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2011-12-14up

時々お散歩日記(鈴木耕)

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「除染」は「移染」である

 街には冷たい風が吹いている。時折、枯れ葉が風にあおられて舗道に舞い上がる。こんな年でも、きちんと冬は訪れた。
 東京は、陽射しがあれば暖かい。けれど、僕の古里からはすでに雪の便り。被災地にも雪が舞い始めただろう。枯れ野が白い野原に模様替えするのはもう間もない。

 真っ白な雪。まるですべてを浄化してくれるように大地を覆う。それがこれまでの雪のイメージだった。けれど今年の雪は、美しい白さの中に、量は分からないけれど人間を壊す毒物を含んでいるだろう。
 雨は地下に浸み込み、川に集まり、やがて海に達する。放射性物質は地上にとどまる量も多いけれど、雨水の多くは海へ流れ込む。流れた分だけ、放射線量は減衰する。しかし、雪はそうはいかない。雪は降り積む。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ

(三好達治『雪』)

 静かに、子どもたちを眠らせて、雪は降る。ふっくらと、屋根を丸く包み込んで、雪は家そのものまで眠らせる。
 雪国育ちの人たちは知っているだろうけれど、雪の夜はほんとうに静かだ。あらゆる音が雪に吸い込まれる。静寂の中に、家も町も人たちも沈みこむ。街灯の周りだけが白く煙り、家々から漏れる微かな光で、辺りは仄明るい無音の世界。
 音のない幻想世界に、ふうわり浮かぶ白い起伏。白い幻は、今でも僕の記憶の中に、静かなまま…。
 太郎の家にも次郎の家にも、そして、畑にも田んぼにも森にも野原にも、雪は降り積む。雪解けは春4月。それまでの数カ月、大地を覆う雪は、哀しいことながら放射性物質を抱えたままだ。雨水のようには流れない。雪は放射能を凍りつかせながら、春までそこにある。
 幻想の裏側に、放射性物質の堆積という考えたくもない現実が存在する。現実が幻想を超えてしまった。放射能が美しい人々の記憶すら汚したのだ。

 福島県の12市町村では、12月の初めから「除染」が始まった。
 たとえば原発立地の大熊町役場。福島事故原発から、たった5キロしか離れていない。この役場でも、国のモデル事業としての「除染作業」が行われている。それは、まるでSF映画のような光景。
 白い防護服で全身を覆い、顔面もヘルメットとすっぽりと呼吸器の付いたマスク、さらにカバーで覆った靴の作業員たち。そう、ダスティン・ホフマン主演の映画『アウトブレイク』の不気味なワンシーン。それが、映画ではなく現実の光景として、我々の前にある。
 テレビで観た光景。作業員たちは、高圧洗浄機で屋根やコンクリート床を洗い流す。水煙りがあがり、作業員たちの姿が霞む。
 これは国のモデル事業、ありていに言えば「除染実験」だ。床面を2メートル四方に区切って、水とお湯、金属ブラシとナイロンブラシなどを使い分け、それぞれにその効果のほどを検証していくのだという。ほんとうにそれで放射線量は軽減できるのか、という疑問は残る。やらないよりはましだろう、とは思うけれど。
 疑問はまだある。放射性物質を洗い流した水は、当然のことながら高い放射線量の汚染水となる。ではその汚染水はどこへ行くのか。なんと、作業現場へ持ち込んだトラックの荷台上のタンクと濾過装置がその答えだ。つまり、一度使用した洗浄水をタンクへ送り、それを濾過して再利用するというのだ。濾過装置のフィルターで、放射性物質を取り除くわけだ。そのフィルターはどうするのか。残念ながら、その答えはない。
 むろん、使用した洗浄水をすべて回収再利用できるわけではない。多くは側溝や地下を通って、最終的には海まで流れていく。放射性物質は、毒性はそのままに場所を移動していくだけだ。

 僕は「除染」という言葉に、根本的な疑問を持っている。「除」とは「取り除く」ことだ。だが、この除染作業からも分かるように、放射性物質は「取り除かれた」わけではない。ある場所から別の場所へ「移動」しただけだ。それが海という広大な場所ではあっても…。
 ならば、他の場所でも書いたことだけれど、いま国や自治体が行っているのは、言葉の正しい定義での「除染」ではない。それは「移染」とでもいうべき行為だ。「帰郷」を切望する住民たちや、それを支援する人たちへの言い訳かポーズにしか、僕には見えないのだ。
 更に疑問。この「除染」は、ほんとうに放射線量を軽減させるような劇的効果を持っているのか?

