「刷り込み」というのは、ほんとうに怖い。それは「洗脳」にも似ている。北朝鮮といえば、あの足を高く上げて銃を担ぎ一糸乱れず行進する軍隊と、それをどこかのバルコニーから見下ろして薄笑いを浮かべながら手を振る独裁者、というイメージしか浮かばない。
その絵柄は、もう何十度、何百度、いや、ことによると何千度もテレビの画面から流れたはずだ。そしてそれを見る私たちは、北朝鮮とは、奇妙な服を着た独裁者と、まるで自分の意志を持たずに行進する軍隊、そしてこれまた繰り返し繰り返し流される飢えた子供たちの映像によって、この3種類の人間しかしか存在しない国であるように、刷り込まれてしまっている。
メディアの罪は大きい。そんなはずはない。どんな独裁者の国であろうが、普通に生活し、普通に喜怒哀楽の中で生きている庶民は、絶対に存在するのだ。
私たちの日本でさえ、ほんの少し前までは、ちょんまげを結い袴をはいて素足に草履で自動車を運転していた(と、欧米のかなりの国では信じられていたのだ。それには、どんな刷り込みがあったのだろう)。
メディアの垂れ流すイメージばかりに踊らされてはいけない。しかし、メディアの側にも言い分はある。
「鎖国同然の国で、普通の国民の生活などまるで取材することができない。だから、手持ちの映像を繰り返し使うしかないのだ」というわけだ。
そんなときに目にしたのが、この写真集である。
写真そのもののできは、決していいものではない。多分それは、メディアの言い分と同じく、北朝鮮当局の厳しい規制があったことを意味している。それでも石任生氏は、軽水炉建設の撮影に7年間従事していたその合間をぬい、規制をかいくぐってシャッターを押し続けたのだという。そこに、既成のメディアとは違うカメラマンとしての矜持を見る。
淡々と、批判も迎合もなしに、レンズは庶民の暮らしに向けられる。それも、そっとカメラを隠すように抱きながら、シャッターを切ったのだ。
田植え、収穫、道路工事、汽車での移動、子どもたち、労働する大人たち----。そこには、私たちがかつて経験した懐かしい日本の原風景にも似た世界が広がっている。
これまで目にしたことのない、あまりに普通の北朝鮮。
ページをめくるたびに、別に何もないありふれた生活が現前する。そして、私たちがこれまで見せ付けられてきたあの「異常な光景」と、この写真集が映し出す落差に、愕然とするのである。
理解は、見ることから始まる。しかし、一方的な同じ映像の押し付けからは、理解は生まれない。
とにかく、一度手にとってみるべき写真集である。これまでの北朝鮮理解なるものが、いかに浅薄で表面的であったか、あなたは必ず感じるはずである。
(鈴木 力)
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