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2011-12-28up

下北半島プロジェクト
映画『ミツバチの羽音と地球の回転』を下北半島で上映したい!

第16回

2011年を考える

 2011年1月1日。幸先のいいスタートを切るべく半ばすがるように、「開運温泉」(風水をとりいれた造りにより入浴すると運が開ける(!)、らしい)で新年の一番朝風呂を済ませ、達成感やら風呂上がりやらで気持ちのいい状態で畳の間でごろんと寝転がり、お昼を回ったころにその近所のお寺で年越し蕎麦と初詣を大混雑のなか敢行する。新年らしいまっさらな気合いと正月らしい気持ちののどかさを体現したようなそんな2011年の元日。

 冬晴れの、澄んだ青空の広がる穏やかな一日でした。東京とは思えないほどひとけのない元日独特の朝の電車を乗り継ぎ、足早に向かった景色。今思うと笑っちゃうくらい純粋に新年のしあわせを願う曇りのない時間。

 今年の3月の震災以降、この日の記憶がまるで昨日のことのように鮮やかに何度も思い出されます。「そういえば今年の初詣でこんなこと願ったんだけどなあ」とか「あの日境内に溢れたひとたちと同じように、きっと多くのひとが自分や誰かの健康でしあわせな日々を願ったんだろうなあ」と思ったり、記憶そのものが、再び戻れないまるで額にいれた古びた写真のように思え、なんだか胸が締め付けられるように感じたり。

 まもなく迎える2012年1月1日。一年の節目だ新年だと言われてもぴんとこないのは、2011年3月11日が私の世界の起点になってしまったから。それはきっと私だけじゃないんじゃないかな、と思います。「あの3月11日から半年、1年、1年半…」という時間軸で世界を捉えることが意識のなかでもうひとつ併存していく。「紀元」を辞書で調べると「歴史上の年数を数える基準となる年」だそうですが、私にとって今年は「紀元」に相当する年といえるだろうと思います。

 さて、今年の元日に開運温泉につかった効果はあったのでしょうか。当初は、やっぱり運とか風水なんて糠に釘(?)だなと思ったりしましたが(真面目に取り組んでおられる方、すみません…)、今回の上映会、その過程での学びや出会い、ひととの確かなつながりなど、「縁」という目にみえないものが引き寄せたものがあまりに大きく、もしかして温泉効果?(笑)、と思わずにはいられないところもあります。なので、ぴんとこないと言いつつも来年も同じ段取りで元日を過ごそうかなと検討中の今日この頃です。

 ひととの「確かな」つながり。先日、下プロを支えてくださった方数人とA子さんとでお茶などする機会がありました。直接にフランクに話せる関係こそがつながりを深め、さらには今後の活動をも深めていけるのかなと思います。バーチャルでは埋められない相手への細部にわたる信頼や安心感、それと現実感。「忙しい」(そうさせられているような)我々現代人には億劫なことかもしれないですが、地道にこういったことに力点をおいて大事にしながら、危機感が足りないと思われるかもしれないですが長いスパンで、やっていきたいです。と思った2011年でした。

 来年もよろしくお願いいたします。

(Y子)

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 私が18歳まで過ごした青森県弘前市は、12月にもなると雪で道が真っ白でした。通学の途中に髪の毛がパリパリに凍り、下校する頃には下駄箱のなかで靴が凍って取り出せないほどの寒さ。友達と一緒に帰ろうにも、吹雪が口に入ってくるので、ほとんど無言……ということもありました。

 厳しい寒さに鍛えられた東北の人たち。ほかの地域に住む人からすると、そうしたイメージが強いのでしょうか。震災後、被災地の様子を伝えるテレビや新聞でたびたび目にする「東北の人は我慢強い」という言い方が、ずっと気になっていました。きっと、褒め言葉として言ってくれているのだと思います。でも、ぜんぜん嬉しくないのです。

 相手が善意で言ってくれているのに、そのまま受け取れないのはなぜ? そう考えていた折、友人の一人が「善魔」という言葉を教えてくれました。悪魔ではなく、善魔。調べてみると、作家の遠藤周作さんがエッセイに書いた言葉でした。少し長くなりますが、引用します。

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 私のような小人物には大悪をやるには努力と勇気がいるものだから、さいわい今日まで小悪はつみかさねても大悪に手を出し自分の人生を目茶苦茶にしなくてすんだ。小心、臆病もやはり役に立ったわけである。
 しかし逆に善いこととなると、これは意外と努力なしに感情だけでやれるものだ。しかし感情に突き動かされて行った愛なり善なりは(正確にいうと自分では愛であり善いことだと思っている行為が)、相手にどういう影響を与えているか考えないことが多い。
 ひょっとすると、こちらの善や愛が相手には非常な重荷になっている場合だって多いのである。向こうにとっては有難迷惑な時だって多いのである。
 それなのに、当人はそれに気づかず、自分の愛や善の感情におぼれ、眼(まなこ)くらんで自己満足をしているのだ。
 こういう人のことを善魔という。
『生き方上手 死に方上手』(文春文庫)より

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 読んでいて、ストンと落ちました。

 「東北の人は我慢強い」と言われて抱く違和感は、「どんな時も強い東北人」というキャラクターを期待されるプレッシャー。強い強いと褒められるほど、期待を裏切ってはいけない気がして、弱音を吐けなくなるもどかしさ。「大変だろうけど、あなた方は強いから頑張れるでしょう」と突き放された気持ちにもなりました。

 本当は、辛い状況に耐えるときの悲しさや悔しさは、どこに住む人だって同じはずです。なのに、善意の人の褒め言葉を前にすると、なにも言えなくなってしまいます。

 下北半島プロジェクトは、原発がなくても大丈夫な下北を願って始めました。『ミツバチの羽音と地球の回転』の上映会は10月に終わりましたが、これからも何らかのアクションを起こしたいと考えています。そのとき、自分が「善魔」になりはしないか、よくよく注意しなければと思います。

 原発事故を経験した日本で、エネルギーシフトを目指す人が増えたことは必然で、とても尊いことです。私自身も、エネルギーの自立を希望する一人です。だけど、善意に突き動かされて「原発は絶対悪」「お金より命が大事」などと言い過ぎてしまったとしたら、本来の意図から外れて、原発がある地域の人たちが口をつぐんでしまわないか……私は心配です。

 遠藤周作さんでさえ、作中で「かく言う私も自分がこの善魔であって他人を知らずに傷つけていた経験を過去にいくつでも持っている」と書いています。きっと、よほど用心しなければ、誰もが「善魔」になる危険性があるのではないでしょうか。

 東北の冬は、確かに厳しく辛いです。だけど、そこで育った人は寒さに慣れて強くなることはありません。むしろ、抗いようのない寒さを前に、静かに黙るしかないだけのような気がします。国策で進められた原発も似たところがあって、抵抗するには敵があまりに大きかったのかもしれません。

 善意の行動が相手にどういう影響を与えるか、痛いくらいに想像したい。原発と共存せざるを得なかった人たちを追い詰めず、善意を押し付けずに、原発がなくてもいい下北にしたい。考えれば考えるほど、難題です。

(A子)

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試行錯誤の中で「下北半島プロジェクト」が立ち上がったのは今年の6月。
10月の「ミツバチ」上映会実現に至る過程は、
Y子ちゃん、A子ちゃんだけでなく、
「マガ9」スタッフにとってもいろいろなことを考えさせてくれる機会でもありました。
焦らずゆっくり進んでいく「下北半島プロジェクト」、
来年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

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