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マガ9レビュー

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vol.99
チョムスキーの「アナキズム論」

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チョムスキーの「アナキズム論」

ノーム・チョムスキー/明石書店

 ブッシュ政権への批判者として知られた言語学者ノーム・チョムスキーの、1969年~2004年にかけ、アナキズムについて発言したインタヴュー、対話、エッセイを編集したアンソロジー。これを読むと、チョムスキーがベトナム戦争の時代から一貫してアナキズムへの関心と平行しながら数々の発言をしてきたことがわかる。

 一般的に、アナキズムは暴力的な無政府主義者が掲げる破壊的な過激思想といった否定的なイメージで捉えられているかもしれない。確かに、アナキズムを無政府主義というのは間違ってはいない。けれど、そのような否定的なイメージでは、この多様にして創造的な思想潮流の本質を捉えることはできない。

 本書におけるアナキズムを要約すれば、アナキズムとは人々が自前で社会を構築しようとすること、すなわち自由な諸個人による自由なアソシエーションのための理論のことであるといえるだろう。

 第2章「言語と自由」では、そのようなアソシエーションにおける自由とは何なのかが問われる。ここでいわれる自由とは、「好き勝手になんでもできる」などといった稚拙な理解とは異なる。自由とは、人間が機械(動物、奴隷、賃金奴隷)と峻別される際に、決定的に要請される哲学的な概念、そしてそれに対する信念のことなのである。

 人は、人間であることの証左としての自由を欲する。しかしこの自由は、余暇が増えたといったような量として単に与えられるもののことではなく、「自由の成熟を促すこと」、つまり、自由は「自由の完成」へと深化させねばならない前提としてのそれのことでもある。それが「未完了」である限りは、実に人はいまだ「人間」ではないのだった。自由とは徹頭徹尾倫理的で、なかなか大変なものなのだ。第2章からは、チョムスキーの思想がルソーやカント直系のものであることが窺い知れる。

 「自由の完成」へと向けられたこの営み、権利を侵すものは、いかなる権力であろうと徹底して批判される。権力がその行使に対して立証責任を果たさなければ、そんな権力は廃絶するべき以外の何ものでもない。チョムスキーによれば、その最たるものが、国家(公的権力)と資本主義(私的専制権力)ということになる。とりわけ私的専制権力はますますその責任を果たさなくなっているという。

 その一方で、アナキズムはそれらに代わって人々の自発的なアソシエーションを促し、不平等な不自由社会を克服して、自主管理による生産社会の実現を模索しようとする。むろんそれは容易なことではない。だから人は言うかもしれない。「資本主義と国家を超えた自主管理社会をつくるなんて、そんな絵空事は夢のまた夢さ」と。しかし、そういう人はチョムスキーの次のような言葉をじっくり考えてみることだ。

 「生きるためにわが身を資本家に差し出すことを強いられる人は、最も基本的な権利のひとつ、すなわち、人と人との連帯のもとでの自主管理による、豊かで、創造的で、充実した労働をする権利を剥奪される。そして資本主義的民主主義によるイデオロギー的抑圧のもとで最も必要とされるのは、投資決定をする地位にある者の欲求を満足させることである。生産、仕事、社会サービス、生活手段は、かれらの要求を満たすためだけに存在する。社会を所有し、管理する者の諸利益に優先的に奉仕する必要のために、一切は、かれらとかれらの諸利益に必ず従属しなければならない」。

 「変革は、太陽が昇るのとは違い、人生は変えられるということを、命令に従う必要がないということを、踏みにじられる必要はないということを、そして何かが間違っているということを民衆が自覚しないかぎりできません」。

 一票が、空虚な数量のひとつになりかねない議会制民主主義という政治システムは、アナキズムにとっては克服されねばならないシステムと看做される。これが無政府主義と訳される所以だ。政権交代だとか、改革をなんだとか言って、滑稽な三文役者が演じているような茶番をいつまでも繰り返す、ほとんど機能不全に陥っているこの国の絶望的なそれをみるとき、オルタナティヴな世界を目指すアナキズムを勉強してみるのは有益だ。本書はアナキズムを知るための必読文献である。

(北川裕二)

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