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2013-03-13up

時々お散歩日記(鈴木耕)

129

あの時、あなたはどこで何をしていましたか?

 また3月11日が巡ってきた。

 どこの国にでも、「あの時、あなたはどこで何をしていましたか?」という問いかけがある。
 アメリカでは「1963年11月22日(ケネディ暗殺)」がこれまで代表的な問いだったが、現在では、それは「2001年の9.11(同時多発テロ)」に変わったという。

 では、我々の国ではどうか? 
 かつては圧倒的に「1945年8月15日」だったのだが、もうその日を鮮明に記憶している世代は少なくなりつつある。僕だってまだ生まれてはいない。もう67年以上前のことだ。だから、あの敗戦の日の情景をきちんと記憶しているのは、少なくとも70歳をかなり超えた世代に限定されるだろう。
 「1960年6月15日」を挙げる人もいる。いわゆる60年安保闘争で、東大生の樺美智子さんが、国会構内での警官隊との衝突の中で亡くなった日だ。戦後最大の大衆運動といわれた闘争だったけれど、それを闘った方たちの多くも、もうすでに「古希」を超えているだろう。現実の生活の中では、遠い歴史の中の出来事になりつつある。
 それらに代わって、現役世代の多くの人たちの脳裏に刻まれているのは「2011年3月11日、あなたはどこで何をしていましたか?」という問いかけだろう。
 その時、あなたはどこで何を……?

 僕はその日、自宅の2階の小さな仕事部屋で原稿を書いていた。何の原稿だったかは、もう憶えていない。
 凄まじい揺れが来た。僕は思わず机の端につかまりながら、中腰で立ち上がった。揺れはおさまらない。僕は、机の下にもぐりこもうとした。だが、そりゃみっともないだろう、やめとけ。やめた。
 考えてみりゃ、僕しかいない部屋。誰に対してみっともないなんて思ったのか、まるでリクツに合っていない。それほど動転していたってことだ。ようやく揺れがおさまった。
 幸い、部屋の中では何も被害はない。他の部屋も点検したが、別に異状はない。居間へ降りてテレビをつけた。ニュース速報が始まっていた。震源地は東北。
 我がふるさと秋田も、相当な揺れだったに違いない。
 カミさんは外出中。携帯へ電話したが、つながらない。何度もかけなおしたが、ダメ。近所のマンションでひとり暮らしの90歳(当時)義母はどうしているか。ここへも電話したが、聞こえるのは空しいコール音のみ。倒れちゃいまいか。
 後で確かめると、義母はその日、デイサービスに行っていて、施設の職員たちがしっかり面倒を見てくれていたらしい。さすがにプロは違う。僕のように、慌てふためいたりはしなかったのだ。

 そのほんの1週間前に実家の母親が亡くなり、小さな葬儀を済ませて東京へ帰ってきたばかりだったが、あの実家はどうなっているか? 何度電話してもつながらない。仙台には弟が住んでいる。ここへの連絡もつかない。
 実家の姉とは、その夜遅くに電話が通じた。家族は無事だったが、電気水道が止まったままだという。暖房も切れた。寒さの中の暗闇。姪の娘の幼稚園児を抱きしめながら、夜を過ごしているという。僕には「がんばれ」と言うしかすべがない。
 仙台の弟と連絡が取れたのは、翌12日の夕方だった。ここも電気ガス水道は止まったまま。とりあえず、家族に怪我はなかったということで良しとしなくちゃ。

 これが僕の、あの日の記憶。
 あなたは、あの日、どこで何をしていましたか?

 記憶を辿る―。
 僕は不安で仕方なかった。その日から、ツイートで呟き続けた。僕は編集者として、原発に関心を持ち、原発関連の雑誌の特集や単行本も作ってきた。だから、普通の方よりはほんの少し、原発については知っていると思う。だからこそ不安が増幅されたのだ。
 僕が書いた本『反原発日記 原子炉に風よ吹くな、雨よ降るな 2011年3月11日~5月11日』(マガジン9ブックレット、1000円+税)は、その当時の僕の生々しい不安のツイートに満ちている。
 たとえば、こうだ。

3月11日
 六ヶ所村で何かが起こっているらしい。六ヶ所村の情報が知りたい。六ヶ所村の再処理施設では「避難命令が出た」と言って、電話が切れたという。

 やはり、心配していた事態に。福島第一原発に重大な危険が。政府は緊急被害対策に乗り出さざるをえなくなった。これは、ほんとうに危ない。原子炉の緊急冷却ができない状況に。付近住民には避難命令の可能性も出てきた。

 何度も繰り返し、原発と地震について警告してきたはず。一度、災害が起きたら取り返しのつかないのが、原発事故のほかとは違うところなのだ。いまごろ分かっても遅い。でも、なんとか最悪の事態は避けねば…。

