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マガ9レビュー

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vol.129

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外交官の一生

石射猪太郎/中公文庫

 20世紀前半の国際政治の場を生きた一外交官の回想である。初版は1950年。その後、改訂を重ねて、2007年に「中公文庫BIBLIO20世紀」シリーズの1冊として発刊された。

 著者の石射猪太郎は1887年福島県生まれ。1908年に東亜同文書院を卒業し、満鉄勤務を経て、外務省に入省した。東亜同文書院とは中国専門家の養成を目的に、上海に設立された高等教育機関である。日清戦争の勝利で、日本人の中国人蔑視の風潮が強まるなか、日中間の商業や文化の交流を通して、朝鮮半島をも含めた東アジアに平和を確立させようとの理念をもっていた。

 東亜同文書院について、本書では詳しく述べられていないが、石射の外交官としての原点はこの学校にあるといっていいだろう。ワシントン、ロンドン、ハーグ、リオデジャネイロなど、各国の大使館、総領事館に勤務した石射の経験のなかでも、一番の読ませどころは、吉林総領事および本省・東亜局長の時代である。この間、日中関係は悪化の一途をたどり、戦争へ突入していった。

 1928年、関東軍高級参謀らの謀略によって、満洲の大軍閥を率いる張作霖が爆殺されたとき、吉林総領事だった石射は次のようにメモしている。

 「晩年いよいよ老獪になって、日本側の注文通りには動かなくなった張作霖であったが、彼の生命線は実は日本への依存にあった。……満州の特殊地域性は、日本と彼とが持ちつ持たれつすることによって維持され得たのだ。……その張作霖を、日本軍部の手であさはかにも死なせてしまったのは、大事な偶像を自ら破壊したわけであった。満州の禍は、これより始まったのである」

 石射はその後の満洲事変でも、関東軍の仕業だと確信し、当時の外相、幣原喜重郎の不拡大方針に沿って動いた。しかし、軍部の勢いは止められなかった。日中戦争勃発後は、東亜局長として、日中戦争の和平工作を模索するも、軍部の圧力によって局長のポストを追われる。対中外交に携わった石射は挫折の連続であった。

 ビルマ(ミャンマー)大使として敗戦を迎えた石射は、戦後の公職追放で外務省を去った。その後、書き始めた回想の最後の部分で、彼は外交についてこう記している。

 「……およそ国際生活上、外交ほど実利主義なものがあるであろうか。国際間に処して少しでも多くのプラスを取り込み、できるだけマイナスを背負い込まないようにする。……外交の意義はそこに尽きる。問題は、どうすればプラスを取り、マイナスから逃れ得るかにある」

 500ページを超える本書。腰をすえて読んでほしい。

(芳地隆之)

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