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マガ9レビュー

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本、DVD、展覧会、イベント、芝居、などなど。マガ9的視点で批評、紹介いたします。

vol.69

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永訣の朝
〜樺太に散った九人の逓信乙女〜

川嶋康男/河出文庫

 北海道最北の都市、稚内市にある稚内公園の「九人の乙女の碑」には、こんな文字が刻まれている。

 「皆さん これが最後です さようなら さようなら」

 1945年9月20日、南樺太・西岸の町、真岡の郵便局に交換手として残った10代後半から20代前半の女性たちの1人が、電話回線に乗せて発したという言葉である。ソ連艦隊の真岡上陸が近づいたとき、彼女たちは青酸カリを飲み、次々と命を絶った。世に伝えられる「樺太の逓信乙女の集団自決」。日本の敗戦から5日後の出来事だった。

 これはソ連兵に陵辱されるよりも死を選んだ彼女たちの悲劇として語り継がれてきたが、なぜ彼女たちだけが真岡郵便局に留まったのか? なぜ彼女たちは青酸カリを身に忍ばせていたのか? 肝心の疑問に、このエピソードは答えていない。

 本書はそれらの疑問を、数々の資料や生存者へのインタビューを基に、当時の状況を再現しながら明かそうとしている。

 当時の真岡郵便局長だった上田豊蔵は戦後、9人の女性が自らの意志で郵便局に残ったと証言した。しかし、交換手たちが上司の命令なしに残留を決めたとは考えられない。また、上田局長はソ連艦隊の真岡上陸という緊急時に自分が郵便局へ行かなかったのは、ソ連軍の攻撃が激しく立ち往生したからだともいう。だが、局長ほか郵便局幹部が泊まっていた場所は、真岡郵便局から30メートルしか離れておらず、ソ連艦隊が海上に現れてから砲撃が始まるまで約1時間あった。

 著者は上田局長の当時の行動を告発することは避けるものの、戦時下の悲劇は、ときに指導的な立場にあった人間の責任を曇らせることを私たちに教えてくれる。

 2年前、サハリンを訪れた際、キムさんという年配の日露通訳の方とお会いした。彼の祖先は朝鮮半島から樺太に移住し、ここで生れたキムさんは豊原(樺太庁所在地)の国民学校在学中に敗戦を迎えた。その後、ソ連国籍を取得した彼は、ハバロフスクの大学で機械工学を学んだという。

 樺太に住んでいた朝鮮人はソ連による占領後、「日本国民ではない」という理由から、島を出ることを禁じられた。日本の皇民化政策によって日本語や創始改名を強いられていたにもかかわらず、彼(彼女)らは敗戦と同時に日本国に捨てられたのである。

 樺太の悲劇は幾層にも重なっている。

 真岡は現在、ホルムスクと呼ばれており、町の郊外には、日本領時代の神社の鳥居がいまも点在している。東岸の町、ドリンスク(旧落合)では、かつての王子製紙の工場が稼動し、稚内との間に定期航路を結んでいる南部のコルサコフ(旧大泊)では、旧北海道拓殖銀行大泊支店が空手道場としてロシア人に使われていた。

 本書は私に、そんな旅の記憶も思い出させた。

(芳地隆之)

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