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マガ9レビュー

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本、DVD、展覧会、イベント、芝居、などなど。マガ9的視点で批評、紹介いたします。

vol.6
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松竹 ¥106,806円 (税込)

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『男はつらいよ』シリーズ全48作

監督:山田洋次 主演:渥美清

『男はつらいよ』全48作(オリジナルは48作品。DVDは特別編集版が入り49作品)は、NHK・BSチャンネルで2005年から2年間にわたり連続放映された。この放映で寅さんファンになった人もいるだろう。かく云うぼく自身もその一人である。律儀にも全作を観たことで、当時は見えていなかったものが発見できたのである。そのいくつかを指摘してみよう。

寅さんシリーズは1969年に始まり、96年に俳優の渥美清が亡くなったため、95年の『男はつらいよ 寅次郎紅の花』を最期に終了している。この年には、阪神・淡路大震災とオウム・サリン事件があった。実際、この最終作では、寅さんがなんとボランティアとなって、震災後の神戸を訪れるというシーンが映し出される。寅さんが最期に活躍する場所が震災後の焼跡であり、同時にぼくらの前から永遠に姿を眩ますのもそこであったという事実は、今みると何かとても暗示的だ。

というのも、その年のオウム・サリン事件以後、この国の生活空間が、息のつまるような閉塞感が漂う暗い「セキュリティ社会」へと変質させられてしまったようにおもえるからだ。今や日本のすべての空間が防犯カメラによって監視されている、そんな錯覚すら覚える不自由な相互不信の社会になってしまった。たとえて云えば、寅さんがゲリラ的に叩き売りをする自由な公共空間など、この国のどこを捜しても、もはや存在しない。

「安心・安全」を口実に、実際には人々に恐怖心を煽ってやまない都知事とその一味が、今後4年間ものさばることが決定した以上、少なくとも東京からは寅さん的な文化は益々排除されるだろう。その好例として、世界に誇る魚市場「築地」の移転や下北沢の再開発があげられる。彼らの推進する再開発とは、時間をかけて作られた繊細な寄木細工のような大衆文化に対して、まったく粋でない野暮が、政治-経済的に横暴を振るうといったようなものである。寅さんであれば「それをやっちゃあ、おしめえよ」と云うところだ。

こんないたたまれない現在の生活環境から、あらためて『寅さん』を観ると、その映像がほとんど奇蹟にさえおもえてくる。例えば、このシリーズの冒頭は、概ね寅さんが夢から覚めるシーンで始まる。すると寅さんがうたた寝していた場所というのは、きまって辺鄙な場所だったりするのだ。何の取り柄もない単なる田舎の殺風景な駅舎の壊れかけたベンチ。毎回そんな場所から映画は始まる。けれど、それがすごくいい。カメラはいかなる場所であろうと、あまねく平等にまわっている。この<映画の眼>は、そのことをぼくたちに教えてくれるのだ。

間違ってもこの眼差しは、人々を犯罪者予備軍と看做す防犯カメラの強迫的な視線などではない。どんな辺境にも人がいて、人がいれば必ずそこに物語が生まれる。それを伝える<眼>なのだから。そして、この<眼>を、次のように云うことができないだろうか。すなわち、戦後、憲法が保障する民主主義の精神がカメラになった、というように。むろん、こうしたことは、戦後に製作された映画の其処彼処にみられるものではあるだろうけど。

しかし、そんな「心優しい」眼差しを送る『寅さん』を、当時のぼくは馴染めなかった。そこで繰り広げられる予定調和的な世界が鼻についたのである。けれど、今回全作観たことで、その印象が表層的なものでしかなかったことに気がついた。『男はつらいよ』シリーズ全48作とは、自由と平等の意味、つまりは平和の価値を全国へ広めることに生涯を賭けたフーテンの物語なのである。

全国津々浦々放浪しながら、このような精神を伝道することのできる人物は、フーテンの寅以外にはいない。監督山田洋次も俳優渥美清も、撮影を続ける中で、そう確信したはずだ。なぜなら、仮に主人公が特定の肩書きを持っていたとすれば、それは必ずテーマの「平等」と衝突し、矛盾をきたす。肩書きがあれば、上下関係や利害関係が生じてしまうからだ。逆に主人公が、堅気の世界においてはいかなる肩書きもなく、家もなく、何者でない、つまりまったくの自由の身であれば、そんなことは起こらない。それは誰とでも平等に出会えるということである。事実、映画の中での寅さんはそのようにふるまう。寅さんシリーズのどこか安穏とした雰囲気は、主人公のこの設定から必然的に導出されてくるものだ。

だが、それは同時に、いかなるマドンナとも別れる運命にあるということをも意味している。マドンナとの出会いは、今度は「自由」と衝突するからである。シリーズ後半ともなると、マドンナとの別離は、ある種倫理的選択といってもよい様相すら帯びてくる。ここまでくると、寅さんは、ほんとうに身を以て示す求道者以外の何者でもなくなっている(例えば、さくらの息子・満男に対する態度がそうだ)。ともあれ、別れの度に口にする寅さんの決め台詞とは、もちろんこれだ。「そこが、渡世人のつれえところよ」。

民主主義の理念は、この国には馴染まないなどと指摘する者もいる。しかし少なくとも『寅さん』シリーズに限っていえば、それがどのようなものかが探究され、あるイメージが与えられたとおもう。監督山田洋次と、そして何より渥美清という「昭和」を代表する偉大な俳優が、「大衆映画」という制約の中でそれを提示したのである。こんな大それたことを27年間も続けたなんて。

そして決して忘れてならないのは、そのような試みを、多くの国民が支持したという事実である。その支持の仕方とはこうだ。つまり、誰も寅さんのように生きることはできないけれど、寅さんはきっとどこかで生きている、そんな社会であってほしい。この映画には、大衆の夢や願いがいっぱい詰まっていたのだ。渥美清演じる「寅さん」とはつまり、平和への「希求」を具現化した、希有なキャラクターのことにほかならなかった。

「あの街角曲がれば、また寅さんがなんかヘンなもの売っている。寅さんに会いたいなぁ。そんな暮らし、戻ってこないかなぁ」(この台詞を、美保純演じるタコ社長の娘・あけみ調で云うこと。)

(北川 裕二)

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