 福島第一原発に、原子力緊急事態宣言。事態はほんとうのところどうなのか? まだ避難命令は出ていないようだが、遅れてはならない。

 ついに、原発周辺2キロの住民に避難命令が出た! 不安が増す。政府はもっと詳しい情報を開示すべきだ。

 これが3.11当日の僕の呟き、というより悲鳴だ。当初、知人のジャーナリストからの情報では、六ヶ所が危ない、ということだった。ここの使用済み核燃料の保存量は膨大、原発の比ではない。もしここが破壊されていたら…と思うと、僕はゾッとした。処理工場などの脆弱さはかねてから指摘されていたからだ。
 実はここでも大きな揺れは観測されたが、なんとか危機的破壊は免れた。それが分かったのは、だいぶ時間が経ってからだった。
 僕はそれから連日、編集者時代に知り合ったジャーナリストや研究者などにできる限り連絡をとり、情報をかき集めた。
 初期のころは、情報の真偽を確かめる方法もなかった。だから、僕自身が価値があると判断したことを、どんどん呟いた。少しでも、読んでくれる人のためになればいいと思った。自分でも、冷静さを欠いていたこともあったと思う。だが、それでもかまわないと思っていた。僕自身がほんとうに怖かったのだし、それほどの未曾有の惨事だと判断していたからだ。当然、非難や批判もたくさん来た。

「反原発のオカルト論者」

「デタラメで不安を煽るプロ市民」(このプロ市民という意味がよく分からなかったが)

「政府・東電批判ばかりの陰謀論」

「スリーマイル島事故をみれば今回の事故はそんな酷くない」

「電気を止めて江戸時代へ帰れと言うのか」

「メルトダウンなどありえない」……。

 ここには書けないような差別用語満載の薄汚いものまであった。しかし、残念ながら事態は、僕の予測したような悪い方向へいくばかりだった。 
 なぜこんな的外れの批判が殺到したか。それはマスメディアに大きな責任がある。ことにテレビは事故当初、原子力ムラの学者連中を、毎日のようにコメンテーターとして画面に登場させていた。

「そんなに怖がることはありません。メルトダウンしているという情報は入っていません」

「海水注入による原子炉冷却は始まっていますから、収束は近いはず」

「放射能が怖いとやたらに騒ぐ人は、科学を分かっていないんですよ。自然界にも放射能はあるし、今回観測されている線量よりも、むしろそちらのほうが高いのです」

「レントゲン撮影を1回受けるより低い線量ですよ」

「飛行機でアメリカと日本を往復しただけでも、高空ではもっと高い線量を浴びてしまいますよ。だからと言って飛行機に乗るのをやめますか?」

「チェルノブイリと比較したって、10分の1以下の放射能洩れです」

「スリーマイル島事故は1週間で収束しました。福島もそれほど収束に時間はかかりません」

「放射能を危険だと騒ぎ立てる人を『放射脳』というんですよ」

「プルトニウムなんか、飲んだって無害です」

「年間20ミリシーベルトまでなら、浴びたってどうってことないんですよ。政府がそういっているんだから、政府に従うべきでしょう」……。

 これらは、実際にテレビで学者といわれる人たちが話したことだ。記憶している人も多いだろう。これらのたわ言は、すぐに化けの皮がはがれたのだが、それでも"刷り込み"というのは恐ろしい。あのころ繰り返しテレビで聞かされたこんな言葉をいまだに信じ込んでいて、原発再稼働とか原発新増設などと口走っている人もいるのだ。安倍晋三などはその典型だろう。
 僕への批判も、ほとんどがこれらのパターンの焼き直しだった。

 3月9日、10日。2日続けて、僕は反原発デモに出かけた。9日は明治公園に1万5千人。10日は日比谷公園~国会前・各省庁に4万人(いずれも主催者発表)もの人たちが押し寄せた。
 9日のデモでは、大江健三郎さんがスニーカーを履いていた。ご高齢にもかかわらず、今回はデモの最終地点まで歩く決意だったという。並んで歩いた落合恵子さんは「大江さんの足もとばかりを見ていましたよ」と電話で話してくれた。ほんとうの覚悟…。
 10日は、デモ出発直後に突然の天候急変。茶色の空と冷たい突風。だがそんなことにはめげず、ドラム隊やらサウンドカー、それにファミリー隊。バランスの取れた楽しいデモだった。
 さようなら原発1千万人アクションが行っている「脱原発署名運動」は、すでに820万人を超えたというし、首都圏反原発連合による「首相官邸前抗議」は実に45回に達したという。
 全国でも40ヵ所以上で、集会やデモが行われた。

 忘れてはいない人たちがこれほどたくさんいる。だが一方で、忘れてしまった人々、いや、記憶を封印して原発再稼働を口走る連中も多い。繰り返すが、安倍晋三がその典型だ。

 だが僕は忘れないし、忘れない人たちと連帯する。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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