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2012-06-27up

時々お散歩日記(鈴木耕)

98

紫陽花革命、潮目、野田の説明、
原子力基本法、核武装論、ふたつの自民党…

 先週も書いたことだけれど、繰り返そう。とても大きな動きが、東京というこの国の首都の、それもど真ん中で起きている。

 毎週金曜日に行われている「首相官邸前大飯原発再稼働反対集会」に僕も参加した。6月22日、僕の3度目の参加だった。
 この集会は「首都圏反原発連合」という、主にネット上で結びついた個人やグループの緩やかな連合体が主催しているもの。いわゆる組織動員などとは無縁だ。そんな個人主体のツイッターなどの呼びかけで、この4月から人々が首相官邸付近に集まり、官邸へ向けて「大飯原発再稼働ハンターイッ!」と声を上げ始めた。最初は数百人規模の小さな動きだったのだが、回を重ねるごとに人数は増えていった。
 特に、野田首相が「大飯原発再稼働」を宣言すると伝えられた6月15日には1万2千人、そして、その怒りが増幅された22日には、なんと主催者でさえ予想もできなかった4万5千人(いずれも主催者発表)もが、首相官邸周辺に押し寄せたのだ。
 これには警備に当たる警官たちも驚いた。最初は歩道のみに集合を限定していたのだが、それではとても追いつかず、午後7時過ぎにはついに車道の1車線分をデモ隊へ解放してしまった。つまり、警察自体も人数を読みきれないほど、人々が集まる状況なのだ。
 人々は、これを「紫陽花革命」と呼び始めた。すでにネット上で「紫陽花革命」はひとり歩きしている。だがマスメディアは、まだその言葉の持つ重さに気づいていない…。

 マスメディアは「原発事故への関心は風化しつつある」としきりに言い立てるけれど、いったいどこを見てそんなことを言うのだろう? 水戸黄門じゃないけれど「この人数が目に入らぬか!」。
 誰かがツイッターで「首相官邸よりも、マスコミ各社にデモをかけたほうがいいのではないか」と呟いていたけれど、そんなことをしても大手メディア記者の目は醒めない、多分。
 だって、この凄まじい数のデモは毎回、「国会記者会館」のまん前で行われているのだ。記者会館とは、国会や永田町の政治の動き(=政局)を取材する大手メディアの記者たちの根城だ。そこの記者たちがこの集まりを知らないわけがない。
 今回のデモでは、記者会館の出入り口にさえ多くのデモ参加者が殺到、会館へ出入りする黒塗りの大手メディア御用達のハイヤーも立ち往生する始末。だから、そのハイヤーに乗った記者たちは、みんなこの凄まじい人波を見ていたのだ。だが、見えていない。

 「国会記者会館」を使っているのは「政治部記者」が主体だ。政治部記者は、報道機関のエリートたち。彼らが興味を持つのは、すべて「政局」。どれだけ多くの人たちが抗議のために集まったとしても、そんな数には関心がない。
 彼らが追いかけるのは「小沢派の造反議員の数」や「反小沢派の切り崩し数」などだ。過半数割れの54人がどうしたこうしたが大問題。それを探ろうと、ひたすら努力を続ける。目の前で、数万人もの人たちが抗議の声を張り上げているのに、政治記者たちは議員らが集まっている豪華ホテルの前で右往左往。そんな連中が、やがて新聞社やテレビ局の中枢にのし上がっていく。
 ネット情報が緻密な網を張り巡らし、その網がこれだけの人数を掬い取っていることに、特に政治記者たちは、なぜか今も気づかない。報道が我々の感覚とずれていく理由がここにある。

 官邸前抗議に集まる人たちの感覚が微妙に変化していることに、だから、これら政治記者たちは気づけない。
 この官邸前集会の目的は、当初はあくまで「大飯原発再稼働反対」だった。だがこの22日の集会では、そのシュプレヒコールが「再稼働反対」から「野田やめろ!」に変わってきていた。これは微妙だが、しかし極めて重大な変化である。原発再稼働反対から野田内閣打倒へ。
 ある個別の事象をめぐる問題が、政治課題に転化してしまったことを意味する。もはや野田が何を言おうと関係ない。お前は辞めろ、という人々の意志表示。
 それは、6月24日に行われた野田の地元、千葉県船橋市でのデモにも現れていた。このデモを新聞は「再稼働撤回を求める市民らのデモ」(朝日新聞6月25日付)と書いたのだが、それに対しツイッターなどでは即座に「これは再稼働反対デモじゃない、野田やめろデモなんだ」という反論が溢れたのだ。
 政治記者たちの大好きな用語で言えば「潮目が変わった」のである。原発問題が、ついに政権打倒への国民運動となりつつある瞬間を、政局しか念頭にない政治記者は察知することができない。
 今からでも遅くはない。国民の政治意識の変化を、国会という狐狸どもの棲家から離れて観察してみればいい。中には鋭敏な嗅覚を持っている政治記者もいるのだから、気づくはずだ。そして、それを政治家たちに伝えることで、政治の質を変えさせていく。本来の政治記者のやるべき仕事ではないかと、僕は思うのだが…。

