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柴田鉄治のメディア時評(09年6月24日号)

その月に書かれた新聞やテレビ、雑誌などから、
ジャーナリスト柴田さんが気になったいくつかの事柄を取り上げて、論評していきます。

しばた てつじ 1935年生まれ。東京大学理学部卒業後、59年に朝日新聞に入社し、東京本社社会部長、科学部長、論説委員を経て現在は科学ジャーナリスト。大学では地球物理を専攻し、南極観測にもたびたび同行して、「国境のない、武器のない、パスポートの要らない南極」を理想と掲げ、「南極と平和」をテーマにした講演活動も行っている。著書に『科学事件』(岩波新書)、『新聞記者という仕事』、『世界中を「南極」にしよう!』(集英社新書)ほか多数。

『組織ジャーナリズムの敗北 続・NHKと朝日新聞』 (岩波書店))

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政府のウソを正すには、メディアは何をすべきか

 政府が国民に対してウソをついている。ウソである証拠はいろいろと出てきているのに、いっこうに改めようとはしない。そんなとき、国民はどうしたらいいのか。
 政治に、司法に、メディアに、その他あらゆる手段に訴えて、あるいは、自らデモを繰り返してでも、政府に改めさせるべきだろう。国の主権者である国民に平気でウソをついている政府なんて、民主国家ならそんな状況を放置すべきではない。

 いま、日本でこんな状況が起こっている。事件は37年前の1972年に遡る。沖縄返還にからんで米国が支払うべきカネを日本が支払い、米国が支払ったように見せかけるという密約が明るみに出た。ところが、政府は、この密約電報を毎日新聞の西山太吉記者に渡した外務省の女性事務官と西山記者を国家公務員法違反で逮捕し、密約のことはウヤムヤにしてしまったのである。
 本来なら、メディアは、情報の入手方法と取材内容とは峻別して、密約の存在こそ問題にすべきだったのに、毎日新聞は入手した電報を一面トップで報じないで、野党議員に渡して国会で問題にしたという『失敗』もあって、政府側の策謀が勝ち、『メディアの敗北』に終わったのだ。
 ところが、それから30年の歳月が経って、米国の公文書館から「密約の文書」が次々と出てきた。そのうえ、当時、日米交渉に当たった元・外務省アメリカ局長の吉野文六氏も「密約はあった」と認めたのである。
 それにもかかわらず、政府は「そんな密約は存在しない」「文書もない」の一点張りなのだ。そこで、国民の有志が、外務省と財務省に対して米国側から出てきた密約の文書を示して、「同じ文書が日本側にもあるはずだから公開せよ」と迫った。それに対し、両省から「そんな文書は存在しない」と回答があったため、さる3月、文書の公開を国に対して求める訴訟を東京地方裁判所に起こしたのである。
 実は、私は、この裁判の原告団の一人に名を連ねているのだ。国民の一人として「私たちの政府が国民に平気でウソをつく政府であってほしくない」という気持ちと、ジャーナリストの一人として「政府のウソを正すのは、本来、メディアの仕事であるはずだ」という気持ちからである。

 ところが、この訴訟を3月に提起したときのメディアの扱いは、極めて冷ややかなものだった。テレビはともかく、翌日の新聞は、東京新聞が3段、日経新聞が2段、朝日新聞も毎日新聞も読売新聞もベタ記事だったのである。恐らく、各紙とも「過去の事件だ」と勘違いしたのではあるまいか。少なくとも各紙の報道に「政府のウソを正すのはメディアの役割だ」という気概は感じられなかった。
 この情報公開訴訟の第1回口頭弁論が6月16日、東京地裁で開かれた。杉原則彦裁判長はその冒頭から異例の訴訟指揮をとり、原告側に大きな希望を与えた。「文書を保有していない」と主張する被告の国側に対して「その理由を合理的に説明する必要がある」と指摘したのである。
 杉原裁判長は「米側に密約文書があるのだから日本側にも同様の文書があるはずとする原告側の主張には十分理解できる点がある」と述べ、「もし密約そのものが存在しないというのであれば、アメリカの公文書をどう理解すべきなのか、もし最初はあって途中からなくなったとするならその理由はなにか、被告側が次回までに説明することを希望する」と発言した。
 さらに原告側に対しては「密約はあった」と認めている吉野文六・元外務省アメリカ局長を証人に招くよう促した。
 こうした訴訟指揮に対して、被告の国の代理人は「少し時間をください」と言って、次回を8月末にするように要請し、裁判長から「その代わり丁寧に説明してくださいよ」と念を押されて、次回は8月25日と決まった。
 また、原告側から吉野文六・元アメリカ局長を証人に招くことも了承された。そのあと、原告代表の一人、桂敬一氏がメディアの立場から「沖縄基地をめぐる密約は、核兵器持込の密約にもつながっている」ことなどを、また、我部政明・琉球大教授が米公文書館から密約の文書を見つけ出した経緯などを詳しく意見陳述し、第1回口頭弁論を終わった。
 原告団の一人としてこの日の口頭弁論を傍聴していていた私は、杉原裁判長の訴訟指揮に「政府のウソを正すのは司法の役割だ」といった気概を感じたのだが、それは、ちょっと甘すぎるかどうか。いずれにせよ、今後をしっかりと見守っていくほかないが、前途に希望が湧いてきたことは確かである。

 ところで、これだけのことがあったこの裁判を、メディアはどう報じたか。私は、その日のテレビをまったく見ていないので、テレビには触れないが、翌日の新聞を調べてみたら、朝日新聞が4段、毎日新聞が3段、東京新聞が2段で、読売新聞、日経新聞、産経新聞には、まったく載っていなかった。
 裁判の途中経過だから記者が気づかなかった場合もありうるのだが、このケースに限って、それはありえない。原告団から各メディアに対して事前に詳しい予告が通知され、また、裁判終了後には記者会見の場まで設定されていて、原告代理人から詳細な報告があったからである。
 また、この記者会見には、原告団の一人、作家の澤地久枝さんらも出席し、「37年前、西山記者は、存在しない文書によって裁かれたというのか」といった感想まで述べていたのである。
 この裁判を1行も報じなかった新聞は、気づかなかったのではなく、「私たちの政府は、国民にウソをつくはずがない」と思っているのか、あるいは、37年前の西山記者事件の『メディアの敗北』をいまだに引きずって、「過去の事件」と勘違いしているのだろう。
 これは、決して過去の事件ではない。「いまの政府が、いまの国民にウソをついている」事件なのだ。したがって、私は、毎日おこなわれている政府官房長官の記者会見で「密約文書はきょうもまだ出てきませんか」と、毎日毎日、問い続け、その答えを毎日毎日、報じるべきだとさえ思っているのである。そのくらいのことをしてもいい事柄のはずなのだが……。

説明責任を果たさずに、
ただ「文書はない」と繰り返すだけの政府。
その「ウソ」を追求できない「メディア」の存在意義は?
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