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マガ9レビュー

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本、DVD、展覧会、イベント、芝居、などなど。マガ9的視点で批評、紹介いたします。

vol.103
柄谷行人 政治を語る

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柄谷行人 政治を語る

柄谷行人 聞き手・小嵐九八郎(図書新聞、2009年)

 本書は、批評家にして哲学者である柄谷行人へのインタビュー。 “政治”と自らの言論活動の関係を、1960年安保闘争への参加から今に至る彼の言論活動の軌跡を辿りつつ、概括したものである。

 大まかにみて、柄谷の言論活動はいくつかの時期に分けられる。
 文壇にデビューし、文芸評論家として活躍する第一期(1960~70年代)(『意味という病』河出書房新社、1975年 / 講談社[講談社文芸文庫]、1989年 など)
 渡米と1975年頃から始まる基礎論な哲学を模索する第二期(70~80年代)(『内省と遡行』講談社、1985年 / 講談社学術文庫、1988年 など)
 著作『探究』シリーズの開始と季刊誌『批評空間』同人の第三期(80~90年代)(『探究Ⅰ』講談社、1986年 / 講談社学術文庫、1992年 など)
 著作『トランスクリティーク─カントとマルクス』の出版と社会運動「New Associationist Movement(NAM)」を立ち上げた第四期(90~2000年代)(『定本柄谷行人集3 トランスクリティーク』岩波書店、2004年 『NAM原理』太田出版、2000年)
 著作『世界共和国へ』の出版とこれに関連する「社会交換論」(季刊誌『at』太田出版にて連載中)を展開する第五期(2000年~現在)(『世界共和国へ─資本=ネーション=国家を超えて』[岩波新書]、2006年)

 特に『トランスクリティーク』の頃からの言説は、資本=ネーション(民族)=国家による三位一体の権力構造を、社会の交換様式(貨幣による商品交換、贈与の互酬性、収奪と再分配による社会の重層的な交換システム)に着目するところから読み解く。そして、この分析を通して資本主義社会にかわる社会とはいかなるものかを、広い視野に立った長期的な展望をもって綜合的に提示しようとするのだ。

 だからといって、柄谷の理論がアクチュアリティに欠けるなどということはない。彼の理論は初期(著作『マルクスその可能性の中心』講談社、1978年 / 講談社学術文庫、1990年))から一貫して、いわば「『資本論』を読む」ことでなされてきた。『マルクスその可能性の中心』で論及された『資本論』における「価値形態論」は、その後の『資本論』読解の転回点となった。いうまでもなく、柄谷のこうした作業は、旧来の「左翼」や“マルクス主義者”への批判でもあった。

 このマルクスを徹底して読む柄谷の一貫した思考、哲学が今、これまでとは異なる学者、評論家などから注目を浴びている。例えば、おそらく政治的な立場は異なるであろう佐藤優のみならず、「政権交代論」の政治学者山口二郎も『世界共和国へ』を読んで感銘し、自ら主催するフォーラムに北海道まで招いている(山口二郎編『ポスト新自由主義』七つ森書館、2009)。こうしたことは政治に関わったり、研究する者が、目指すべき社会の理念や哲学といったものを、現実的な政治的力として再認識しはじめているということの現れではないか。

 というわけで、本書を薦めるのは、“政治”という切り口もあってか、これまでにない柄谷の“アクチュアルな”ことばが聞けるからだ。たとえば、わが国に民主主義を根付かせるためにはもっと「デモ」をすべきだという。代議制民主主義だけでやっていると、社会民主主義でさえ「国家」の力にたよって、結局はそれに骨抜きにされ回収されてしまうので(かつての村山内閣のように)、議会の外でデモをして、常に議会に対して脅威を感じさせなければいけないという。代議制民主主義だけでは、真の民主主義社会にはならないといっている。

「僕はたとえば、デモで警官と衝突したり石を投げたりすることなどは、暴力的闘争だとは思いませんね。たんにシンボリックなものにすぎない。アメリカのデモでもそれはありますよ。(略)しかし、そんな行為は、政府にとって脅威ではない。政府にとって脅威なのは、その背後にある大量のデモですよ。60年安保のデモは、連日、何百万もいた。これは脅威です。これがないと、全学連の過激なデモも意味がない。それだけなら、国家にとって脅威ではない」(P155)

 このようなデモをこの国で強力なものにするためには、2000年前後にほぼ消滅させられたといってよいさまざまな社会的「中間団体」や「中間勢力」を分析し、再評価し、組織化する必要があると説く。新たに立ち上がった派遣労働者の労働組合などはまさにこれにあたるだろう。

 柄谷自身は、自ら立ち上げた社会運動のNAMを除けば、理論家としての道を歩んだこともあってか、60年安保以後、デモには参加していないようだ。しかし、1991年の湾岸戦争のときには、作家の中上健次、田中康夫、高橋源一郎、いとうせいこうらと、日本の参戦に反対する文学者の集会を行ない『「文学者」の討論集会アッピール』を発表した。声明は以下のようなものだった。

声明1 私は日本国家が戦争に加担することに反対します。

声明2 戦後日本の憲法には、『戦争の放棄』という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を『最終戦争』として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、『戦争の放棄』の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。  われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。

 本書によれば、柄谷が憲法第9条のことを考えたのはこのときがはじめてであり、そしてそれがきっかけとなってカント哲学の読解へと向かわせたという。ということは、『トランスクリティーク』から『世界共和国へ』に至る昨今の著作は、実に9条の理解から開始された、といってもいいわけだ。

 「柄谷行人」を一部哲学・文芸ファンの占有物にしておくのはもったいない。これまで柄谷の言説になじみのなかった読者には、本書がガイドブックの役割を果たすはずだ。来たるべき自由で平和な社会にむけて、みんなでカラタニを読もう。

(北川裕二)

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