著者が語る、ひとつの戯曲を舞台に上げるまでの過程から、対話の大切さがひしひしと伝わってくる。
「演劇に限らず、今の時代に、一番大事なことは、『聞くこと』のように思えてなりません」(第一章「聞く力」)。
演出家にとって重要なのは、「何を見て、何を聞くのか」だと著者は説く。そして、それは演出家のみならず、俳優にも当てはまる。自分が話すよりに、相手の言葉に耳を傾けること。それによって自分のなかに起こる化学反応を、彼や彼女は言葉と身体で表現するのだ。
それが俳優の仕事であるとすれば、政治家やそれを取り巻くメディアの世界では、声を張り上げる大根役者ばかりが目立つ。
深夜から明け方まで放映されるテレビの討論番組に、ぼくはしばしば不快感を覚えることがあった。その理由は当初、自分でもよくわからなかったのだが、本書を読んで得心した。画面に登場する論者たちは、持論を披露することばかりを考え、相手の意見を聞こうとしないのだ。頭の中は勝つか、負けるか。お互いに言いっ放しの討論が、本当の意味でエキサイティングであるはずがない。
著者の仕事はその対極にあるといえる。ひとつの言葉がもうひとつの言葉を生む。それはつねに美しいメロディを奏でるとは限らず、神経を逆撫でするような不協和音も発する。
それら交錯するイメージを膨らませては壊し、その上に新しい解釈を積み重ねる作業に完全はない。それは初日の幕が開いても終わることなく、観客の反応も取り込みながら楽日まで続く。
こうしたエネルギッシュな仕事を支えるのは、著者の人間に対する尽きることのない好奇心だろう。それが満たされるのであれば、新劇やミュージカルといったジャンルは問わず、ベルリン、マラケシュ、ロンドン、パリ、そして朝鮮半島へと国境さえ越えていく。
しかも、旅は空間移動だけでなく、「時代と記憶」という縦軸にも向かう。東京裁判を巡って右往左往しながら、生まれ変わる戦後日本と向き合う庶民、アウシュヴィッツの強制収容所で音楽会や芝居を行なうことで自らの尊厳を保とうとするユダヤ人、あるいは自由の名の下にギロチンにかけられる王妃マリー・アントワネット……。
戦争や革命に翻弄された人々を、演出家はしばしば舞台に生き返らせる。それは、著者が両親の死後はじめて、二人が負っていた戦争の深い傷について知ったことも影響しているのだろう。
以上は演劇の話であるが、演出家でも俳優でもない私たちだって、家族や友人、仕事仲間や恋人の言葉に耳を澄ますことはできる。すると、これまでの日常とは違った思いや感情が自分のなかに生まれるかもしれない。 そうしたらきっと、いままでよりも人間が好きになる。
(芳地隆之)
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