 野田(筆者注・僕は再稼働に関してあまりに無責任な発言を繰り返すこの男に怒り心頭、この男にはもう敬称も肩書きもつけないという「野田呼び捨て宣言」を先週してしまったので、今回も呼び捨てで書く)は、さすがに、自分の首筋が寒くなっていることには薄々気づいているようだ。こんな言い訳をしている(朝日新聞6月26日付)。

 関西電力大飯原発の再稼働をめぐり、野田佳彦首相は25日の衆院消費増税関連特別委員会で「毎週金曜日、官邸周辺ではデモが行われ、シュプレヒコールもよく聞こえている」と述べた。社民党の阿部知子氏らが「国民に不安や怒りが渦巻いている」とただしたのに答えた。(略)
 「先週末もあった。私の地元、船橋でもある」と指摘。「国民が去年の原発事故を踏まえ大変複雑な思いを持っていることは十分承知している」とも語った。そのうえで「国論を二分するテーマでも、判断するのが政府の役割だ。折にふれ説明していきたい」と述べ、理解を求めていく考えを示した。

 つまり、僕なりに要約すれば「聞こえてはいるが、聞く耳は持たない」ということだ。
 物理的に「声」は確かに首相官邸まで届いた。しかし、その「声の中身」が変わりつつあることには考えが及ばない。前述したように、大飯原発再稼働反対が、野田打倒に転化したということに、まったく気づいてもいないのだ。
 そんな鋭敏な神経など、野田が持ち合わせていないのは承知だが、それにしても、この答弁だって無内容の見本じゃないか。 「国民の複雑な思い」とは何か? 複雑でも何でもない。原発の安全性への不安、事故への恐れ、政府・電力会社への不信、それだけだ! それを「複雑な思い」などとごまかし、「折にふれ説明」していくという。じゃあ、これまで一体どんな説明をしてくれたんだ!?

  1. 一次ストレステストを終えたから原発は安全。
  2. 福島級の地震や津波にも十分に耐えうる。
  3. 国民生活を守るために再稼働が必要。
  4. 今夏の節電を国民に要請する。
  5. だが稼働は節電が必要な時期を過ぎても続ける。
  6. 産業界の要請には応えなければ日本経済が破綻する。

 とりあえず、野田が口走ったのはこれだ。どれひとつ、検証されたものはない。あの原子力委員会の班目委員長ですら「間違っていた」と言明した「原発安全神話」の単なる復活でしかない。
 ①や②を、どれだけきちんと検証したのか。検証を終えたというのであれば、福島事故の原因とは何だったのかを、国民すべてが納得できる言葉で野田自らが説明すべきだろう。首相という国家の最高責任者が説明できないものを、国民が納得できるわけがない。
 ②もいい加減だ。百歩譲って福島級地震には耐えられたとしても、もっと違った震災、たとえば大飯原発の真下を走るといわれる破砕帯による「直下型地震」が起きたらどうするのか。関電は、その破砕帯の存在を確認できていない。いや、確認することすら拒否しているではないか。
 ③にもさまざまな疑義が出たが、野田は関電と官僚の説明を鵜呑みにしただけ。そして④の節電要請。だが、今夏を乗り切るためであれば、節電の必要がなくなる秋に入ったら、もう一度稼働を停止するのが当然だろう。それは⑤のように、理由も示さず拒否。デタラメの極致である。

 デタラメ極まるのは野田だけではない。しきりに野田を責めたてる自民党だって、むろん同じ穴の狢(むじな)だ。そして、その自民党の悪しき修正案をほとんど検討することもなく丸呑みにしてしまう政府も同様、狢以下のモグラ並み。
 何も消費増税案だけじゃない。いや、考えようによってはもっと酷い修正がなされた法律が、易々と国会を通過してしまった。「原子力規制委員会設置法」である。東京新聞が6月21日付の紙面のトップで「原子力の憲法、こっそり変更、軍事利用への懸念も」と報じてくれたことで、明るみに出た。
 これについて、毎日新聞のコラム「風知草」(25日付)で山田孝男記者が書いている。

