から賞賛されてるんだから、世界の軍隊を自衛隊化する、自衛と災害救助にはあたるけれど外に出て行って戦争はしない、そういう組織に組み替えていくべきだという理想を発信するくらいのことを考えたほうがいいと思う。

想田  なるほど、そうですね。僕はアメリカに住んでいますけど、9・11テロ事件の後、そのアメリカが戦争に進んでいく過程を見ていて、とても怖かったんですよ。世論調査で「アフガニスタン攻撃を支持する」という意見が、たしか9割以上。みんなこぞって星条旗を掲げて、本当に翼賛体制というべき状況でした。
 野球を見に行っても、大リーグでは7回終了後に、『私を野球に連れてって』っていう歌をスタンドでみんなで歌うのが慣例なんですが、9・11の後1年くらいはそれが『God Bless America』に替わってしまって。それをみんなで起立して歌うんです。僕は嫌だったので座ったままでいましたけど、ものすごいプレッシャーを周囲から感じましたよ。

鈴木  一つ流れができてしまうと、それに異を唱えるのは難しいんですよね。

想田  はい。アメリカって、どちらかというといろんな価値観が混在していて、ファシズム一色にはなりにくいというイメージだったので、余計にショックでした。僕が今のような、いわゆる「右傾化」というような流れにすごく警戒心があるのは、その経験も関係しているかもしれません。
 このままの流れが加速したときに、僕が特に怖いなと思っているのは、改憲にまで至ってしまって、表現の自由が定められた憲法21条までが変えられてしまうことです。もし表現の自由を「公益及び公の秩序」で制限できるとする今の自民党改憲案(※)のような条文ができてしまったら、もう僕たちは政府批判さえできなくなってしまう。事実上、民主主義は終了ですよね。それをもう1回ひっくり返そうと思ったら、武力革命を起こすしかないわけで…そこまで行く前に、なんとかこの流れを止めたいと思っています。

※自民党改憲案では、現憲法にある「公共の福祉に反しない限り」という言葉が、「公益及び公の秩序」に差し替えられている。人権と人権がぶつかり合ったときのみ、それを調整するために人権が制限される、という考え方の「公共の福祉」に対し、「公益及び公の秩序」では政府が「公益のため」と称して、政府に反対する運動などを禁止・弾圧することも可能になる。

(構成/仲藤里美 写真/塚田壽子)

←その1

─対談を終えて─

 とても真面目で、真剣にこの国の現状を憂えている。想田さんと対談し、そう思った。僕のイメージの中では、「映画監督」というのは、いつも威張っていて、尊大で、イライラして他人に八つ当たりし、怒鳴っている。でも結果(出来た映画)さえよければいい。そんなイメージだった。
 でも想田さんは、そんな「監督」像からは最も遠い。「映画監督とはこういうものだ」という世間のレッテルや印象、「説明」「ナレーション」に僕らは支配されていた。右翼・左翼・護憲派・改憲派という言葉もそうだ。そんなレッテルを貼って、安心し、その人間を理解したつもりになっている。いけないことだ。さらに悪いことには、そのレッテルを貼られた人が、それで満足し、その「役柄」を演じてしまうことだ。もっと右翼らしく生きよう。もっと改憲派らしく生きよう…と。〈現実〉の方が、映画的であり、演劇的なのかもしれない。
 そして国民全体が〈現実〉を重視し、現実的であろうと演技している。いや、演技しているという意識もない。それが自然な生き方だと思っている。想田さんは言う。そんな〈現実論〉が果たして現実的か? と。原発を見ても分かるだろう、と。そのとおりだ。今、この国に足りないのは〈現実論〉を疑う知性だ。想像力だ。防衛・憲法にしても、現実を見すえながらも現実を超える夢や理想を語ることだ。本当は、映画監督として想田さんは「改憲し右傾化する日本」をドキュメンタリーとして撮りたいのかもしれない。「改憲後」の日本を映画にしたいのかもしれない。しかし、時間がない。「終わった後」で、教訓を残しても意味がない。だから、焦っているのだろう。たとえ映画の仕事は一時休んでも、「発言」しなくてはならない。そう思いつめているのだろう。「武力革命」まで口にしている。そうならないように僕らも命がけで頑張らなくてはならない。と痛感した。(鈴木邦男)

 まだ僕が日本に住んでいた20年以上前から、「右翼」として「朝まで生テレビ」などに出ていた鈴木邦男さんにずっと関心を抱いていた。肩書きとは裏腹に、なんだかいちばん真っ当な人に思えていたからだ。そのギャップが不思議でたまらなかった。だから今回初めてお会いする機会に恵まれて、本当に嬉しかった。思った通りの方だった。そして積年の謎が少しは解けたような気がする。鈴木さん、マガジン9の皆さん、ありがとうございました。(想田和弘)

次の日曜日は、いよいよ参院選。まさに「この国はどこへ向かっていくのか」の正念場です。とはいえ、もちろんそれを越えたあとも、考えること、声をあげることをやめるわけにはいきません。鈴木さんのいう「レッテルを貼って安心しない」こと、想田さんのいう「何が現実論なのかを検証する」ことの重要性を、胸に刻み込みたいと思います。鈴木さん、想田さん、ありがとうございました。

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