 やや古い記事だけれど、『週刊プレイボーイ』が、次のように伝えている。全文は、こちらで読めるが、少しだけ引用する。

 (略)チェルノブイリの特別規制ゾーンとは、日本では福島第一原発から半径20キロメートル圏の警戒区域に当たる。5ヶ所の土壌測定を行った山内和也神戸大学大学院教授はこう語る。
 「最も高い数値を出したのは(福島市)渡利地区の薬師町内の水路で、30万7565ベクレル/キログラムでした。東京都に示された環境省の基準では放射性物質を含んだ焼却灰は8千~10万ベクレル/キログラムの範囲で、かつコンクリートで固められたものに限り埋設してもよいと定められていました。コンクリートで固めて10万ベクレル以上は埋設もできない渡利地区にはその3倍以上の放射能の土壌がむき出しの状態で放置されているのです。子供と一緒にここに住んでくださいといわれても、私はハイとは言えません。渡利地区の住民は今すぐにでも避難させるべきでしょう」
 山内教授によると、渡利地区は背後に弁天山など、山林を抱えているため、雨のたびに汚染された泥や葉っぱが流れ込み、それが乾燥してさらにセシウムが凝縮されているという。(略)

 汚染された山林などを「除染」するのは、ほとんど不可能だと山内教授は言う。素人の僕だってそう思う。あの広大な山の森の枯葉や腐葉土を、どうやれば「除染」できるのか。ほんの数百~数千坪の平らなコンクリート造りの役場や学校ですら、作業には数カ月と膨大な費用を要するというのに、腐葉土に染み込んで洗い流すことなど困難な放射能にどう立ち向かうのか。
 枯葉に付着した放射性物質が、雨とともに山を下って町へ流れ込む。山林すべてを「除染」することなど、常識的に考えても無理だ。山林が放射能を溜め込んでいる以上、いくら町の道路や家屋を「除染」したところで、ひとたび雨が降れば元の木阿弥、シーシュフォスの神話と同じこと。低地は山からの水で再び汚染される。
 かつては、恵みを大地にもたらした雨、地下水が、いまや汚染源となって人々を苦しめている。その原因を作ったのは誰か、それは言うまでもない。
 さらに山内教授によれば、古くなったコンクリートには無数の微小な穴があり、そこに入り込んだ放射性物質は、高圧洗浄などでも容易には洗い流せないという。「除染」の効果に対する根本的な疑問である。

 山内教授の言うように、高濃度汚染地域にいまだに住んでいる人たちは、一刻も早く避難させるべきだ。住み続けながら除染を行うというのは、言葉は悪いけれど、住民を放射能の影響の研究対象(モルモット)としか見ていないのではないかとさえ、僕は思ってしまう。
 国のやることを、こんなふうに批判し続けなければならないということは、ほんとうに哀しい。
 「お前は物事を斜めに見るのがカッコいいとで思っている。国を批判してエラソーな気分になっているだけだ」と、ツイッターで僕を非難する人もいる。だがそれは違う。現在のこの国のあり方に対する批判は、もう僕個人の資質のせいではない。実に多くの国民が、もはや政府の言うことを信じていないのだ。自分の身は、そして自分の家族の身は、自分で守るしかないと思い始めた人たちが、どれほど多いことか。

 たとえば朝日新聞(12月13日付)の世論調査によれば、原発反対57%、賛成30%という結果だという。しかも、これまで賛成が多かった男性でも、賛成43%、反対49%と逆転した。
 「会社こそが社会である」と思い込んでいた男どもも、ようやく自分の足元の放射能汚染に気づき始めたのだ。多分それは、泣きたい思いで子どもを守ろうとしている母親たちの動きに感化された会社人間の父親たちの、初めての「目覚め」なのだと思う。

 あの震災と原発事故から丸9ヵ月。この国のあり方は、ますます酷くなっているとしか見えない。人々の恐れと脅えと不安と不満、そろそろ限界にさしかかっている。
 それを実感したのは、12月10日の東京・日比谷野外音楽堂で行われた「さようなら原発、1000万人署名運動」の集会と、それに続くデモだった。会場は小さく、参加者は5500人と発表されたが、この日の特徴は静かな怒り。
 個人的なことになるけれど、僕の姪が千葉県に住んでいる。彼女の住まいの周辺にもホットスポットが存在するという。会場でスピーチを聞いていた僕にメール。その姪からだった。なんと、会場に来ているという。それも、高2の男の子から4歳の女の子まで4人の子どもを連れて。
 彼女は、ごく普通の主婦である。政治的な意見など聞いたことはないし、市民運動に加わったこともない。しかし、もう黙っていられなくなった。この4人の子どもたちを守るのは自分しかいない。毎日の食事に、なぜこんなにも心配しなくてはならないのか。さっきのスーパーでの安売り食品は、果たして大丈夫な放射線量の値なのか。そう思ったら、いても立ってもいられなくなったのだ…。
 彼女は日比谷まで、4人の子どもたちと出かけてきた。デモでは、高2の長男が、弟妹の足どりを気遣いながら「原発いらなーい」と叫んでいた。他にも、子連れの母親や若い夫婦が目立っていた。これから子どもを産む世代の女性たちのグループも多く見かけた。

 ささやかな希望の芽が、ここにもあった。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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