 (略)増税3党合意の陰で「原子力基本法」が書き換えられた。核武装に含みを持たせたと取れる文言が加筆された。別の法律の付則で基本法改定を決めてしまうという姑息な形で。(略)
 問題の法律の名は「原子力規制委員会設置法」という。なにしろ早かった。民自公3党の修正合意を経て法案が国会に出たのが15日。成立が20日だ。原発再稼働をにらみ、規制委の発足を急いだわけである。(略)
 日本核武装の布石ではないかと疑われた文書とは何か。基本法2条(基本方針)に、こう書いてある。原子力の研究、開発及び利用は平和目的に限り「民主、自主、公開」の3原則に基づいて進める(大意)。その2条に第2項を加え「安全保障に資することを目的として」という文言を織り込んだところが条文修正のミソである。(略)
 自民党からこの案が出たことは驚くに当たらない。戦後、日本核武装への期待を非公式に語った政治家、官僚はいくらでもいる。表向きは非核の理想を掲げつつ、いつでも持てる「潜在保有国」であることが経済大国の心の支えだった。
 では、暗黙の了解だった「潜在的核保有国」の自負を表に出す理由は何か。旧知の官僚の解説を興味深く聞いた。
 「六ヶ所村(の核燃料再処理工場=青森県)でしょう。脱原発が進めば、あの施設は意味を失う。核物質の軍事転用に備えるという意義を法律に入れておけば存続可能です。そう考えた自民党の議員と、手伝った役人がいたと思いますね」(略)

 とても分かり易い。簡単に言えば、核武装論の自民党と官僚に、民主党が手玉に取られ、わけの分からないうちに、日本の原子力の基本法が捻じ曲げられてしまった、ということだ。

 少し経緯を調べてみると、その筋道が浮かび上がる。
 民主党は、当初「原子力規制庁設置法案」を提案したのだが、自民公明は「規制庁では独立性が担保できない。より独立性の高い規制委員会にすべき」として反対。つまり環境省の外局扱いだった「規制庁」から「委員会」へ変更するよう要求したのだ。
 とにかく「大原発再稼働」を急ぎたい野田は、中身もよく確かめずに、細野豪志原発事故担当相に「3党修正協議に入るよう」指示。それを受け、細野氏はあっさりと、政府案にはなかった「安全保障」の文言を入れることに合意してしまった。
 6月20日の参院環境委員会で、細野氏は、共産党の市田忠義議員の質問に対し、こう答弁した。
 「自民党のみなさんの考え方としては、セーフガードが加わりますので、それが加わるということで、安全保障というのを入れられたのではないかと思います」
 ほとんど意味不明の答弁。要するに、深く考えての修正ではなかったことが露呈している。
 さらに、21日の記者会見での藤村修官房長官の答えはこうだ。
 「我が国の原子力平和利用の原則、非核3原則の堅持は、いささかも揺らぐものではないし、政府としても、何か、軍事転用などという考えは、一切持っていません」
 これも、意味不明の答えだ。
 「原子力平和利用の原則、非核3原則の堅持がいささかも揺るがない」のであれば、なぜ唐突に「安全保障に資する」なる文言を、「本章」ではなく「付則」という隠れ蓑を利用して紛れ込ませたのか。これまでの条項で何の不都合もなかったはずだ。答えになっていない。
 何かを修正する、もしくは付け加える、ということには必ず何らかの意図がある。意図がないのなら修正も付加も必要ないはずだ。
 民主党は、残念ながら「お子さま政党」であることを、次々に露呈していく。それを利用して自民党は、古くて危ない政策をいともたやすく実現し始めたのだ。

 大騒ぎの挙句、6月26日、消費増税法案が国会を通過した。むろん、ほくそ笑んでいるのは、自民党である。自らは手を汚すことなく、少し脅しつければ、野田がどんどん自民党の古証文を実現してくれる。こんなやりやすい政治はない。
 消費増税は自民党がやりたくて仕方なかったことだし、「原発」は自民党政治が残した凶悪なツケだ。だから、とても正面切って「再稼働」などとは言い出しにくかった。それなのに様子を見ていたら、頼みもしないのに、それを野田がやってくれる。ヨダレが垂れるほど嬉しい。
 そして多分、次の選挙で野田民主党はボロ負け、政権の座から滑り落ちる。熟柿がポトリと落ちてくるのを自民党は口をあけて待っていればいい。こんな美味しいことはない。

 何のことはない。大騒ぎの「政権交代」の後に、自民党がふたつできちゃった、という淋しい結論…。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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