「愛国心」や「日本の伝統」を説く政治家がいる。戦後日本の歩みを快く思わず、その基盤である憲法を変えたいと思う人に多いようだが、これらの言葉の意味するところは曖昧だ。
いまの日本の原型、約140年前に誕生した明治国家は「脱亜入欧」を掲げ、それまでの日本の伝統を否定したところから始まった。
ならば時代をさらに遡って「江戸を愛せ」となるかといえば、そうではなく、彼らが想定するのは、日清・日露戦争、そして第1次世界大戦の勝利で「欧米に追いつけ」を果たして以降の時代らしい。すなわち大正デモクラシーが終わり、治安維持法が制定された大正末期から昭和の前半にいたる、権力者が一番威張っていたころである。
この時代に日本は「脱亜欧米」から「大東亜共栄圏」を唱え、結果的に大失敗した。
そこから新たなスタートを切ったのが1945(昭和20)年の敗戦である。もし日本のナショナリズムの起源を求めるのであれば、出発点はそこにしかないのではないかーー本書を読んで、その思いを強くした。
昭和31(1956)年3月16日に開かれた衆議院内閣委員会公聴会の記録。そこには「アメリカから押し付けられた憲法は全面的に書き直すべし」から「日本国憲法のもつ民主主義は国民に根づいている」と主張する論者まで、丁々発止の議論が展開される。
それが滅法面白い。
改憲、護憲を問わず、各人の放つ言葉が熱を帯びているからだろう。ぼくは憲法を変えるべきではないと考えるが、当時の改憲論者にネガティブな感情は抱かなかった。彼らに正面突破を図ろうとする気概を感じたからだ。
これだけの熱き議論を喚起するだけでも、現行の日本国憲法は保持するに十分な価値ありと思う。政府が憲法改定を本気で国民に問うならば、最低限、本書の改憲論者なみの、重みのある言葉を発してほしい。
憲法は国のかたちと理想の表現である。
「外国(アメリカ)に憲法を押し付けられた」と言いながら、当該国の軍事戦略に寄り添うような倒錯したナショナリズムに付き合うのはごめんだ。
(芳地隆之)
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